雷雨 Ⅰ

 表面的には家内奴隷たちに傅かれる立場――大公妃に、ロスティヴォロドの妻になって早四年ほど。もうすぐ産み月に入ろうかという腹を抱えた女は、木苺の蜂蜜漬けのお湯割りを啜りながら、走り回る子供たちの姿を眺めていた。

 三歳と二歳の息子は、丸い頬を薔薇色に染めながら木の枝を振り回している。本人たちにとっては木の枝は剣で、つまりは父親の真似をしているつもりらしい。実に頼もしいことだった。

「だから、いまかあさまのおなかにいるのは、いもうとだよ」

「ちがう。おとうと」

 つい先ほど取っ組み合いの喧嘩をした子供たちは、長男の勝利という形で終結したはずの争いを蒸し返しだした。とはいえ、真の理由はシグディースの腹にいる三番目の子の性別ではなく、退屈だろう。子供たちは、普段は家内奴隷たちに見張られながらも、外を駆けまわっているのだ。その息子らが、母であるシグディースの側を片時も離れないのには理由がある。

『お前たちはお母さんと、腹の中の弟か妹を守ってやるんだぞ』

 時期になっても今年の貢税を果たさなかったある部族に懲罰を下すべく、ロスティヴォロドが従士団と共にグリンスクを発って三日。その間子供たちは、父親の言いつけに忠実すぎるほど従っていた。

「あかちゃんも、いつかわるものをやっつけようね」

「ぼくたちといっしょにね」

 ひとしきり身体を動かして満足したのだろう。息子たちはとことことこちらに近づき、大きく膨らんだ腹に話しかけてきた。日頃、彼らの父親がそうしていたように。

 ところで税を納めなかった部族に大公が下す罰とは、ほとんど略奪と同じである。つまりロスティヴォロドが向かった地域では、どちらが悪だか判断に迷ってしまう所業が行われているはずだ。だがシグディースは、子供が知るには早すぎる真実をわざわざ口に出すほど愚かではないつもりである。

 統一が成されて――シチェルニフがエレイクの一族に落とされて七年。人の子にとっては長くとも、天上の存在にとっては瞬き程の時しか流れていない現在においては、貢税の遅延または放棄は看過できない問題だ。放置しておけば国の存続に関わる一大事へと発展しかねない。そしてそれはそのまま、この幼い我が子たちの無残な死を意味するのだ。事実まだ七歳だったシグディースの弟のヨギルは敗北の日、子供たちの父親である男に父母共々斬首されたのだから。

「がおー。がおー」

 虎の毛皮を被って獅子の真似をしている次男は、瞳の色は父方の祖父と同じ氷の青、髪の色は父親と同じ鋼色である。けれども柔らかな毛髪がくるくると巻いた様子や顔立ちは、シグディースの弟に似ていた。

「それししじゃないよ。ししはちゃいろなんだよ」

「でもどっちもおんなじ。でっかいねこだよ」

 もっとも、設定の矛盾を兄に指摘されて捻り出した反論は、ロスティヴォロドの血を感じさせたが。シグディースも、虎と獅子は似ていないと思う。獅子には横縞がないし、虎の雄にはたてがみがない。だがそんな細事は気にならなかった。

 満ち足りた時間を過ごす大公妃は、蒼い瞳を柔らかに細める。しかし母と子の穏やかな一時は、急に取り上げられてしまった。

「どうかお耳を貸してくださりませぬか、お妃様」

 しずしずと歩み寄って来た家内奴隷は、抑揚のない声で来客の訪れを告げる。

「大変急な訪れではありますが、アスコル様がこちらにいらっしゃっているのです。そして、お妃様に会いたいとおっしゃられておりまして……」

「アスコル? 誰ぞ?」

 どことなく覚えがある名ではあったが、シグディースはロスティヴォロドの人間関係をほとんど把握していないので、どこで耳にしたのかは定かではない。

「え、あ、あのアスコル様ですよ? お妃様、本当にお分かりにならないのです?」

 器に残っていた甘酸っぱい湯を飲み干しても、さっぱり心当たりに行き着かない。するとシグディースの前ではほとんどの感情を押し殺している家内奴隷たちは、露骨に焦りだした。

「どうしましょう? あまりお待たせするのもいけないし」

「そうね。もしアスコル様がご気分を害されたら、私たちが大公様から罰を受けるかもしれないし」

「あの方なら、身重のお妃様に危害を加えることもないでしょう」

 女奴隷たちが真の忠誠を誓っているのは、淫乱の売女と蔑んでならないシグディースではなく、ロスティヴォロドである。けれども一応の主である自分の意思を訊ねもせず結論を出した奴隷の一人の手が、まろみを増した肩に置かれるやいなや、女は嫋やかな眉を顰めずにはいられなかった。

「取り敢えず、もてなしの場に参りましょう。お顔を見れば、きっと思い出せますから」

 何ゆえ重い腹を抱えて、どこの誰とも分からぬ輩に会わねばならぬのだ。

 しかし引き攣った笑顔があまりに必死なので、シグディースは喉までせり上がって来た腹立ちをつい飲みこんでしまった。この奴隷たちがこれほど対応に注意を払うアスコルという人物は、余程高位の戦士であるか、富裕な貴族なのだろう。

 もしくは彼が、かつてシグディースの父に仕えていた者だという可能性もありもするか。しかし今更彼らが自分に接触してくるだろうか。大公の支配に反旗を翻したところで、潰されるに決まっているのに。だいたいシグディースも、反乱の旗印になってくれと求められても拒絶するだろう。

