種蒔き Ⅰ
短い夏の盛りの朝日を浴びた樹々の緑は鮮やかで。囀る小鳥たちの歌声は耳に快い。けれども刳り貫かれた窓の向こうをぼんやりと眺める娘の、紅の唇はほころばなかった。
「昨日もあやつは来なんだなあ」
なぜならシグディースの待ち人――十日前に異母兄を
もしやあの男、今更怖気づいたのだろうか。三年間欠かさず身に付けていた短剣は転倒した拍子に手放してしまったから、シグディースは武器など一切隠し持っていないのに。
あの悪趣味極まりない男に、命と引き換えに純潔を売り渡した日。シグディースは疲れていつの間にか眠っていた。
シグディースは長年ほとんど部屋から出ない生活を余儀なくされ体力が落ちていた上、実際に剣を振るいはせずとも戦場に立った。どころか抱き潰されたのだから、当然ではあるが。そうして何はともあれ目覚めたら、かつてロスティヴォロドの母のために建てられたという別邸で、柔らかな寝台に横たわっていたのだ。
イシュクヴァルト大公は大陸中部南方の帝国から正妻を迎えるにあたって、妾であったロスティヴォロドの母を屋敷から追い出した。そして彼女が病没する寸前までは、顔も合わせなかったと聞く。だが前の前の大公は、別れた後も変わらず三男の母である女を愛していたのだろう。その証拠に、この別邸はこじんまりとしてはいるが、そこここに女性らしい装飾が施されている。備えられた家具はいずれも一級品だった。
まだトラスィニに赴く前のロスティヴォロドは、五日に一回は母親に会うべく、大公邸からこの別邸まで馬を駆っていたという。つまり、そうしようとすれば幾らでも訪れられるのに、シグディースを抱きに来ないということは……。
もしや私は、たったの一回であの男に飽きられたのだろうか。だとしたら、いかにして父上たちの仇を取ればよいのだろう。
不穏な予感に、娘は薄紅い痕もすっかり消えた身体を抱き締める。
外の景色を眺めるのにも飽いてしまった。起き上がったばかりの寝台に再び身を横たえた娘は、上質な木材の天井をぼんやり見つめる。細く長い脚を包むのは華やかな柄の
「……退屈だのう」
誰に向けるでもなく囁いた一言が、朝の静寂を揺るがす。
別邸の維持とシグディースの世話のために付けられた女奴隷たちによると、周りには果樹が植えられているらしいが、行ってもいでみる気にはならない。行軍および戦闘の最中は気にする余裕はなかったが、足の裏が潰れた血豆だらけなのだ。大分治ってきたとはいえ、この館に移された当初は立ち上がるのにも難儀した。
それでもシグディースは一度、宿願を果たすための体力を付けるべく、あの男がいる大公邸に歩いて行ってみんとした。が、奴隷たちに縋りつかれて止められたので、断念せざるをえなかったのである。
以来、家内奴隷たちはシグディースに、暴れ馬か怒り狂った熊に寄こす視線を向けてくる。全くもって失礼な話だった。しかも彼女たちは、シグディースの一挙一動を監視してくるのだからたまらない。これでは台所から包丁一つ持ちだせないではないか。
この際刃物は諦めるとして、何か撲殺に使えそうな物はないだろうか。例えば大きな岩とか。そうすれば、あの男の脳天をかち割れるのに。
自分の細腕で持ち上げられるのかとは一切考慮せず、憎い男の死にざまを想像し淡い笑みを浮かべた元姫君の目蓋は、いつしか再び閉じていた。いわゆる二度寝である。
そして彼女が再びその矢車菊の青の瞳を開いた時、傍らには夢にまで見た男がいた。しかも、安らかな寝息を立てて。
「――なっ」
状況を解しかねて戦慄いた背には、がっちりとした腕が回されていた。いったいこれはどういうことだ。昨夜この男と臥所を共にした覚えはないし、そもそもシグディースは一度目覚めたはずなのだが、その全てが記憶違いだったのだろうか。
広い背に拳を叩きつけることは叶わずとも、シグディースの混乱が伝わったのだろう。ロスティヴォロドは存外長い睫毛に囲まれた双眸を一、二度瞬かせ、身を起こしてふわと欠伸をした。
「……よう、元お姫様」
吸い込まれそうに暗い、暗がりではいっそ黒に近くすらある紫紺が、ひたとシグディースを見据える。その鋭い目つきやしっかりとした眉は、成る程彼の父や兄を彷彿とさせた。
「呑気に挨拶をする暇があるのなら、まず私を離せ! そして状況を説明せぬか!」
「最初に抱き付いてきたのはそっちの方なのに、酷い言い草だな」
はいはいと適当極まりない応えが返されるとともに、華奢な背は圧迫感から解放される。しかし尻尾を踏まれた猫のごとくいきり立った娘は、それしきでは宥められなかった。
「わ、私がそなたに抱き付いてきただと?
