種蒔き Ⅱ

「今宵、大公様がこちらにお出でになるそうです」

 歓迎すべき知らせが齎されたのは、シグディースが黒麺麭パンと川魚の香草焼き、及び甘藍キャベツの汁物の昼食を摂っている最中だった。

「そうなのかえ。……待ち遠しいのお」

 上手くすれば今晩にも雪辱を晴らせる。胸に短剣が刺さった男の亡骸が無様に床に伏す様を想像し、娘は匂やかに紅い唇をほころばせた。すると控えていた奴隷たちは皆一様に、怪異を目撃したのかと問いかけたくなる顔になったのである。

 寝室に置いてある短剣をあの男が渡しに来た日。シグディースは流れと腕力に抗えず、結局ロスティヴォロドと媾合した。折悪くその最中に足を踏み入れてしまった奴隷も、あの時とそっくり同じ表情をしている。

 扉を開いた途端、真昼間だというのに絡み合う男と女の裸体が目に飛び込んできたら、驚いて当然だろう。むしろ驚かない方が不自然だ。だがシグディースは、今は何も驚愕に価することをしていないのに。

 元姫君は首を傾げつつも綺麗に食事を平らげ寝室に戻り、来るべき時に備えて短剣の点検を始めた。貴石が嵌めこまれた鞘に守られていた刃には、曇りも毀れもない。一方、数日前に一度どころか三度、四度と胎内に子種を放たれた体のあちこちでは、薄紅の花が咲いていた。

「……もうあのような無様は晒したくはないのう」

 別れ際のロスティヴォロドは余裕そのものであった。立ち上がることすらままならなくなったシグディースとは違って。つまり自分たちにはそれほどの力の隔たりがあるのだ。力量の差を知悉しているからこそ、あの男もシグディースが自分の命を狙い続けるのを了承したのかもしれない。だとしたら、悔しかった。つまりシグディースは舐められているのだ。

 イヴォリ人の慣習が良しとする血の復讐は、正々堂々とした、道理に適ったもののみだ。流された身内の血潮を購うためとはいえ、どんな手段を採っても報復すればよいというものではない。たとえ力及ばずとて、目標が寝入っている間にとか、あるいは多数で囲んでとかいう方法では駄目なのだ。卑怯な真似をすれば、損なわれた名誉を回復するどころか、更に一族の名を貶めてしまう。毒殺などもってのほかだ。

 ゆえにシグディースは、最中にこちらが一突きとか、あるいは事後彼が満足して眠るのを待って、という薄汚い真似をするつもりは毛頭ない。これから幾度ロスティヴォロドと肌を合わせようとも。あの男の好みに適っているらしい顔や体を利用し油断させて、という手も使わない。ロスティヴォロドの意識が保たれている間のみを狙い続ける。

 ただ、いくら覚悟していてもたまには、宿願は叶えられるのか不安になってしまうのだ。だって彼と自分では――男と女では、あまりに身体の作りが違う。二の腕など、あの男はシグディースの倍ぐらいあるのではないだろうか。その筋肉に蓄えられた力は、軽く見積もっても自分の倍以上あるだろう。背丈だって、シグディースは頭一つ分ほどもあの男に及ばない。

 などと部屋をぐるぐる歩きながら物思いに耽っていると、頭の中まで回転してきた。今宵、シグディースはあの男に抱かれる。ということはその分睡眠時間が減るし疲労もするから、昼の間にたっぷり眠っておいた方がいいだろう。

 食後の、長い睫毛に飾られた目蓋を重くする睡魔の誘惑には抗いがたく、数日前の情事の痕跡すら窺わせぬ寝台に身を投げ出す。すると詰め込まれた羽毛は華奢だが女らしい肢体を柔らかに受け止めてくれた。

 いっそ、このままあの男が来るまで寝ていてもいいかもしれない。胎児のごとく体を丸め、高く通った鼻からくうくうと安らかな寝息を奏でる娘の願望は叶わなかった。

「蒸風呂小屋の用意が整いました。早速行きましょう」

 夢の中とはいえ、ロスティヴォロドの心臓に刃を突き立てんとしていたまさにその時。女奴隷の一言によって甘い眠りを破られてしまったために。

「折角大公様がいらしてくださるのです。まさか、そのままでお迎えするつもりではないでしょう?」

「……はえ?」

 楽しい夢に無断で割り込まれ、あまつさえ午睡の時すら取り上げられるとは。元姫君は不服に優美な唇を尖らせ、女奴隷をねめつけた。

「あやつは恐らく、穴が空いてさえいればそれで構わぬ口だと思うがのう」

 だから、いま少し寝かせてくれたも。

 寝言ともつかない懇願は、やはり受け入れられなかった。

「……今日の蒸風呂は特別ですので、早く向かいましょう」

 頭痛でも堪えているのだろうか。蟀谷を指で抑えた女奴隷は、むにゃむにゃと文句を吐くシグディースを引きずってまで、母屋から離れた小屋へと連行した。

「私も共に入りますゆえ、ご安心くださいね」

 扉を潜るやいなや、未だ目蓋を半ば閉ざしている娘の寝乱れた衣服は、素早く剥ぎ取られた。

 蒸風呂で蒸気を浴びる前は、水を被るのが通例である。慣習に倣って冷水を浴びせられてもなお舟を漕ぐシグディースは、蒸気が籠った一室に独りにするのは危険と判断されたのだろう。普段の何かを押し殺したものとは全く違う、うきうきと弾んだ声の奴隷に支えられ、熱気が籠った部屋に入る。すると、先ほどの彼女の発言の意味が理解できた。

