落葉 Ⅲ

 悪夢に魘された夜も明け、眩い陽光の下で眺めた花嫁衣裳は、うっとりするほど素晴らしかった。

 襯衣の上に重ねる、伝統的にゆったりと仕立てられる上着サラファンは、朝焼けよりも深く血よりも鮮やかな緋色で。晴着である証に長さは踝まであった。

 艶やかな絹地には、意匠化された金の柘榴とあざみに似た空想の植物の葉が散らばっている。その上、優美な金の文様を囲んで、銀糸の小さな花が咲き乱れていた。まだ締まっている胴を飾るための帯はやはり金色で、希少で高価な紫が差し色として織り込まれている。

 サグルク人は、既婚の女が家族以外の者に髪を見せると、禍や疫病が生じると固く信じている。支配する民の風習に倣って。また短い髪を隠すためにも頭に被ることにした布は雪白に輝いていた。端には粒揃いの真珠が縫い付けられている。いや、縫われているのは遠い海で育まれた宝石だけではない。赤い糸で薔薇の花が、黒い糸でその葉や茎が刺繍されていた。

 遠い西南の帝国で織られた布から仕立てられた、異国情緒溢れる上着とは異なり、頭に被る布はこのイヴォルカの地の香りを漂わせている。この頭布スカーフはきっと、サグルク人の女が拵えたものだろう。だって、イヴォリ人が伝統的に受け継いできたものとは異なる模様で飾られている。

 女奴隷たちは、花嫁衣裳に見とれてしまったシグディースに、氷柱にも勝る冷たく鋭い視線を突きさしてくる。彼女らはもちろん、自らの夫となる男が支配する地には、自分と彼の結婚を心から祝福してくれる者などいるはずがない。なぜなら国と地位を失ったシグディースは地虫同然の、出自はどうあれ大公となったロスティヴォロドには釣り合わない存在だから。

 考えるだけで憂鬱だのに既に一月後に迫っているという式も、この煌びやかな衣裳と豪奢な装飾品を纏えるとなると、ほんの少し楽しみになってきた。それもこれも、結婚式までに悪阻が少しでも楽になっているかにかかっているのだが。

 まぐわったら身籠るのだとは、無論承知していた。しかし、妊娠がこんなにも苦しいものだとは。実際に体験してみるまで想像もできなかった。母もきっとこの苦しみを、いやもしかしたらこれ以上の苦痛を味わって、シグディースを産んだのだろう。そして、愛情深く育ててくれた。

 だのに昨晩、幾ら夢の中でとはいえ母及び他の家族の愛を疑ってしまった自分は、確かに心身共に弱っているのかもしれない。なぜなら、ロスティヴォロドを殺す気も起きないのだから。

「な、凄いだろ?」

 奴隷たちがいるというのに、ずっと自分を後ろから抱きしめているロスティヴォロドは煩わしい。シグディースの髪の匂いを嗅いだり、乳を揉んだり尻を撫でたり、好き放題してくるから。が、彼が得意げになる理由も分からないではなかった。

 これだけの衣裳を、ロスティヴォロドが自分を妻にすると決めてから二十日ほどという短期間で用意できただなんて。彼が、ひいてはグリンスクの大公に力がなければ決してできないことだ。多くの者が集まる結婚式で彼の威光を誇示すれば。さすれば未だ幾人かいるはずの、密かに大公位を狙う者の野望も挫かれるかもしれない。

「お前は元々美人だけど、着飾ったら目も眩まんばかりになるだろうな」

 どれだけじゃれついてもシグディースが無視するので、拗ねたのだろうか。ロスティヴォロドに急に抱き寄せられた次の瞬間には、前触れなく接吻をされた。それも、かなり濃厚なやつを。

 くちゅ、と湿った水音を家内奴隷に聴かれるのは、恥ずかしいというより気まずい。が、脇腹をつんと突かれると、シグディースにはもはや成す術はないのだ。力が抜けた身体は、鍛え上げられた腕で支えられている始末である。

「――驚いたか?」

 思うがままに貪られた後、とびきりの悪戯を成功させた少年の顔で笑う男の顔面に、シグディースはぴしゃりと平手を食らわせた。

「まあまあ、そんな怒るなよ。ちと練習・・しただけじゃねえか」

 だのに頬を僅かに紅くした男はこの上なく幸せそうな顔をしているのだから、シグディースは一体どうすればよいのだろう。何にせよ、刃を握る気になれないのは全て吐き気のためであり、昨夜の彼のぬくもりがまだほんのり心に残っているからであってはならない。

