落葉 Ⅵ

 安産であったとは信じがたい苦しみの末、シグディースが産んだのは男児であった。早産で・・・生まれたにしては、赤子であるということを差し引いてもふくふくとした手足。及びふっくらとした頬をした息子は、生まれたその日に父の膝に乗せられ、イジュスヴァルという名を与えられた。シグディースはその時疲れて眠っていたので、実際にこの目で確かめたわけではないのだが。聴いたところによると、望んでいた息子が生まれた喜びに、ロスティヴォロドはしばし目を潤ませていたという。

 イヴォリ人の風習では、膝に乗せて嬰児に名を付けるとは即ち、自分の子であると認めたのと同義である。もっとも息子に与えられたのは、エレイクの一族の三代目であった故イシュクヴァルト大公からの伝統に倣って、サグルク人の名前なのだが。

 息子は生まれて三日目には聖堂に連れていかれ、天主の徒として認められた。赤子の死は、哀しいがありふれた出来事だ。生まれて二月余りの、よく乳母の乳を呑みよく眠る、健康そのものの子とて、どうなるか分からないのである。だからこそ、赤子は生まれてすぐに神の僕とされたのだ。身罷っても確実に楽園に逝けるように。

 イヴォリ人の風習の一つでサグルク風の名を付けられた子が、遠い西南の地から伝来してきた神の信徒として生きる。ごちゃまぜにもほどがあるが、この国らしいかもしれなかった。

 シグディースとロスティヴォロド双方の祖の故地は、大陸中部の北に突き出ている半島である。けれどもその地は隣り合って暮らしていた異民族の流入と、更にその異民族を支配下に置いた大帝国の侵略を受けた。

 先祖は、故郷を奪った異民族に倣って、自由と引きかえにした栄華を享受するを良しとしなかった。ために船に持てる限りの財産と家畜を積んで、この氷雪と森林の地に入植したのである。

 現在のイヴォリ人には、離れ荒れ狂う灰色の海を越えてまで、故地を取り戻すつもりなど欠片もない。そんな無謀を犯すよりは、原住民と文化的にも流れる血潮をも混ぜ合わせながら生きてゆく方が楽だからだ。

 だから息子は、自分と同じイヴォリ風の名前ではなく、この地の名前を与えられて良かったのかもしれない。髪のみならず瞳も自分と同じ色をした、けれども顔立ちは夫に似た我が子を抱きながら、シグディースは珍しくつらつらと思考に耽っていた。

 今、ロスティヴォロドは大公邸にいない。

 ロスティヴォロドは、早産で生まれた・・・・・・・息子の誕生を神に感謝し、また恙ない成長を祈願するために聖堂を建てると決定していた。ために、聖職者や建築家たちとの話し合いに赴いているのである。なんでも、これまでにイヴォルカで作られたどの聖堂よりも――西南の帝国のものと比較しても、遜色のないものにしたいのだとか。当然、大きさだけでなく装飾においても。

『どうせ嘘を付くなら念入りに、派手にした方が面白いだろ?』

 出かける前、片目を瞑りながら笑いかけられた際は、そう感じるうつけはそなただけであろうと返したくなった。だが眠る赤子の絹よりも滑らかな頬をそっと撫でる彼の横顔を見ると、何も言えなくなってしまったのだ。

 天主正教を正式に受け入れてからまだ二十年足らずのイヴォルカで、シャロミーヤ式の聖堂を建造するのなら、どうしてもあちらから職人や材料を仕入れる必要がある。その過程で、彼の地の進んだ文化がより一層齎されるのなら、喜ばしいことだろう。

「どうしたのかえ?」

 腹が減ったのだろうか。不意にぱっちりと目を開けた我が子は、むっちりとした手を振り回した。

 赤子が枕にする胸は、産んだ直後は岩さながらに張っていたのだが、既に柔らかくなっている。求める糧を与えられず、気分を害したのだろう。息子はとうとう子猫のような声を上げて泣き出したのだが、乳母の足音は聞こえてこない。

 赤子が小さな顔をくしゃくしゃにし、まだ僅かにしか形成されていない自我を訴える様は可愛らしい。一方で胸をいささか締め付けるのも確かだった。

 折角産んだのだから、どうせ出ないにしても一回ぐらいは、乳房を含ませるのもよいか。そうしたらこの子も機嫌を直すかもしれない。ふとした思い付きに駆られた女は白桃のごときふくらみを露わにし、まだ歯も生えていない口に咥えさせる。