 柔らかな足の裏をくすぐるのは、種々様々な草花。夏の盛りの自然の力をいっぱいに蓄えた植物が、床一面に敷き詰められていた。

 腰掛に座り清しい森の香気が融け込んだ蒸気を浴びていると、身体の芯から癒され、浄化される。元来雪のごとく白く透明感のある肌は、水気を帯びて真白の玉さながらに。

「そろそろ、良い頃ですね」

 十分に汗を流したら次は、あえて葉を毟らず残した若枝を束ねて作られた、風呂箒の出番だ。この風呂箒で体を叩くと、樹木の持つ力が人間に移り、また溜った穢れを除去する効能があるという。女奴隷が振るう今日の風呂箒には乾燥させた薄荷ミントや蓬、加密列カモミールなどの芳しい草が混ぜられていた。自然の神秘だけでなく、香りまで移りそうである。

 ところで今のシグディースは、世間一般の見方に倣えば「穢れている」状態だろう。命と引き換えに家族の仇である男の唾液やら汗やら精液やらに塗れるのをよしとしたのだから。この身の穢れは、風呂箒ではいくら何でも祓えまい。だが、よい気分転換にはなった。

 最後に再び冷水を浴びて心身を引き締める段には、シグディースも流石に目覚めていた。女奴隷によって着せられた真新しい衣服が、まだ火照りを残す肌に心地良い。ただ一つ不満があるとすれば、風呂に入るのはあらぬ体液に濡れあらぬ体液を胎に注がれる前ではなく後が良かった、という一点ぐらいだった。

 折角さっぱりして綺麗になったのに、また汚れるというのは何だか惜しい気がする。もっともそんな我儘を、ロスティヴォロドの気まぐれに依って生きる地虫同然の存在が発したところで、一笑に付されるだけだろうが。

 憎い男の気まぐれのみを頼りに生きる虫けらは、あの男がこの身と顔に飽いたら、無残に踏み潰されてしまうのだろう。その時の訪れを少しでも遅くするためにも、床技とこわざの一つや二つ磨いておくべきなのかもしれない。

「化粧は不要ですね。元々は姫君だっただけあって、お顔は・・・それはそれは麗しくていらっしゃいますもの」

 ――大公様がお越しになるなるまでは、ごゆるりとお過ごしくださいませ。

 館の中に戻されると、寝室に放置された。完全に醒めた目は、しばらくはこのままだろう。こうなるともういっそ、一刻も早くロスティヴォロドにここまで来てほしくなった。そうしてさっさと一戦交えてしまえば、余計な諸々に煩わされずに眠れるだろうに。

 こんな風に胸が塞いでしまうのは、どことなく身体が重く、だるいせいなのかもしれない。となれば、もう少しで月に一度の障りが始まるのだろうか。月役の直前になると、シグディースはいつも大体こうなるから。

「おーい。約束通り来てやったぜ!」

 だから、館中に低い大音声が響いた時は、僅かながら喜びさえ覚えてしまった。これで鬱鬱とした思考を頭の中から追い出せる。

「んだよ。また寝てんのか?」

 荒々しい足音の数と大きさからして、ロスティヴォロドは従士を幾人か伴ってきたのだろう。道中に突然何者かに襲われないとも限らないから、必要な警戒だった。シグディースはそれしきで諦めはしないが。

「――待ちくたびれたぞ!」

 悲鳴さながらの軋みとともに、シグディースがいる寝室の扉が開かれる。すると視界に入ったのは、想像通り配下を幾人か従えたロスティヴォロドの、ぽかんとした顔だった。しかし組紐文様が描かれた柄を握って彼目がけて走ると、驚いたと言わんばかりの面に、獲物を甚振る猫の愉悦が広がって。

「おー、これはまた情熱的な出迎えだな」

 結果的に、試みは今回も失敗してしまった。ロスティヴォロドは突進してくるシグディースを難なく躱して横に回り込み、手刀でもって凶刃を落としたのである。そしてそのままシグディースを抱きしめて動きを封じると、

「俺もお前に会いたかったよ」

 顎を持ち上げて接吻してきた。しかも唇を重ねるだけの穏やかなものではなく、舌と舌を絡ませ合う濃厚なものを。

 強引に入り込んできた肉には弾力があり、噛みちぎるのは難しそうだった。己の口内を蹂躙する異物には、抵抗することすらままならない。空気の不足も相まって、娘の四肢からは緩やかに力が抜けていく。ついに膝から崩れ落ちかけた体を支えた腕は太く逞しかった。

 そのままひょいと抱えられ、寝台に降ろされた強張った肢体に、しなやかな筋肉で武装した肉体が圧し掛かる。いつのまにやら衣服の下に侵入していた硬い指先に細い背を撫でられると、認めがたく形容しがたい感覚が奔った。そしてその指は、脇腹をくすぐってきて。

 陸に打ち上げられた魚のごとくびくり、びくりと身を震わせると、幽かな笑い声が降ってきた。その声も、父母と弟の仇に弄ばれて生じた柔肌を焦がす熾火も、何もかもが耐えがたい。

「この通り俺はこれからお楽しみだから、お前らは外に行け」

 大公の従士たちは、犬かなにかのごとくしっしと追い出される。そうして最後の配下が出ていくやいなや、シグディースに圧し掛かる男はまず上衣に手をかけた。

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