麦刈り Ⅲ
「おーい、早くこっち来いよ!」
シグディースに跨りながら陽気に手を振る男が、エレイクの一族の三男であったとは。俄かには受け入れがたい衝撃であるが、納得できなくはなかった。
三年前の運命の日、彼は故イシュクヴァルト大公の隣に控えていた。物言わぬ身となって血だまりに伏しているヴィシェマールとともに。なのに彼もまた故大公の子であると気づけなかった、シグディースの頭の働きが鈍すぎたのだろう。この地に生きる者なら、故大公とその三男がサグルク人の女から生まれてきたのだと、皆が皆知っているのに。そういえば故大公とこの男は、雷のごとく腹の底に響く力強い声が大変よく似ている。
だのに、原住民の特徴を濃く持つ位高い戦士と出会ってから三年経っても、彼がロスティヴォロドであると見抜けなかっただなんて。もっと早く宿敵の正体を悟っていれば、女奴隷の振りをするなりして近づいて、家族の恨みを晴らす機会を幾らでも作れたものを。
己の愚かさを悔やみ呪う娘の噛みしめすぎた唇からは紅蓮の雫が滴る。だが、鉄錆と死の臭気に噎せ返る一室に集まった人間は、一人としてそのような細事を気に留めなかった。
「お前、一体どこで道草食ってたんだよ。こちとら、お前を待ちくたびれてたんだぜ?」
やけに親しげにこの地の新たな支配者となる男に話しかけられる、若い男を除いては。
アスコルは押さえつけられたシグディースに、もの言いたげな目を寄こした。しかしそれも一瞬のこと。
国も、家族も。ほとんど全てを喪い復讐を決意してから今に至るまで、共に過ごしてきた青年の態度は冷淡そのもので。たった一つ残されていた者――助けたかった姉すらも目の前で喪った娘の頭に、ある疑惑を植え付けた。アスコルは、ただ忠義と親切心でシグディースを助けてくれていたのではないと。今まで縋っていたものよりもよほど説得力がある、一つの可能性を。
怒りのあまり、目の前が真っ赤に染まった。直ちにアスコルの胸倉を掴んで問い質したいのに、憎い男に囚われたこの身では起き上がることすらままならない。
「初めて顔を見る奴も多いだろうから、最初から説明するぞ」
家族の仇はシグディースの怒りなど素知らぬ顔で、配下の従士に語りかけた。
「まず、この女は誰かと言うと、シチェルニフのお姫様だよ。その――」
ロスティヴォロドが指図すると、従士の一人が艶を失った長い髪を乱暴に掴み、事切れた女の顔を、窶れ果てた体ごと持ち上げた。先ほどシグディースがそっと横たえたフリムリーズを。
「何となく、見覚えがあるやつもいるだろ?」
この場に集まったロスティヴォロドの配下には、三年前の戦にも参加した者が多くいるのだろう。そして彼らは、シグディースはともかくフリムリーズの顔は覚えていたに違いない。なんせ、あんなことがあったのだから。
「成る程、なあ。言われて見りゃあ、確かに」
「でも、まだ
フリムリーズの髪を掴んでいた男は下卑た笑い声を上げると同時に、哀れな亡骸を床に叩き付けた。まるでがらくたを放るように。
「それでこの女はロスティヴォロド様を殺そうとしたんですね。家族の仇を討つために」
従士たちの内数人はイヴォリ人であるのは、外見からも明らかである。ゆえにイヴォリ人の慣習をも知悉している男達は、やがて口々にシグディースの処罰を求め出した。こんなおっかない女、いつまた復讐を目論むか分からない。だから今ここで殺しましょうと。
迫りくる死が怖くないと言えば嘘になる。だが、あの日の姉のように陵辱された挙句凶刃を彩る露となるぐらいなら、いっそ一思いに、と願わなくもなかった。
「まあ待てお前ら。俺はこの元お姫様に言いたいことが沢山あるんだ」
けれどもその細やかな願いすら、目の前の男は容易く踏みにじった。シグディースの父母と弟を屠った時と同じく。
「まずお前は周りの状況をよく見て、そして命を大事にしろ。折角人がくれてやった命なんだからな」
熱のこもった囁きは真摯とも呼べなくはなかったが、どの口が、という憤怒は到底抑えきれなかった。けれども娘が自由に動かせる手を握り締め、腹立たしい顔にめり込ませようともしなかったのは、ほんの僅かとはいえ驚愕が怒りを凌駕したため。
人が――この場合は家族の仇であるロスティヴォロドが、シグディースに命をくれてやったとはどういうことだ。嫋やかな孤を描く眉を寄せた娘は、ややしてはっと目を見開いた。
あの時のロスティヴォロドにとってはシグディースを殺すなど、息をするよりも容易く行えたはずだ。なんせシグディースは、彼の前で無様にも失神してしまったのだから。だのに、それをしなかったということは――
「やっと気づいたか」
先ほどの熱が滲む囁きは聞き間違いだったのだろう。シグディースに圧し掛かる男は、相変わらず意地の悪い猫を彷彿とさせた。だのにシグディースが性を偽るために短くした毛先を弄ぶ指先には労わりが満ちている。それもまたわざとなのかもしれないが。