 どんな経緯があろうと、勝者はグリンスク大公たるエレイクの一族で、自分たちシチェルニフの前の公一家は敗者である。結局のところシグディースがロスティヴォロドの所業で認められないのは、彼が戦う意思のない父や母、弟を屠ったことのみ。

 世間的には、シグディースは家族の仇に陵辱されて身籠った、哀れな女なのかもしれない。しかし、ロスティヴォロドは勝者で、シグディースは敗者だ。イヴォリ人の伝統では、勝った者が負けた者を殺そうが辱めようが、当然であるとされている。ゆえにシグディースは、彼が自分にした行為に文句を言うつもりはなかった。むしろロスティヴォロドは、身籠ったシグディースを正式な妻として娶ってくれただけ優しいのかもしれない。

 大体自分の祖先だって、サグルク人の土地に入植して支配者となるまでに、先住民の女に同じ所業をしてきたのだろう。その上で西南のシャロミーヤ帝国や、大河ヤールの東側の支流を下った先にある、善神やら永遠の時間神やらを崇めるもう一つの大国に、奴隷として売り払いもしたのだろう。そうして培われてきた富を糧に成長したシグディースに、我が身に起きた出来事を嘆く権利などあるはずがなかった。

 全てを喪った十四の時は、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと、憤って眠れない夜もありはした。されどこの乱世においては力こそが全てなのだ。我が身を自力で守れなければ、強者に阿って生きるしかない。

 翻ってかつての自分たちは、武力においても知力においてもグリンスクの大公家に劣っていたがゆえに敗北した。弱いくせに強者に刃向かったのが悪い。全てはただそれだけなのだ。だいたい、全てはシグディースが選んだ選択の結果なのだから、後悔は一つもなかった。

 もしもアスコルとやらが亡くなった父の配下だったのなら、有無を言わせず叩き出そう。

 身籠って一層豊かになった胸に灯った決意を噛みしめながら、大公妃はもてなしの間に入る。すると視界に入って来たのは、予想外すぎる人物だった。

「久しぶりだな」

 明らかに高価な装束と剣で身を固めた、二十代後半ほどの男。彼の薄い茶色の髪と青灰色の瞳は、相次ぐ妊娠と出産そして子供の世話のために、完全に忘れ去っていた記憶を呼び起こした。

「そ、そなた、よくも私の前に顔を出せたものだな」

「そんなつれないことは言わないでくれ」

 アスコルは、かつてシグディースの父の配下の生き残りの振りをしていた時分とは、まるで様子が違っていた。表情も、喋り方も。

「だいたい、あれはロスティヴォロドの命令だったんだ。それは君も知っているだろう?」

 誰が持ってきたのかは知らないが、湯気を立てる焼き立ての麺麭に牛酪と塩を付けて咀嚼する男の顔には、罪悪感や申し訳なさなど微塵も滲んでいなかった。シグディースとてそんなものは求めていないが。

「公子たちは? ロスティヴォロドと君の子なら、顔は・・さぞかし可愛らしい子たちなんだろうな」

 のうのうと麺麭を腹に収めたアスコルの発言の意図は、少しも察せられなかった。なぜこいつがシグディースの子供たちに会いたがるのだろう。アスコルが先程からずっと、このイヴォルカの地の支配者であるロスティヴォロドを、堂々と呼び捨てにしているのも不可解だった。

「あの子たちなら、遊び疲れて眠っておるわ」

 何となくだがこの男と我が子を引き合わせたくなかったので、シグディースはさらりと嘘をついた。部屋を出る寸前、子供たちは、夫婦の寝台の上できゃっきゃと飛び跳ねていたから、今頃本当に眠っているかもしれない。

「それは残念。是非とも会ってみたかったのに」

 残念などと欠片も思っていなさそうな顔のまま、アスコルはシグディースの大きく膨らんだ腹に目を向ける。

「確か、もうすぐ生まれるんだろう? 時が経つのは速いものだな」

 速いのはアスコルが麺麭を平らげる速度もで、シグディースの顔よりも大きかった麺麭は欠片も残っていなかった。

「それにしても、結婚して四年で三人とは。君はよほどロスティヴォロドと相性がいんだろうな」

 もしやこの男、シグディースを侮辱するために来たのだろうか。二個目の麺麭と、ついでに飲み物を要求するふてぶてしさといい。失礼極まりない発言といい。だとしたら、余程暇を持て余しているのだろう。

「そなた、一体何をしに来たのだ? 私を馬鹿にするためだけに顔を出したというのなら、目的は既に果たしたであろう?」

 渦巻く怒りと謎をぶつけるついでに、ゆえに私はもう席を外すと告げても、アスコルはなおもゆったりと構えたまま。

「君は相変わらず短気だな。俺はただ、身内として祝福しているだけなのに」

「はあ?」

 だが流石に、シグディースが我ながら間の抜けた驚きの声を発すると、漲っていた余裕もいささか減じた。

「“はあ?”も何も、俺はロスティヴォロドの母方の従兄――あいつの母の兄の息子なんだが、本当に知らなかったのか?」

 昔、君に俺とロスティヴォロドが似ていると言われた時は、ひやひやしたものだけどな。

 苦笑するアスコルの輪郭や流れるように通った鼻梁は、確かにロスティヴォロドと非常によく似ていた。面と向かって告げられるまで彼らの縁に気付かなかった、自分の愚かしさを詰りたくなるほどには。

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