「お前はいいな、イジュスヴァル。俺なんて、あとどれぐらい乳吸うの我慢しなけりゃならねえのか分かんねえんだぜ」

 すると息子は大人しくなったのだが、戯言が背後から聞こえてきた。なのでシグディースは反射的に子を抱えていない方の腕の肘を、ある意味赤子よりも手がかかる男の腹にめり込ませてしまった。

「そ、そなた、一体いつ戻ってきていた!?」

「今さっき」

 つい力を入れてしまった腕の中の我が子は、異変を察知して先程よりも大きな声で泣きだした。折角大人しくなっていたのに。

 腹立たしさに駆られ、鞣し革の長靴の爪先を全体重を乗せて踏みつけても、目の前の男はびくともしない。むしろ余裕たっぷりの笑顔を浮かべて、シグディースを見下ろしていた。

「ほら見てみろ、イジュスヴァル。お前のお母さんは怒った顔も綺麗だろ?」

 ロスティヴォロドは泣き喚く赤子を、硬直した細腕からそっと取り上げる。そうして己の逞しい胸に抱くと、小さな身体を揺らして泣き止ませ、寝かしつけてしまった。ロスティヴォロドの胸板よりも、シグディースの乳房の方が寝心地がいいはずなのに、一体なぜ。

 口惜しさのあまり揺り籠に赤子を戻す男の広い背に、槍めいた視線を投げかける。すると涙の痕が残る赤い頬に接吻を落とした男は、苦笑しながら振り返った。

「お前さあ、とっととその乳仕舞った方がいいんじゃねえの?」

 思いがけない言葉に釣られて視線を落とすと、確かにシグディースの上衣は肌蹴たまま。二つのふくらみは丸出しだった。

「そ、それを早う言わぬか!」

 慌てて前を直すと、何をそんなに慌てるのかと、軽やかであるがゆえに腹立たしい声がかけられた。確かにシグディースはこの男に胸を見られるどころか、揉んだり舐めたりと様々弄ばれた。その結果として子を宿し、生み落としもした。だが、それとこれとは全く別の問題なのだ。

「痴れ者め。いつか覚えておれよ……」

「またそれかよ。実は俺さっきから、押し倒したくなってんのを頑張って堪えてたんだから、褒めてほしいぐらいなんだけどな」

「はあ!?」

 勝手に欲情したくせに何を言うのか。激高した女は、大公になってから伸ばした髭が野性的な趣を添える面に、嫋やかな手を打ち付けんとする。

「ほら、お前のせいでこうなったんだぜ」

 だが細い手首を掴まれ、抗いがたい力で硬く熱を持ったものに触れさせられた途端、雪をも欺く頬は薄紅に染まった。幾度となく褥を共にしたが、その際はロスティヴォロドがシグディースを好きにするばかり。シグディースがロスティヴォロドに触れるなど、数える程しかなかったのだ。

「産んで二か月だろ? そろそろ、また夜一緒に寝てもいいんじゃねえか」

 同衾はシグディースがこの男の妻であり、また身体を好きにさせる見返りとして刃を持つのを赦された以上、避けてはならない道だった。それでも、どくどくと脈打つ欲望を再び咥えこむのは、ほんの少しだけとはいえ恐ろしいのだ。悪阻や陣痛に後産といった、新たな生命を生み出す過程に伴う苦しみを味わったがゆえに。

「ま、いいか。そういやお前、まだ生理も始まってないもんな」

 シグディースの身体の細々とした事象までロスティヴォロドに把握されているのは、恐ろしくもある。子作りに密接に関わる事柄であるから、女奴隷の誰ぞが報告でもしているのだろうが。

 とりあえずは恐怖を免れ安堵する一方、振り切ったはずの憂慮に追いつかれる日に不安を募らせていると、身籠る前よりも肉が付いた臀部を一撫でされた。

 一体何のつもりだと呆気に取られていると、シグディースは瞬きする間もなく逞しい腕に抱えあげられていて。致し方なく引き締まった首にしがみ付くと、ロスティヴォロドは寝室に向かって歩み出した。

