落葉 Ⅱ
宝物でもないのに横抱きにされ、娘は数か月を過ごした小さな館から出る。そうして馬に揺られて辿りついた大公邸では、シグディースが暮らす準備が万全に整えられていた。
「食事を持ってこさせるから、腹に入りそうだったら食え。んでとっとと寝ろ」
そっと下ろされた寝台は強張った四肢を柔らかに受け止めてくれた。しかもその寝台は、シグディースがあと一人横たわっても余裕がある大きさなのだ。
女一人では持て余してしまう寝台。及び、豪奢ではあるがどちらかといえば武骨な――なんせ床には虎の毛皮が敷かれていて、壁には鹿の角や美麗な細工が施された斧や長剣が飾られているのだ――装飾は、ある事実を教えてくれた。
即ちここは夫婦の寝室で、シグディースはこれからずっと、ロスティヴォロドと共にこの寝台で眠るのだと。まだいるという実感はほとんどないが、身籠った子を産んだ後は、ここで睦み合うのだろう。亡い父母がそうしていたように。それが夫婦というものだから。
イヴォリ人でもサグルク人でも、妻に求められる第一の役割は子を儲けることだ。それさえ果たせばよいというものではないが、たとえ他を完璧にこなしていても子を産めない女は、婚家にも周囲の者にも役立たずと蔑まれる。シグディースは見たことも聴いたこともない、訪れることもない土地の民の間でも、それは同じだろう。
故イシュクヴァルト大公の正妻は、夫を辺境の蛮族と蔑んでならなかったらしいが、間にどうにか息子を儲けた。しかしその子は産まれながらに息をしていなかったため、元来不仲であった夫婦の間の亀裂はますます深くなったのだという。
大公妃が閨の務めを拒絶したのを切っ掛けに、夫妻は同じ屋敷で暮らしながら顔を合わせるのすら稀になった。故イシュクヴァルト大公の正妻は夫の戦死の報が届くやいなや、嫁いで初めて満面の笑みを浮かべ、帝国が寄こしてきた使者と共に故郷に向けて発ったという。
夫の地位と力を受け継ぐ息子を産む。最も単純かつ最も重要な勤めを果たさなかった悪妻が、それでも周囲から侮られなかったのは、彼女が生まれ持った身分と実家。何より帝国の国力のため。ならば、己を守ってくれる親族も国もないシグディースは、これから誰を頼りにこの屋敷で生きていけばよいのだろう。シグディースは、母のような下々の者に慕われる妃にはなれない。
脳裏に過った面影は、いつか刃の露にすると誓った者のものだった。目の前で家族を殺され、身体を変にされたというのに。だのに、あの男を真っ先に思い浮かべた、自分自身に腹が立って仕方がなかった。指摘されて初めて
毒を含んだ煙さながらに立ち込める感情から逃れたい一心で、長い睫毛に飾られた目蓋を降ろした女は、しかし逃れられはしなかった。
夢の中のシグディースは
三年前、故大公の兵の武器の餌食となった亡者の群れ。そのある者は腕を、またある物は脚を失っていて。またある者は割かれた腹から腸を垂らしていた。
直視に耐えない姿をした死者はシグディースを取り囲み、口々に罵る。私たちはお前の父が敗北したために、こんなにも無残に散っていった。なのに、お前はどうして傷一つ負わずに生きているのかと。お前のような裏切り者など、死んでしまえばいいと。
「……すまない」
いっそ耳を塞いでしまいたかったが、彼らの怨嗟はシグディースが受け止めるべきものだ。逃避など赦されない。
「だが私は、父上たちの仇を討たねばならぬのだ」
在りし日は自分を温かく見守ってくれた人々の痛罵を受け、噛みしめた唇からは血が滲んだ。死人たちはそれしきでは足りぬと、脈打つ心臓から吹き出た血潮でもってしか我らの怒りは鎮められぬと、口々に叫んでいる。けれども三つの影がついに近づいてきたため、狂乱する亡者の群れはたちまち静まり道を開けた。影は、一滴や二滴ではすまない紅蓮を滴らせている。
「シグディース」
懐かしい父母と弟は、あの日の記憶通りかそれ以上に痛ましい有様だったが、にこやかに微笑んでいた。胸の高さで抱え持った、各々の生首が。
「死者の国で、お前をずっと見ていた」
土気色の躯になっても、父の端整さはいささかも減じられていない。それがむしろおぞましくて、シグディースはとうとう目を逸らしてしまった。
「あなたはか弱い女の身で、頼れる者もないのに、私たちの仇を討とうとしていたわね」
母の声の優しさもまた変わらないが、生前は麺麭のごとく白く柔らかだった掌は、硬く強張ってしまっているのだろう。だからシグディースは、慰めの言葉と共に差し伸べられた手を取れなかった。
「でもそれは、本当にぼくたちのため? あねうえは自分ひとりがいきはじをさらす口実に、ぼくたちのふくしゅうを使っただけじゃない?」
あの時まだ七つだった小さな弟の哀れな姿は、どんなに視線を下にしても視界に入ってしまう。ふくふくとした頬は相変わらずだが、頬どころか金色の巻き毛にまで黒ずんだ血が飛び散っていた。
――ねえ、しってる? あねうえみたいな、かぞくのかたきにいやらしいことされてもよろこぶおんなの人は、「いんばい」なんだよ。