娘は普段は雪を欺くほど白い頬に淡く血の色を叩き、切れ上がった大きな瞳で対峙する男をねめつけ威嚇する。
「空言も何も、事実なんだが。……ま、んなことどうでもいいか。とにかく、お前が元気にしてたみたいで何よりだよ」
すると彼は一瞬、この上なく嬉しそうに、けれども切なげに微笑んだ。シグディースが家族の恨みを晴らす機会を得る引きかえに、この男に身体を許した日と同じく。
「多少の疲労と打撲はともかく、私は特に怪我も病気もしていなかったのだから、元気にしていたに決まっておろう」
「それはそうなんだが、お前が置かれた状況を考えると、普通の神経の女ならとっくに河に身投げでもしてるぜ。なんせ家族の仇にほとんど無理やりヤられたんだからな。だから俺は少し心配してたんだが――」
その必要はなかったみたいだな。そう呟くやいなやロスティヴォロドは、大口を開けて破顔した。
「そなたはまことくどいのう。あの日そなたに抱かれたのは、私自身の意思であるのに」
笑われるような振る舞いは何もしていないのに、目の前の男が目尻に涙さえ滲ませて腹を抱えている様が腹立たしくてならない。ゆえに娘は匂やかな紅唇を僅かに尖らせた。
「で、何だ? 経緯はいまいち分からぬが、そなた私を抱きに来たのであろう?」
――ならば、さっさとそうするがいい。
シグディースが潔く上着を脱ぎ捨て、細い体には不釣り合いに実った乳房や腰の括れを曝け出すと、ロスティヴォロドはしばし固まっていた。やや顎鬚が伸びた顔には、あからさまな困惑が乗せられている。
この男は情事の相手をさせるためにシグディースを生かしたのだ。だから喜びこそすれ、驚く理由などないだろうに。あるいはもしや、ロスティヴォロドは嫌がる女を無理やりに、というのが好みだったのだろうか。だとしたら本当に趣味が悪い。だが、その趣味にシグディースが付き合ってやる義理はない。
「ほれ。そなたの好きにするがよいわ」
下半身をも露わにし、脚を開く。そこまでしても目の前の男が動く気配はなかった。焦れた娘は、しなやかな指で淡い繁みに覆われた肉の蕾を開いた。薔薇色に色づいたそこは既にこの男に暴かれているのだから、恥ずかしくもなんともない。
「いや、あのな……折角その気になってくれたところすまないし勿体ない気もするが、実は違うんだ」
けれども自分の目論見が外れていたと知った途端、娘は頬どころか耳まで白桃色に上気させた。
「今日はお前の顔を見るのと、あとある物を渡しに来ただけで、用事が済んだらすぐ帰るつもりだったんだ。だけどいざ来てみたらお前があんまり気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも悪いかと待ってる間に俺も少し眠くなってな。だから一緒に寝かせてもらったという次第で」
「――だ、だったらそうと早う申さぬか! そなたのせいで要らぬ恥をかいたではないか! このうつけが!」
「お前が勝手に勘違いして、勝手に脱いだんだろ? なのにうつけはねえぞ」
娘は嫋やかに通った眉を逆立て、鍛えあげられた体に一糸纏わぬ裸体を密着させて拳を打ち付ける。すると、ロスティヴォロドは何が嬉しいのか、軽やかな笑い声を立てた。が、その余裕も徐々に鳴りを潜め、真剣な表情に取って代わられて。
「で、その渡したい物ってのがな、」
外套や長剣その他諸々が置かれていた寝台の側近くの小卓に、矢によるものか剣によるものかは定かではないが、傷跡が幾つか刻まれた腕が伸ばされる。
「お前、この短剣拾い忘れてただろ?」