「……私はまだ月役が再開しておらぬのだが」

「んなこと分かってるに決まってんだろ」

 女がゆるやかな癖のある銀灰の髪に隠れた耳の側で囁いたのは、皮肉とも質問ともつかない、あるいはそのどちらでもある文句だった。だがロスティヴォロドは呑気そのもの。途中最初に出会った女奴隷にイジュスヴァルの様子を見ておけと言いつけるなどしていて、シグディースの当惑に気づいた様子は全くない。

 とうとう辿りついてしまった夫婦の寝室の、水鳥の羽毛が詰められた寝台は、相変わらず雲を連想させる柔らかさだった。それでも困惑に強張った四肢は解きほぐされない。

 一体何が始まるのかと鼻歌まで歌い出した男をねめつけていると、未だ熱を持っていた男の徴が曝け出された。ほとんど鼻先に突き付けられた赤黒いものは血管が浮いていて、直視しがたい迫力である。

「さっきのお前の質問への答えなんだが」

 いっそ逃げ出すべきかと迷うシグディースを楽しげに見下ろす男は、先ほど投げかけた言葉に隠した意味をきちんと察していたらしい。

「その、なんだ。男の欲望ってのは、なにもでなくとも発散できはするんだ」

 そんな良い方法があるのなら最初から教えてくれればそうしていたのに。などと安心していられたのは一瞬だけだった。

「だから、ほんの少しの間でいいから、の方でさせてくれねえか?」

 予想を遙かに超えた囁きに停止した思考は、唇に押し付けられた物体が口内に侵入してきてもそのままだった。妊娠中、どうしてもと頼まれ指を使ったことはあったが口で、とは。

「で、舌を動かしてくれ」

 太い棒で喉を圧迫される息苦しさは耐えがたく、凍り付いた頭では、低い声で告げられる指示への反抗など思い付きもしない。

「あー、やっぱ元とはいえお姫様はこんなことさせられるの嫌だよな」

 悪かったという言葉とは裏腹に、シグディースの口に押し込まれた物体は更に大きくなっていった。いつの間にか家族以外の男の目から髪を隠すための布は取り外されていて、月の金色が露わにされている。癖のない髪を梳く指の動きは優しかったが、強いられている行為はとんでもなく淫らで屈辱的だった。確かにこれなら、普通に房事をした方がよかったかもしれない。

 かように無様な私の姿を見たら、死者の国の父上たちはなんと嘆かれるのだろう。

 我が身のあまりの不甲斐なさに、目元から雫が一滴零れ落ちる。すると、顎が外れんばかりに膨張していたものが、ずるずると引き抜かれた。そして恥辱の時の終わりに安堵の溜息を吐いた瞬間、涙に濡れた顔に温かで粘り気のある液体がかけられたのである。サグルク人の神話の月の娘のようだと睦言で囁かれた顔に。

「あ、悪い」

 悪いなどとは一欠けらも考えていないに違いないロスティヴォロド曰く、口内で出すのは流石に申し訳ないから、爆発寸前で引き抜いたらしい。だが、その気づかいが却って裏目に出てしまったのだという。

 反射的に目蓋を降ろしたから、生臭い液体は目に入りはしなかった。が、髪や上衣にまで飛び散った液体は、中々落ちそうになかった。こんな結果になるのなら、いっそ口の中に出してくれれば良かった。そうして呑みこんでしまえば、何もなかったことにできたのに。

 怒りを込めた目でさっさと衣服を直した男を非難する。見上げた顔は妙に満足そうなので、ますます腹が立った。

「そんな怒るなよ。すぐ奴隷を呼んで綺麗にさせるから、な?」

 それもそれで嫌だから待てとシグディースが叫ぶ前に、ロスティヴォロドは飛び出してしまって。

 連れてこられた数人の女奴隷は、汚れた衣服を取り換え髪を濯ぐ間、予想通りの眼差しでシグディースを蔑んできた。自分たちの結婚の経緯からして、シグディースが顔と身体を利用して、ロスティヴォロドを唆したのだと認識している連中だ。今回の事件だって、シグディースが自分から淫らな行為に及んだのだと、最初から決めつけているのだろう。

 顔や髪はすっかり清められたというのに、大勢の従士の前で憎むべき男に初めて抱かれたあの時よりも汚されたような気がしてならない。精神的に疲れ果てた女は、虎の毛皮の下に隠しておいた短剣と燃え盛る復讐の炎を抱きしめ、午睡の誘惑に身を委ねたのだった。

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