「じゃあ俺はこれからやらなきゃならねえことが沢山あるから、お前はその間ゆっくりしてろよ」

 花嫁衣裳は片付けられ、ロスティヴォロドも出ていった室内は、急に広くなった。これからシグディースは、いったい何をして時間を潰せばよいのだろう。

 平均的なイヴォリ人の良い妻とは、夫が所有する農場の管理に勤しみ、その合間に交易では貨幣の代わりにも使用される織物を巧みに仕上げる女を指す。だがシグディースは大公妃となるのだ。家畜に食ませる藁の準備やらに駆り出されることはあるまい。というかそもそも、大公妃とは何をすればよいのだろう。

 ロスティヴォロドの祖母は、夫が若くして戦死した後は度々従士たちを率いて出陣した、女丈夫だったと聞く。

 イシュクヴァルト大公の母は幼い我が子と出来たばかりの国を、女手一つで守り抜いたのだ。サグルク人の首長がまだ独自の勢力を保っていた時代に。だから、夫となる男の祖母が今もって女傑と讃えられるのは当然である。けれども周囲の誰も、シグディースにそんな偉業は求めていないだろう。

 考えあぐねた挙句、かつて姫君であった女は産着を仕立てることにした。子を身籠った女がすべき仕事といったら、やはりこれだろう。針と糸と布ぐらい、申し付ければすぐに準備されるはずだ。

「そこな家内奴隷」

 シグディースが大公邸に移されてまだ一日しか経っていない。ゆえに部屋に侍る彼女らの名を知らぬ以上、このようにしか呼びようがなかった。

「裁縫道具と布を持ってきてくれたも。布は赤子の肌にも馴染む、柔らかなものをな」

 だが、あるいはやはり、シグディースのすぐそばに控えていた若い女の顔ははっきりと強張った。

「……あなた、何考えてるんですか?」

 名も知らぬ女奴隷はそれなりに可憐な顔を歪め、シグディースをねめつける。その瞳に宿っているのは紛れもない侮蔑であった。

「あなた、シチェルニフのお姫様だったんでしょう? なのに親兄弟を殺した大公様にその顔と身体で取り入って、挙句の果てには大公妃になるために子供まで作るなんて。……一体どれだけ生き汚いの?」

 成る程、周囲はシグディースを、命惜しさのあまり家族の仇を誘惑して取り入った売女と認識しているらしい。道理で奴隷たちの目が真冬よりも冷たいわけだ。

「大公様の命を狙っていたっていうのも、どうせ興味を引くための演技なんでしょ? そしてその次は、子供を可愛がる母親の振り? 国を失ったお姫様が生きるのって、随分大変なんですね」

 ――私があの男の妻となるまでの経緯や理由など、そなたには関係なかろう。

 女奴隷はシグディースが罵る前に、嘲笑を残して去った。身重でさえなければ首を絞めて殺してやったものを。

「お初にお目にかかりまする、大公妃さま」

 ややして所望した品に、シグディースが好む木苺の果汁のお湯割りを添えて持ってきたのは、海老さながらに腰が曲がった老婆であった。改宗前はサグルク人の大地の女神の巫女であった、と過去を語った老婆は医術の嗜みもあるという。

 シグディースが最後に針を持って三年以上経つ。産着を仕立てんと思いついたはいいものの、孫どころか曾孫までいるというこの老婆の助けがなければ、布の裁断すらままならなかったはずだ。

「大公妃さまはその……御幼少のみぎりは、外で花摘みをなさる方がお好みだったのでしょうなあ」

 遠回しに針仕事が下手だと指摘され思うところはありはしたが、あらゆる意味でその通りだったので反論はしなかった。

「ご心配召されませぬな。これから数をこなしてゆけば、腕も上がりましょう」

 どうにか半分ほど形にした産着は、縫い目は歪。おまけに所々赤褐色の斑が落ちていたが、気にしないことにした。縫い目などぱっと見は分からないし、血の跡は洗えば落ちるだろう。

「さて。そろそろ夕食の時間ですな」

 冬になれば川も大地も凍り付くイヴォルカの寒さは、秋であっても侮れない。屋敷でも奥まった場所にある大公夫妻の部屋には、窓など穿たれていなかった。ゆえに空を仰いで老婆の言葉を確かめるのは不可能なのだが、あながち外れてもいないだろう。なぜなら、先程から扉の向こうから響く音が慌ただしさを増しているから。きっと奴隷たちが食事の準備や給仕に追われているのだろう。

