落葉 Ⅴ

 落葉の上に雪がうず高く降り積もり、全てが白に閉ざされる頃には、シグディースの腹はすっかり大きく突き出していた。

 立ち上がるのにも難儀する日々だが、悪阻が終わったのは喜ばしい。もっとも腹の子に胃を圧迫されているため、一度に沢山食べられないのは同じだったのだが。それでも、極寒の日に焼き立ての麺麭を暖炉ペチカの側で頬張ると、腹の子も喜んだ気がしたのだ。赤子は春の初め頃に生まれるそうだから、あらゆる意味で雪解けが待ち遠しい。

 今頃、ロスティヴォロドは従士たちと共に狩に興じているのだろう。狙いは狐らしいが、黒貂が獲れたら毛皮で赤子の帽子を作ろうかなどと呟いていた。

 イヴォリ人の入植前からイヴォルカの特産品であった黒貂の毛皮は、税の一つとして大公に納められる品でもある。ゆえにロスティヴォロドは自分で捕まえずとも、それこそ暖炉の側で椅子に座っていても、黒貂の毛皮を手に入れられるのだが。

 毛皮を目的とした狩は冬季に行うべきだとされている。人間とは異なり長く厳しい冬を屋外で過ごす動物たちは、骨身にまで沁みるどころか時に肉を凍らせる寒さから身を守るべく、毛をより密にするからだ。

 また、夏よりも冬に獲れる毛の方が装飾的な価値があるという事情もある。例えば兎が夏と冬とで、地味な褐色から眩い純白に衣替えするように。だからといって幾ら趣味とはいえ、気を抜けば膝まで呑みこまれる雪原にまで赴かずともよいものを。

 毛皮が欲しいのならば、家臣に申し付ければそれで済むだろうに。だのにロスティヴォロドはわざわざ、矢が入ったえびらを背負って行った。あの男は本当に変わっている。

 熟練しているとは称しがたいものの、ほどほどに指先に慣れてきた針を操り、小さな小さな衣服を形にする。一時は妊娠に伴う心身の不調のため鳴りを潜めていた復讐の炎は、暖炉の中、煉瓦と粘土に隔てられた焔さながらに燃え盛っていた。

 細い手を当てた腹の中で微睡む子が世に出、元の身軽な身体に戻ったら、シグディースは再び刃を握ろう。そうしていつの日か、南の騎馬民族あるいは貢税を渋る先住民との戦いの痕が刻まれた身体に、決して癒えも消えもしない傷を刻む。刃を食いこませるのは、ロスティヴォロドの首になるか胸になるかは分からない。だが溢れる血潮はきっとシグディースの婚礼の衣裳よりも紅いのだろう。

 宿願をついに果たした様を想像し、凍てついた花のごとき顔をほころばせていると、幽かな冷気に頬を撫でられた。扉が開かれる音に釣られて振り返る。すると、居室の入り口には被った帽子のみならず、がっしりとした肩にまで雪を積もらせた男が立っていた。

「大して獲れなかったけど、吹雪いてきたから帰って来たわ」

 などとぬかす割りには、ロスティヴォロドは腰に大きな毛玉を一つ下げていた。自分たちの婚礼の前に刈り取られた穀物ではなく、炎を連想させる輝きを放つのは、狐であった。しかも幼子の外套ならばこれ一匹分で仕立てられようかという、大きな狐である。

「これは見事だのう」

「だろ?」

 せり出した腹に手を当てゆっくりと立ち上がったシグディースに、ロスティヴォロドが向けた笑顔は眩しかった。

 外には一歩も出ていないのに、雪が弾く陽光に焼かれたかのごとく疼く目と心に気付かぬふりをして、橙色の毛に触れる。

 狐の毛皮は赤に近く、色にくすみがないものほど上等とされているが、シグディースもここまでのものを目にするのは初めてだった。この尾が一面の銀世界で翻る様は、舞う炎さながらであったろう。西南の帝国に持っていけば、さぞかし高値で売れそうだった。

「お前の襟巻にしたらどうだ? 余ったら服の裾や袖に縫い付ければいい」

「私の防寒具はもう十分すぎるほどある。ややこの毛皮外套にでもすればよかろう」

「子供の、なあ。それこそすぐに着れなくなるに決まってるぞ。それにこの狐だって、しばらくは泣き喚くことしかできないガキの涎塗れになるよりも、お前みたいな美人の首に巻き付けてもらった方が喜ぶさ」

 結局のところシグディースの物になることとなった狐を従者に渡す。そうしてロスティヴォロドは次に、シグディースの膨らんだ腹に、とりとめもない日常を語りかけ始めた。

 このところのロスティヴォロドの日課は、彼がどれだけ子の誕生を待ち望んでいるかという顕れでもある。己が後継者たり得る男児かもしれない腹の子に、ロスティヴォロドが期待をかけるのは理解できた。しかし、子を育む入れ物に過ぎないはずのシグディースに、細やかな気遣いや甘い言葉を差し出してくるのはなぜなのだろう。シグディースが普通の女であれば、自分は彼に愛されているのだと錯覚していたに違いない。

 懐妊中は身体がむくむものだと聞けば、自ら妻の手足を揉み解す夫など、探しても他にはいないだろう。ましてロスティヴォロドは大公で、雑用を任せるための家内奴隷など、掃いて捨てるほど所有しているのに。

 直接目に映したことはないが、貿易のために西南の帝国を訪れた経験のある者曰く、生の葡萄の実のごとく深い紫の双眸。存外に長い睫毛に囲まれた瞳は、こちらはシグディースも知っている干し葡萄のごとく甘い艶を放っていた。