そうしてシグディースの眼前に突きだされたのは、紛れもなくあの短剣だった。シグディースの運命が最初に変わった日、目的は今もって不明だがこの男に与えられ、二回目の運命の日に失ってしまったはずの。
見事な組紐文様の象嵌と、研ぎ澄まされた刃は、もはや愛おしかった。今すぐ手に取って冷ややかな鋼色と、黒と金色の細工が放つ煌めきを見入っていたい。身を隠していた三年間ずっと、暇な折にそうしていたように。しかしその前にやるべきことが一つあった。
「……何故だ?」
シグディースにこの短剣を渡したところで、ロスティヴォロドに得など何一つない。むしろ究極の不利益――すなわち彼の死の原因ともなりかねない。なのにどうして、ロスティヴォロドはこの短剣をシグディースに
言葉にせずとも、渦巻く疑念は伝わったのだろう。青い星の輝きを放つ幻想的な金の髪を撫でる男の面には、いつも張り付けている軽薄さは欠片もなかった。
「お前は家族の復讐を果たすために俺の妾になっただろう? なのにそのための手段を与えないまま、お前の体を好きにするのはどうかと思ってな。混血の庶子とはいえ、俺もお前と同じイヴォリ人だ。血の復讐の義務の重さは理解している」
巻貝の耳に熱い息の通う唇が寄せられる。いや、熱く燃えているのは、彼の息がかかった己の首筋なのかもしれなかった。
「だが、俺も大公という身になったからには、そうおめおめとお前に殺されてやるつもりはない。だから、使う獲物はこれだけにしてくれ」
耳をくすぐる男の声は普段よりも小さく低いのに、変わらずに朗々と、腹の底にまで響く。
「あと、お前が一回俺を殺すのに失敗したら、その度に抱かせてくれ。そのぐらいの役得がないと、俺も命を賭けたくはないんでな」
この男はそうしようとすれば幾らでも、シグディースを犯したり殺したりできる。彼がそうしたとて、周囲の者は一切非難すまい。だのに、こんな取引を持ちかけてくるなんて。この男、今まで散々シグディースを笑い者にしてきたが、彼自身も結構な変わり者ではないだろうか。
「この剣を取ったら同意したと見なすが、いいか?」
どこか躊躇いがちな問いかけに娘は勢いよく首を縦に振り、男の体温を吸って温もった鞘を受け取った。喜びのあまり鞘を飾る紅蓮の石に唇を落とすと、押し殺すような呻き声が聞こえてきて。
「……そろそろ限界だな。色々はちきれそうだ」
一体何事かとロスティヴォロドの方に視線を投げると、彼は何故だか服を脱いでいた。自然、見事に盛り上がった大胸筋や割れた腹筋、その下――というか腹につくぐらい持ち上がった物体に眼は釘づけになる。
「――今生の頼みだから、一回だけヤらせてくれ!」
「そなた、私がそなたの命を狙って失敗したら抱くと申したばかりではないか! 私はまだそなたに刃を向けてもおらぬぞ!」
あれはいったいなんだ。十日前は目にする間もなく押し込まれたので分からなかったが、男のそれとはあんなに凶悪なものなのか。だとしたら自分のそこはよく壊れなかったものだ。
娘にじり寄る恐怖から逃れるべく後退ったが、呆気なく捕まえられてしまった。
「だから今生の頼みだってつってんだろ! 大体、お前みたいな顔も体も一級品の女に脱がれてその気にならねえ方がおかしいんだよ!」
こやつ、先ほどからやたら腹の下を硬くしていると思ったら。
慄く娘は、脳裏に過り喉元までせり上がって来た文句を、音にできなかった。
「な? できる限り優しくするから――」
覆いかぶさって来た唇に、割り込んできた舌によって、吸い尽くされてしまったために。
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