落葉 Ⅰ

「どうせ持っていきたい物なんて、その短剣以外は何もねえだろ? だったらさっさと行くぞ」

 準備、とは一体何なのか。そもシグディースが一体何に気づいているというのか。寝起きという事情も相まって、告げられた全ての言葉の意図がさっぱり理解できなかった。ただただ貴石で飾られた鞘に収まった剣を抱きしめるぐらいしかできない。

 硬直する娘に、男は困惑の眼差しを向けた。

「その様子だとお前、もしかして十日ぐらい前に俺がこっそり医者連れてきたのも覚えてないか? で、お前が熟睡している間に診察させたんだが……」

 こっそり行われた、しかもシグディースが眠っている時の出来事など、覚えている方がおかしいだろう。ロスティヴォロドの発言を鼻で笑いたいが、医者に診られているのに気付かなかったとなると、流石に自分の体への不安の方が大きくなる。

 一月ほど前から突然始まった吐き気といい、どれだけ眠っても治まらない眠気といい、一体何が起こっているのだろう。もしや、悪い病気になってしまったのだろうか。

 仄暗い危惧が本当だったとしたら。さすれば、珍しく真剣な面持ちの男の腕の中でシグディースが幾度となく裏切ってきた家族の仇は、どうやって討てばよいのか。

 もはや慣れてきた嘔吐感と共にこみ上げてきた不安に駆られ、シグディースが己が身に回した腕と蒼ざめた顔を、目の前の男はなんと捉えたのだろう。

「安心しろよ。医者に診せる間は俺も隣にいたから、変な真似はされてねえぜ」

 ロスティヴォロドは肩甲骨を掠めるまでになった月色の髪と背を、あやすように撫でてきた。が、シグディースが欲していたのはそんな慰めではない。

「私が震えているのはそういうことではない! そなたは何故、私に黙って私を医者に診せたのか、早う申さぬか!」

 溶岩さながらに吹き出る感情は胃の腑のむかつきをしばし忘れさせた。しかし、衝動的に繰り出した拳を素早く避けた男が、

「どう、どう」

 などとぬかしてシグディースを暴れ馬扱いするものだから、怒りの方はしばらく忘れられそうにない。

「まあまあ、そんなに興奮すんなよ。大切な身体に障るぞ」

 ひとしきり笑って満足したのか。目元を朗らかに、いっそ慈しむかのごとく和らげた男は、耳を疑う発言をした。

「だってお前、腹にガキいるじゃねえか」

 思わずそっと触れてしまった下腹はまだ平らだが、この中には新しい命が芽生えているのだという。シグディースの父母と弟を虫けら同然に屠り、瀕死だった姉にとどめを刺した男との、新たな家族が。

 今度は困惑ではなく驚愕のために全身を石にした娘の目元に、硬い灰色に囲まれた薄赤く柔らかなものが――野性的な髭に囲まれたロスティヴォロドの唇が落とされる。そしてその唇はそのまま七竈のごとく紅く、花さながらに優美な唇まで滑ってきた。

 整った歯列を強引に割り、己の口内を蹂躙する舌には、違和感はもはや覚えない。どころか、反射的に応えてしまった。背に回された逞しい腕の中で刷り込まれた通りに。

 己のそれよりも厚い肉で口蓋をくすぐられるのは快い。シグディースは生じる感覚を幾度となく否定したが、その度にロスティヴォロドにそれは偽りだと突き付けられてきた。

『体と心は別物だろ? だから、お前が俺に突っ込まれてアンアン喘いでたって、お前の親父さんたちは怒らねえよ』

 同時に、行為の最中もっと触られたい、ここをこうして――例えば子壺を彼のもので突かれ揺さぶられたいと欲しても、それは自然な欲求なのだと。何一つ恥じずともよいのだと。

『どうしても納得できないってんなら、そうだな――俺を油断させるために、復讐のためにそうしてるって考えりゃあいいんじぇねえか? それならむしろ、親父さんたちだって、よく頑張ってるなってお前を誇りに思うだろ』

 シグディースは脇腹をくすぐられたり、下腹を撫でられると、時に胸の頂を弄られるよりも体に雷が奔る。だから本当は、ロスティヴォロドの手を置かれているだけの状態も、長くは耐えられそうになかった。猛ったものを咥えこまされている最中、臍から丁度手の横幅ほど下の部分を押されると、痙攣してのけ反ってしまうほどなのだから。

 ただ、最初にそうなってから、ロスティヴォロドの配下から向けられる眼差しは変わっていった。シグディースは既に彼ら従士にとっては、自分たちの主の命を狙う不遜な女ではなく、賤しい雌豚であるに違いない。シグディースが眠っていたから油断していたのだろう。家内奴隷たちの淫乱だのと影口によって起こされた朝もある。

 血讐のために生きるシグディースにとっては、家族を殺したロスティヴォロド以外の人間など、究極的には存在しないのと同じだ。自分がいない所でなら、好きなだけ悪口を言えばいい。だって、それは真実なのだから。ただ、面と向かって詰られれば、シグディースとて多少は気が滅入るのだ。それが、自分自身薄々感づいていた事実であるからこそ。

 この身に宿っているという命は生み落とさねばなるまい。けれども正式にロスティヴォロドの妻となったら、シグディースは家族に対して取り返しがつかない罪を犯してしまうような気がする。それに、ロスティヴォロドの妻となりより多くの人間がいる大公邸に移されたら、一体どれほどの非難の目に晒されるのか。