 己の胸を乱してやまない眼差しも、この穏やかで満ち足りた時間も、いっそ全てロスティヴォロドの姦計であれば。この全てが自分に後継者を無事に産ませるための演技であったのなら。

 さすればシグディースは今宵にでも、誰よりも憎むべき男に刃を振り下ろすだろう。己を守ってくれる夫がいなくなれば、空いた大公の座を狙う先住民の長や同胞の有力者の誰ぞに腹の子共々殺されるやも、と躊躇いもせずに。

 ――私はこの先、どれほど父上たちを裏切ることになるのだろう。

 イヴォリ人の伝統的な価値観によると、浅ましく生き残って家族の仇の子を孕んだ怯懦きょうだと貪婪の罪を償う術は、非力な女の身で刃を振るう他にも二つある。自分では果たせぬのなら、息子を産んで立派な戦士に育て上げ、その子に父たるロスティヴォロドを殺させればよいのだ。それか、仇の一族の系譜に連なる我が子を己が手で屠るか。

 母が寝床で紡いでくれた物語に登場する、夫に親族を亡き者にされた女は、皆迷いなくそうしている。中には、刳り貫いた我が子の心臓を、密かに夫に喰わせる者までいた。だがシグディースには、そんな恐ろしい所業はとてもできそうにない。

 だいたい子供だって、もはや復活の望みは潰えた一族の義に殉じるよりも、大公の子として皆に傅かれる栄誉を望むだろう。そう考えた時点でシグディースはとんでもない不孝者なのだ。死者の国にいる先祖に罵られ、呪われてもおかしくはない。

 ――ご先祖様方。私はともかく、ややこは見逃してくれたもれ。

 神や聖堂とともにこの地に齎された聖像画イコンなるもの。神の楽園を写し取った光景を背に立つ聖人たちにシグディースが祈りを捧げるのは、ひとえに先祖の怨念から逃れるためだった。

 今度は敬虔な信徒の真似事かと、女奴隷たちは影でシグディースを嗤っている。どんなに願ったところで、シグディースが犯した罪――ふしだらにも婚前に子を宿したという事実からは逃れられないのに、と。それでも、異郷から到来した神に縋らずにはいられなかったのだ。

 生き延びるために少年に身をやつし、トラスィニの公だったロスティヴォロドの従士に紛れるべく改宗した当初。シグディースは唯一なる神を小馬鹿にしてさえいた。異教徒だった頃は、父祖の神々に人間の生贄を捧げてもいた。

 だのに今更祈ったところで、天上の存在には都合のよいことをと、一笑に付されるかもしれない。

 同じく人身供犠を捧げていた故イシュクヴァルト大公は、結局戦の最中に果てた。とはいえ、彼の国は今まさに栄華を極めんとしている。ならばシグディースも赦されるかもしれない。


 陣痛が始まったのは、指を組み目蓋を下ろして、眩い黄金を背にこちらを睥睨する聖者に跪いている最中だった。身体の中で何かが破れる音がし、異変に眼を開けたところ、裙が濡れていたのだ。

「しっかりしろよ。すぐ産婆を連れてきてやるからな」

 共に祈りを捧げていたロスティヴォロドに抱えられて産屋に移り、床に横たわっても、これからとうとう子を産むのだという実感は薄かった。弟が生まれた時シグディースは六歳だったから、母がどんなに苦しんだか覚えている。普段は穏やかで優しい母は、喉も裂けよとばかりに叫び、思いつく限りの神々に救いを求めていた。

 幼いシグディースの胸に恐怖を植え付けた苦渋に比すれば、突けば弾けんばかりになった腹と腰に生じた感覚は、ほんの僅かなものだ。破水さえしていなければ、和らぎつつあるとはいえしつこく残る寒さのせいで腹を下したのかと、勘違いしていたかもしれない。

 だが呑気に構えていられたのは、産婆が――産着を縫うのを手伝ってくれた老婆が連れてこられるまでだった。これならばそう取り乱さずに産めるだろう。などと楽観していたシグディースを嘲笑うかのごとく、急に痛みが激しさを増してきたのは。しかも、同時に痛みの波が訪れる速さも増したのだから堪らない。

「息を吸って、そしてゆっくり吐いて下され。さすれば痛みも和らぎまする」

 激痛は最終的に、ハンマーで下半身の骨を粉々に砕かれているのか、と錯覚してしまうまでになった。

 あまりの痛みに呻き絶叫する最中、細い顎を伝って滴り落ちた雫が、赤子に含ませもしない乳で膨らんだ胸を濡らす。唾液と汗のどちらだろうかと目をやると、胸元は薄赤く染まっていた。別の箇所から生じる感覚の激しさに集中するあまり気付かなかったが、噛みしめすぎて唇が切れてしまったのだ。

「今じゃ。今、いきんでくだされ!」

 老婆の言葉に従って腹に力を入れると、中から温かで大きなものがにゅるりと出てきた。そうして痛みが終わった安堵感のあまり放心していると、つんざくような産声が轟いて。つまり、子は無事に生まれたのだ。

「ほう、ほう。元気な子じゃ」

 老婆は赤子を手早く産湯で清め、シグディースに抱かせようとしたが、力は全て出産で使い果たしてしまった。なので、中々腕に力が入らない。それでもどうにか真新しい布に包まれた赤子を抱きしめ、赤い顔を覗き込む。疎らに生えた髪はシグディースと同じ月の金色をしていた。

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