弟のヨギルは賢い子供だったが、幾らなんでも淫売などという蔑称の意味を把握していたはずはない。だからこれは自分が生み出した幻なのだ。そう理解していてもなお、ふっくらと盛り上がった胸は軋んだ。生きながら心臓を千々に引き裂かれたのかと錯覚してしまうほど。
「ヨギルの言う通りだわ。フリムリーズの時は可哀そうで見ていられなかったけれど、私たちを殺した大公の三男に抱かれている時のお前は、別の意味で見ていられなかった」
「しかも挙句の果てには、あの者の胤で身籠ったそうじゃないか」
お前がこんなに淫らではしたない娘になると分かっていたら、一族の名誉のためにも産まれた直後に殺していたのに。
シグディースを罵る父と母の笑顔は、やはり在りし日と変わらない。まだ十にもなっていなかったシグディースの首に、戦利品の琥珀の首飾りをかけてくれた時の、はしゃぐ娘を穏やかに見守ってくれた時のままだった。
「私たちを殺した男の胤で腹を膨らませた娘の姿など、流石に我慢ならないな。目が腐り落ちてしまう」
「同じ死者の国にいるご先祖さまたちにも、申し訳が立ちませんものね」
双眸には及ばぬものの蒼くなった頬を伝う一筋の涙には目もくれず、生首を抱いた死者は相談を始めた。
「だったらあねうえのおなかを開いて、あいつのこどもをえぐりとればいいんじゃないかな?」
身の毛がよだつ提案が無邪気にされた途端、父母どころか周囲の死者も弟に喝采を送った。それはいい。流石、シチェルニフの次なる公となるはずだった方だと。
「だが、どうしよう。私も他の者も、武器は全て略奪されてしまったからなあ」
「そういえば、そうでしたわね」
「爪……じゃあ、さすがにむりだよね」
折角いいことを思いついたのに。ヨギルの生首が残念そうに囁いた途端、有り過ぎるぐらいに覚えのある響きが聞こえてきた。
「ご心配には及びませんわ、お父様、お母様。だって、私の背には“これ”がありますもの」
華奢というより痩せ衰えた背に、ロスティヴォロドが放った矢を生やした姉は、これまた満面の笑みを浮かべている。
「この矢を私の身体から引き抜いて、シグディースのお腹に突き刺せばよいのです。そうすれば、エレイクの一族の男の汚らしい子種も流れますでしょう?」
「すっごくいいとおもう! さすがフリムリーズあねうえだね」
「当然よ。だって私は、シグディースみたいな浮かれ女とは違うもの」
変わり果てた家族の談笑に、シグディースは加われない。加われるはずはないが、逃げられもしない。
その場にへたり込み、我が身のふしだらに下される裁きの恐ろしさに背筋を凍らせた女の手は、まだ平らな腹部に置かれていた。
うら若き女の亡霊は、折れんばかりに細い首を傾げ、妹に問いかける。
「あら、シグディース。貴女まさか、その子を守りたいの?」
「……あ、」
言われて初めて気づいた。シグディースは心のどこかで、腹の子は仇の血を引いていようとも、自分たちと同じ系譜に連なる者であると、亡き家族に祝福してもらいたかったのだ。ひいては、自分がロスティヴォロドを進んで咥えこんだことをも肯定してもらいたかった。あれはお前が生きるためには必要な行動だったと。
そんな都合が良すぎる願いが叶うはずはないのに。たとえ世界中探したって、シグディースを汚い女だと蔑まない者など、ただ一人を除いてはいやしないのに。
「そう。貴女も母親になったということなのね」
でも、そんなの駄目よ。そうして姉がシグディースの腹に矢を突き刺す寸前で、悪夢は終わった。
全身に冷や汗をかき跳び起きたシグディースの絶叫は、いつのまにやら傍らにいたロスティヴォロドの眠りをも醒ましてしまったらしい。
「……どうした?」
とめどなく涙を流す自分の様子に、ただよらぬものを感じたのだろう。
「夢見が悪かったんだな。妊娠中は身体だけじゃなく心も不安定になるそうだから、仕方ねえよ」
優しく伸ばされてきた逞しい腕を、髪を撫で涙を拭う指を、慄く肢体を包むぬくもりを、シグディースは跳ね除けられなかった。
「一人で耐えることはない。俺が側に居て、お前を守ってやるからな」
胸板を塩辛い液体で濡らし、低い声に耳を傾けていると、どうしてもある疑問について考えてしまう。
なぜロスティヴォロドは、自分にこんなにも優しくしてくれるのだろう。シグディースは彼を殺そうとしているのに。ロスティヴォロドは虫けらを踏み潰すも同然にシグディースの家族を屠ったのに。もしやこの男は、身体だけでなく心でも、シグディースに家族を裏切らせようと企んでいるのだろうか。だとしたら一体、なぜ。
「明日は花嫁衣裳を見てみるか? 帝国でも最高級の、金糸銀糸が織り込まれた布から仕立てたやつだから、きっと気に入るぞ」
頬に残る嘆きの痕を清めていた唇が、闇の最中にあってもけざやかに紅い唇に押し当てられる。そうしてシグディースは、家族の仇である男に抱かれたまま再び目蓋を下ろした。
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