「俺は親父に、シチェルニフ公の二人の娘のうち姉は兄貴にくれてやる予定だから、妹のお前は俺の物にすればいいと勧められてた。そうすれば平等だから、ってな」
首筋を這い回っていた硬い指先が、鎖骨の窪みにまで下りてくる。そうして上着の中にまで滑り込んできた指は、幾重にも巻いた布の結び目を探り当てた。
「俺としては親父の言う通りにして、お前をあの場で好きなだけ犯しても良かったし、実際そうするつもりだった。ヤった後は俺の兵に褒美としてくれてやって、死ぬまでマワさせてやればいいと。でもお前は大人しくヤられてた姉君とは全く違って、射殺しそうな目で俺を睨みつけてきたもんだから、惜しくなったんだよ」
瞬間、鼻歌を歌い出しそうな朗らかさを湛えていた――それもそれで、この二つの亡骸が転がった場にはそぐわないが――双眸は、氷柱のごとく鋭く冷たくなった。シグディースの胸を弄っていない、空いた片方の手が、細く形良い顎を掴む。
「お前はきっと何もせず生かしておいた方が面白いし、あと数年待てば俺好みのいい女になる。そう思ったから、親父にはよく見たら好みじゃなかったから兵たちにヤらせると言って、お前を外に連れ出した。そして――」
骨が軋まんばかりの力からシグディースを解放するやいなや、悪趣味な男は端整な面を華々しくほころばせた。
「そこに居るアスコルをお前の監視役兼護衛として付けて、今まで自由に泳がせてやってたわけだ」
ということはやはり、アスコルはシグディースを騙していたのだ。出会った時に彼が言っていた、シグディースを救うために命を落とした友人など、最初から存在していなかったのだろう。シグディースは幾度となく悩んだではないか。敗北し国と財産を失った君主の娘など助けるに値しないのにどうして、と。
アスコルが無私無欲でシグディースに仕えていたとするよりも、全てロスティヴォロドの差し金であったとする方が、よほど納得できる。第一、彼に報酬の一つも払えない、負担にばかりなっていた自分には、彼を責める権利などありはしない。
「俺を探すために男の振りをして俺の従士団に入ったと聞かされた時は、腹抱えて笑わせてもらったもんだ」
しかし、アスコルもまた目の前の男と一緒に自分を道化にして笑っていたのかと考えると、全身の血が熱く沸騰した。ロスティヴォロドが上に居なかったら。あの短剣がまだ己の掌中にあったら。さすればシグディースは、アスコルの心臓に刃を突き立てるべく突進していただろう。
「とにかく色々と楽しませてもらったけど、しっかしお前、俺の玩具じゃなかったらとっくの昔に誰かにヤられてたぜ?」
けれども現実には、家族の仇である男の気まぐれによって生かされたシグディースは、この世の誰よりも血祭に上げたい男をねめつけるぐらいしかできない。
「髪は切ってるけど、どっからどう見ても女なんだよな」
胸部を覆った布はすっかり緩められていて、上着越しであっても豊かに実った乳房の存在はあからさまだった。
「こんな立派なもん付いてんのに、布で押し潰して隠して、男の服を着るなんて勿体ない。髪だって、あんなに綺麗だったのにな」
そのふくらみを容赦なく掴まれ揉みしだかれる屈辱のあまり、両の眼には熱い涙が滲む。だが、こんな男に涙をくれてやりたくはない。だからシグディースは粗末な衣が引き裂かれ、誰にも見せたことのなかった部分を露わにされても泣かなかった。
「あー、でも本当にいい女になったな。お前は覚悟も腕前も足りてねえけど、それだけは認めてやる」
シグディースはきっとこれから、誰よりも憎い男に身体を弄ばれ、純潔を奪われるのだろう。
「ロスティヴォロド様、事情は分かりましたが、一回済ませた後そいつをどうするつもりなんで?」
「……あ? んなの、まずヤってから考えるに決まってんだろ。いまいちだったらてめえらにくれてやってもいい」
「ほんとですか!?」
「で、その後殺すとかでもいいな」
もしくは蹂躙されるのは目の前の男だけにではないかもしれない。しかしそれは姉も舐めた屈辱だ。シグディースにだって耐えられなくはないだろう。
なんにせよ一時耐え忍びさえすれば、家族が待つ地下の国に、あるいは地獄に逝ける。もはやそれだけが、全てを喪った娘に残された唯一の希望だった。けれども最後のあえかな光すらも、シグディースから全てを奪った男は踏みにじる。
「そうだ。俺を楽しませた褒美に、お前に選択肢をくれてやってもいいかもしれないな」
シグディースがあまりにも震えていたからだろうか。淡く色づいた胸の先を摘まんで捻り、しっとりと掌に吸い付く内股を弄っていた男は、ふと面を上げて朗々と宣言した。
「一つは、今ここで清い身体のまま俺に殺される。もう一つは、この場で俺の女になって生き延びる。一体どっちがいい?」
国や家族どころか、力も知恵も持たないお前にも、生き延びる道はあるのだと。誇り高い死と汚辱に塗れた生のどちらを選ぶかは、シグディース次第なのだと。
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