麦刈り Ⅱ

 姉は、生きていたのだ。感激のあまり喉を詰まらせたシグディースの姿を認めるやいなや、幽鬼さながら――どころか、幽鬼よりも生気に乏しかった女の目に、正気が灯った。

「……シグ、ディース?」

 この三年、フリムリーズはどんな地獄を生き抜いたのか。シグディースには想像すらできなかったが、姉は最後の最後で自らを辱めた男への報復を果たしたのだ。

「ど、して、こんなところ、に?」 

 ぎこちなく微笑むフリムリーズが纏う粗末な衣服は、おびただしい血で濡れそぼっている。しかも、姉の服どころか肌を穢す液体は、後からどんどん溢れてきているようであった。とすれば姉は、彼女自身の生命と引きかえにして復讐を遂げたのだ。その事実は、姉との再会に締め付けられた胸を、また別の意味で締め付けた。息もできないほど。

「わたしはいいから、はやく、逃げて。……あぶない、でしょ」

 優しいフリムリーズは、自分が死にそうな傷を負っているのに、シグディースの身を気遣ってくれた。そのことと、つい先ほど姉上は私を恨んでいるやもなどと考えてしまったことが、申し訳なくてならなかった。

 姉上に、謝らなければ。せめて、最期まで側に居なければ。

 姉の末期の願いを聞き入れるほど、シグディースは薄情ではないつもりだった。紅蓮に沈む男の形をした肉塊を蹴飛ばし、今にも旅立たんとしている華奢な肢体を抱きしめる。

 フリムリーズはもともと細身だったが、この三年でいっそう痩せてしまっていた。頬はこけ、背には骨が浮いている。

「あなた、ほんとに、綺麗になったわ」

 なのに姉は、彼女とは異なり胸部と臀部に脂肪を蓄えた、健康的な肉体をしたシグディースを少しも責めなかった。

「……姉上。もう、喋らないでください」

「だからきっと、いいひとと、出会えるから。……わるいのは、ぜんぶ、わたしなんだから、」

 おとうさまやおかあさま、ヨギルの分まで、あなたはしあわせに。

 それが、姉の最期の言葉になった。否――出血が止まらないとはいえ、今しばらくは生きていられるはずだったフリムリーズは、背に突き刺さった一本の矢によって絶命したのだ。

「お前ら、見てたか? 丁度真ん中に命中しただろ!」

 出入り口に背を向ける形でシグディースに支えられていたフリムリーズを射抜いた男。その血みどろの戦場で響くものとは俄かには信じられぬ、屈託のない声には覚えがあった。

 シグディースがほとんど全てを失った三年前、互いの息がかかる程間近で耳にした低音。そして大公の館に突入する直前、遙か後列のシグディースの腹の底にまで響いてきた、よく通る咆哮。

「よお、久しぶりだな」

 その全てを発した男は、快活とも呼べる笑みを浮かべている。

 緩やかな癖のある銀灰の髪に、印象的な瞳。なにより面立ちが、彼が誰であるのかをシグディースに教えてくれた。刃を取って立ち上がり、父母と弟の恨みを晴らす時がついに訪れたのだと。

「三年振り、だったか?」

 こんな状況だというのに男は余裕たっぷりに、シグディースに向けて片目を瞑ってきた。節くれだった指が掴むのは、逞しい首に掛けられた、甘やかな金色の欠片の首飾り。――これで、決まりだった。

 事切れた体をそっと横たえる。翠の瞳はもはや光を失っていたが、シグディースがこれから恥辱をそそぐのを見守ってくれるはずだ。

 この三年片時も手放さなかった短剣を鞘から抜き、入り口付近に立つ男に向かって突進する。誇り高きイヴォリ人の娘として、家族の仇を取る。ただそれだけに全てを賭けたシグディースの耳では捉えられなかったが、細い喉からは獣の吠え声が溢れていた。

 自身の雄叫びすら聞こえぬ耳には、姉と姉に辛苦を味わわせた男の血潮をばしゃばしゃと踏みしめる音も届かない。耳どころか目すらも、淡く口元を吊り上げた憎たらしい顔しか認識しなくなっていた。だからシグディースは、目標が剣の柄を握り、すんなりとした腹部目がけて振り回したことにさえ気づけなかったのだろう。

 報復の炎に呑まれた娘は、痛みさえ感じなかった。けれども細い身体は柔な腹部に加えられた衝撃に耐えかね均衡を崩す。しばし息もできなくなったほどの打撃を、革の鎧程度で防ぎきるのは不可能だったのだ。しかも、切れ上がった大きな蒼い瞳を更に大きく瞠った娘の足元には、大公の物らしき豪奢な装飾の施された――恐らくは姉に致命傷を与えた剣が転がっていたのである。

「うわ、だっせえ」

 惨めに血だまりに倒れ伏した娘が最初に覚えたのは、なぜ自分は転倒してしまったのかという疑問であった。頭上で飛び交う侮辱に怒りを募らせる余力など、砂粒ほども残っていなくて。次いで、父母から受け継いだ血と誇りを燃やしていた間は遠ざけられていた感覚、つまり左の脇腹を中心に奔る鈍痛によって、千々に乱れた意識は苛まれた。

 私は、あの男に斬られたのか。でも、だったらなぜ生きているのだろう。何よりも大切な誓いを果たせなかった、不甲斐ない私が生きている価値も意味も、もはやありはしないのに。

 薄い唇を噛みしめる娘は、ややして自分の息の根が未だ絶やされていない理由を悟った。木製とはいえ硬い床に身体を叩きつけられたはずみで、手放してしまった短剣。腕を伸ばせば取り戻せなくもない近さにあった一振りをどこぞに蹴飛ばした男は、剣を鞘から抜いていなかったのである。