 腹の空き具合で時を計ろうにも、シグディースは妊娠してから、空腹であっても満腹になっても気分が悪くなるようになった。おまけに特定の食物――特に麺麭や脂の匂いを受け付けなくなった身では、食卓の大公妃の席に坐すのは難しい。大公が従士と共にする食事の場には、数多の胃を満足させるべく、麺麭も肉も山と積まるはずだ。ロスティヴォロドも無理をして来ずともよい、晩は部屋か大公一家が普段使う食堂で食べろと言っていた。

 けれどもシグディースはあえて宴の場に足を運ぶことにした。今日だけでも顔を出さねば、自分はこの先ずっと夫となる男の配下たちに舐められたままだろう。

 近づくにつれて煩さを増す喧騒から察するに、食堂では既に酒が振る舞われているに違いない。その証拠に、「大公様の勇敢さと寛大さを讃えて!」だとか「健康で聡明な御子が生まれますように!」だの、乾杯の音頭が轟いてくる。サグルク人もイヴォリ人も、宴とあらば酒を干さずにいられないのだ。最もよく聞こえるのは、ロスティヴォロドの機嫌よさげな笑い声だった。あの男の声は本当によく通る。

「探したぞえ」

 シグディースが足を踏み入れるやいなや、騒々しい一室は一瞬にして静まり返った。給仕役の奴隷たちも、皆。その中には半分以上は事実とはいえシグディースに痛罵を浴びせかけた娘もいる。大方シグディースが言いつけた品を取りに行った際に、別の用を申し付けられたのだろう。

 ロスティヴォロドは他の者たちほどではなくとも、あからさまに驚いていた。

「どうした? 続けよ」

 女はらしくなく自分を注視する男の隣に腰を下ろし、周囲を見回す。

「お妃さまの麗しさに!」

「矢車菊の青の瞳と雪を欺く白い肌、血のごとく紅い唇に!」

 するとややして硬直が融けた戦士たちは、シグディースを口実にして酒を飲み、騒ぎ出した。武骨な指でまさかと驚くほど器用に楽器の弦を弾く者までいる。酒焼けしてはいるが滑らかな低音で紡がれるのは天主を讃える歌だった。シグディースの記憶が正しければその歌は、古の詩人が編んだ詩の、父祖の神々の名を天主に置き換えただけだったが。

 涜神すれすれの行いは、この場に集まった者皆が承知しているだろう。けれども誰も咎めはしない。どころか、我も我もと合唱に加わりだす。賑やかな様子は、在りし日に父の館で幾度となく繰り広げられた光景を眼裏に蘇らせた。

 宴席の場に侍るというのはつまり、大公の目に留まる機会でもある。女奴隷たちにとってはシグディースの出現は、決して面白い出来事ではないだろう。件の娘も悔しそうに唇を噛みしめている。

「私は、そなたが側におらぬ間、さみしゅうて、心細うてならなんだ」

 自分でも良く分からない衝動に突き動かされ、夫となる男にしなだれかかり、引き締まった唇に己のそれを重ねる。自分から進んで舌を絡めるのも初めてだったが、悪くはなかった。腹に子がいなければ、ここで彼と身体を重ねていたかもしれない。

 くちづけの主導権はいつしかロスティヴォロドに移っていた。二つの唇がゆっくりと離れ透明な糸も消えると、うっすらとだが赤い顔をした若き大公は、おもむろに口を開く。

「それは、あの女に罵られたからか?」

 彼の、幾度となくシグディースの中を掻き乱した指は、はっきりと件の娘を示していた。

「確かに、それも多少は関係しているやもしれぬが、」

 私は、かような小虫の羽ばたきに囚われるほど狭量ではないつもりだがのう。

 終いまで言い終わらぬうちに紅い滴が辺りに、シグディースの頬にまで飛び散ったのは、ロスティヴォロドの剣が細い首を斬り落としたため。

「これで機嫌を直してくれるか? 駄目なら、あと二、三人――いっそ俺の妻となるお前を侮辱した奴隷は全員始末してもいいが」

 自分たちの仲間の首が目の前で飛んだからには叫んで当然だが、女奴隷たちの絹を割く悲鳴は煩くて仕方がなかった。

「そのような真似はせずともよい。だいたい、もしそうするならば、そなた新たに百人は奴隷を買わねばならぬぞ?」

 紅い滴もそのままに口角をにんまりと吊り上げると、シグディースよりももっと血に濡れた男は、それもそうかと破顔した。そうして亡骸が片付けられると、戦士たちの熱狂は一段と激しくなり、真夜中まで衰えなかった。

 打って変わって従順になった家内奴隷たちに傅かれる生活は、悪阻を抜きにすれば快適そのもので。迎えた結婚式の日は秋晴れで、雲一つない空が清々しく広がっていた。

 

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