 シグディースにとってのロスティヴォロド以外の人間とは、羽虫と大差ない存在ではある。それでも、四六時中虫の羽音が耳元でするのは煩わしいから嫌だった。

「お前、やっぱりガキが出来たのが嫌なのか? ……そりゃ、そうだよな。なんせ俺のガキなんだから」

 シグディースの沈黙を何と曲解したのか。珍しく――というか覚えがある限りでは初めて愁いを帯びた紫紺の目を、男はそっと伏せた。

「子は、産む。だが、そなたと結婚するのは嫌だ」

「まじかよ。そんなにはっきり言われると、俺だって流石に傷つくんだけどな」

 存外に長い睫毛に囲まれた瞳を、清楚な美女だったという母親の面影を偲ばせる顔を向けられると、いささかとはいえ申し訳ない気分になってしまう。

「それに、高位の従士どもに帝国の皇帝の姪に求婚しろってせっつかれたけど、お前がいるからって跳ね除けたからな。だから、お前に結婚してもらえないと本当に困るんだよなあ」

 だが正体不明の罪悪感も、あたかも友人に遠乗りに誘われたけれど断った、という程度の軽さで語られた事実の重大さに軽く吹き飛んでしまった。

「そ、そなた何ということをしてくれたのだ。シャロミーヤの姫といえば、私が未だシチェルニフの姫であったとしても、足元にも及ばぬ相手ではないか!」

「でもよお。俺は身分よりも気位が高い帝国の女の相手なんて、親父の正妻だった嫌味ババアだけでもう十分なんだよ。しかも天主教徒になったからにはおおっぴらには妻の他に女囲えねえし」

「我儘を申すのも大概にせぬか! そなた、グリンスク大公であろうが! そもそも天主は確か、婚前交渉も禁じておったろう? だのに婚前に子を宿した私が大公妃になどなれるはずなかろうが!」

 ロスティヴォロドの命を狙う自分が、彼に支配者としての道理を説くだなんて。奇妙極まりないが、娘は叫ばずにはいられなかった。

「腹は確かにこれからせり出してくるだろうが、服を重ねて適当な時期まで誤魔化せばいいだろ」

「産み月はどうするのかえ! 腹は服で隠せても、産み月は誤魔化せぬぞ!」

「早産で生まれたが、神の思し召しで健康に生まれたってことにすりゃあいい」

 とうに感づいてはいたがこの男、閨事は執拗なまでに丁寧にこなしても、他は非常に適当だ。

「そんな雑な解決法があるか。だいたい、他の神を崇めるのも赦さぬ狭量な神が、戒律違反とやらを咎めぬはずはなかろうに」

「お前の言うことにも一理ある。でもだからこそ、金で――こういう場合は、聖堂を建てるとかすりゃなんとかなるんだよ。これもまた帝国流の処世術ってやつだ」

 爽やかに片目を瞑った男の顔をシグディースは殴りたくなったが、実行すると結婚に同意したと捉えられそうなので、ぐっと堪えた。

「だが、髪だってまだかように短いままであるのに、」

 このイヴォルカの地でも、また西南の帝国でも長い髪は立派な・・・女の証である。髪が短い女は皆例外なく罪人。それも、姦淫の罪を犯した女なのだ。だのに男装して身を隠していたという事情があるとはいえ、結べもしない短い髪のシグディースを妻になどしたら。さすればロスティヴォロドは、淫らな女を妻にしたと囃し立てられるだろう。

「サグルク人の結婚した女みたいに、人前に出る時は被り物かぶりゃあいいだろ。そうすりゃ、お前の髪が長いか短いかなんて、夫となる俺以外には分からねえぜ」

 だから私を妻にするのは諦めよと仄めかしても、ロスティヴォロドが直ちに逃げ道を塞いでいくのだからたまらない。この男は、屁理屈を捻りだす時ほど頭と舌がよく回るのだ。

「だとしても、何故私がそなたなどと――」

「妃になって、俺と一つ屋根の下で暮らすようになれば、暗殺の機会も増えるはずだぞ?」

 とうとう袋小路に追い詰められた娘は、それでも嫌だと首を振ろうとした。けれども細く形良い顎を掴まれ、耳元で優しく、甘く囁かれてしまったのだから、いよいよ申し出を跳ね除けがたくなってしまって。

「……一つ尋ねねばならぬことがある。そなたなぜ今まで、私に私が身籠っていることと、結婚を考えていることを教えなかった?」

 それでもこの男の言いなりになるのは悔しいし、たとえ無駄だとしても少しでも時間を稼ぎたい。また、少し前から自分の尻を撫でている手が気に入らなくて、娘は細められた濃紫から矢車菊の青の瞳を逸らしてしまった。それは敗北を認めた証であると、半ば自覚した上で。

「だってお前、俺と結婚するなんて、嫌だろ?」

「当然であろう」

「だったら、正式に結婚すると決まるまで知らない方が、せめてその間は幾分かましな気分で過ごせるじゃねえか」

 シグディースはとうとう、朗らかに持ち上がった頬に拳を打ち付けた。が、その瞬間手首を掴まれ、接吻されてしまった。今度は触れるだけの、優しいくちづけだった。まるで話に聴く、天主の徒が永遠の愛を誓う際に交わすもののように。

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