「話には聞いてたけど、お前ほんと頭に血が上りやすいんだな」

 身動きを封じるためだろう。激痛に呻吟する娘に馬乗りになった男は、鼠を追い詰めた猫の、残忍な笑みを浮かべていた。この男の面に嵌ってさえいなければ、素直に美しいと評せただろう一対の深い紫。存外に長い睫毛に囲まれた双眸に宿る冷たい光からも、彼がこれから獲物を甚振ろうとしているのは明らかである。

 つまりシグディースは、この男のしばしの暇潰しのために生かされたのだ。だのに常ならば覚えたはずの、溶岩さならの憤怒で脳裏を焼かれなかったのは何故だろう。呼吸すらもままならず霞がかかった頭では、怒りを滾らせることすらできないのだろうか。

「ちったあ俺の今の恰好を考えろよ。ほとんど全身を鎖帷子で守った状態で、一体どうやって俺に致命傷を与えるつもりだったんだ?」

 男がさも呆れ果てたと言わんばかりに、しかし端々に愉悦を滲ませた口調で囁くと、周囲では嘲笑がけたたましく炸裂した。

「確かに、なあ」

「しかも、躓いてずっこけるし。――寸劇としては最高だったけど、情けないったらありゃしねえ」

 いつの間に、この部屋に入って来たのだろう。あるいは気付かなかっただけで、憎悪する男と共に乗り込んできていたのかもしれないが、シグディースは気付けば十は下らない戦士たちに囲まれていた。

 腹を抱えて爆笑する者に、口元を手で隠す者。眦に涙さえ浮かべた者。嗤いはせずとも、シグディースを冷ややかに見下ろす者。様々な態度は、彼らはいずれもシグディースに圧し掛かっている男の仲間であり、自分に加勢するつもりなど万に一つもあり得ないのだと示していた。

 腹立たしい男共を血祭りに上げられも、誇りを蝕む哄笑を止められもしない娘が唯一満足に行えるのは、ようやく整ってきた呼吸だけ。だがそれすらも、今のシグディースにとっては何らの意味も有してはいなかった。シグディースはどうせ宿願を果たせぬまま、この男が十分に自分を辱めたと満足したら殺されてしまうのだから。

 胸を突いて殺そうというのか。男は布を巻いてふくらみを隠していた胸部から、胴体を覆う革鎧を外さんとしている。せめてと存在そのものが憎らしい男をねめつけていると、ふと目があった。

「――と、いうのが今のお前の腕前への評価だ。よーく聞いて覚えとけよ」

 高すぎず低すぎず、流れるように通った鼻梁も。くっきりとした真っ直ぐな眉や鋭い目も。引き締まった唇も。それらで形作られた笑みも魅力的だと言えるのが、打ちのめされた娘の激情を更に煽る。ようやく満足に体に行き渡った空気は、憤怒の炎を一層激しく燃え上がらせた。

 これ以上こいつの玩具になるぐらいなら、もういっそ自死した方がましだ。

 天主の教えでは自殺は大罪だと禁じられている。だが、そうして堕ちた地獄には、懐かしい父母や弟、今しがた別れたばかりの姉がいるかもしれない。だって、シグディースの家族は「異教徒」なのだから。

 喪った家族への慕わしさにも駆られて薄い目蓋を下ろし、舌を歯で噛み切らんとした娘の口に、弾力のある何かがねじ込まれる。

「お楽しみはこれからなんだぜ? だから、まあ気長に待ってろよ」

 唾液で滑った口内に己が指を挿し込み、シグディースから自死の自由をも奪った男は、恋人同士が交わす睦言のごとく甘く囁いた。シグディース以外の者の耳には届かぬだろう、密やかな声で。

 女の華奢なそれとは全く違う太い指、それも一本どころか三本で同時に柔な口腔を弄られると、反射的な涙と嘔吐感は抑えられない。背を曲げて咳き込みたいのに、成人した男と彼が纏う鎖帷子の重みに圧し掛かれているのだから、それすらもできなかった。

 再び襲い掛かって来た息苦しさは、濃い靄となって弓弦のごとく張りつめた娘の意識を侵食した。けぶる睫毛に囲まれた花の青の双眸からは、意思の輝きが急速に失われる。

「あ、悪いな。面白かったから、ついやり過ぎちまった」

 異変に気づいたのだろう。男は、慌てて指をシグディースの口腔から引き抜いた。口先だけの謝罪に殺意を募らせる娘が、革の鎧が既に毟り取られているのだと思い至るまでには、しばしの時を要した。

「まあでも、こうして唾をダラダラ垂らしてても、美人はやっぱり美人だな」

 大きくて筋張った武骨な手に、細い首から布で押さえつけただけの胸にかけてを一撫でされるやいなや、脂汗が滲む背に悪寒が奔った。千々に乱れる脳裏には三年前の運命の日の姉の姿が過り、口内はからからに乾いてゆく。

「それは同意しますけれど、しっかしロスティヴォロド様、このもしかして……」

「まあ、それも待て」

 この男ならばともかく、なぜ初対面の輩にまで私が女だと見抜かれたのだろう。

 舌すらも凍り付かせた娘の耳は、ややして聞きなれた音を拾い上げた。自分を救い出してくれるやもしれぬ、ただ独りの人間の足音を。

「おー、アスコル。丁度いい所に来たな」

 これで役者が揃った。グリンスクの大公になることが確定した男は楽しげに囁いて、シグディースもよく知った人影を歓迎した。

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