麦刈り Ⅰ

 陥落したグリンスクだが、兵たちはあらかじめ略奪を禁じられていたため、市街において大きな混乱は生じなかった。前の主が死去して幾ばくも経たぬがゆえ、民たちは心からの忠誠を故人の長子に捧げているとは言い難い。新たな君主が故人の長男であろうと三男であろうと、民たちにとっては大した違いはないのだ。

 ゆえに、三男ロスティヴォロドやその配下の兵は、民による妨害に何一つ遭わず、自らも幼少期を過ごした屋敷へと進軍できたのである。戦死した敵兵の中に兄らしき亡骸を見出せなかった以上、ロスティヴォロドはどうしても進まなければならないのだ。

 自らが即位した後の民衆の支持を得るべく、イヴォルカ第一の都市に住まう者への手だしを禁じた若き公。彼が許した唯一の例外は、斃すべき兄が蓄えた財産だった。そしてその財産の中には、長兄ヴィシェマールが所持する全ての女も含まれる。

 地位の如何に関わらず、柵に囲まれた大公の屋敷の中の女たちは皆震えているはずだ。彼女らのある者はあと数刻も経たぬうちに囚われて奴隷の身に堕とされ、またある者はその場で穢されてしまうのだろう。姉のフリムリーズも、もちろん。

 ロスティヴォロドは大公位に正式に就いたのち、自分の手足となって戦った者へ十分な報奨金を出すつもりらしい。同胞たるイヴォリ人や支配するサグルク人、度々互いに弓を射かけてきた遊牧民を問わず、ただ戦果に応じて。

 しかし血の気が多い遊牧民たちは、与えられた褒美が自分が流した血と釣り合わぬと判断すれば、今度は敵となってこの都を襲うだろう。油断ならないのは、イヴォリの戦士やサグルク人も同じ。彼らはいつエレイクの一族に取って代わろうとしてもおかしくはなかった。ゆえに、ロスティヴォロドが大公の屋敷での略奪は認めたのは、この後の支配を安定させるために必要な措置ではあるのだ。

 ロスティヴォロドの沙汰には、ヴィシェマールの胤を腹に隠しているやもしれぬ女を根絶やしにするという意図も隠されてもいるのだろう。たとえ女奴隷の子であったとしても、エレイクの血統に連なっていれば、担ぐ者は必ず出てくる。我こそが敵の頭目を――この場合は彼の兄を刃の露にせんと、先陣を駆けているという若者自身のように。

 もしもロスティヴォロドが配下の兵の不満を抑えきれず、位から追われてしまうことになったら。さすれば、しばしの後に大公の屋敷で繰り広げられるだろう惨劇が、このイヴォルカ全土で行われるのは間違いない。起り得る惨劇を防ぐためにも、多少・・の犠牲は許容しなくてはならないのだ。そのぐらい、シグディースにだって理解できる。だが、哀れな姉にこれ以上の苦しみを味わわせたくはなかった。

 さして上質ではあらねども女の身には扱いきれぬ武具の重みや、潰れた血豆の痛み。細い身体に纏わりつく痛みに新吟しながら、ようやく辿り着いた大公の屋敷は、想像以上に壮麗な建物だった。三年前に炎に呑みこまれた、シグディースが生まれ育った屋敷と比較しても、規模やそこここに施された装飾の精緻さが際立つ。

 この邸宅がこれから、血と臓物と男達の長靴にへばりついた汚泥に汚されてしまうのか。そう考えると、少しばかり残念になるほどであった。

 シグディースが紛れている後陣からは遠くに、一際立派な防具で身を飾った男が立っている。彼は何の躊躇いもなく、数多の思い出が詰め込まれているであろう家目がけて突進した。鋭い牙で追い詰めた獲物を屠る獅子か豹めいた咆哮。その数々のうち、腹の底にまで響くよく通る低音にはどことなく覚えがあった。しかし、いつどこで耳にしたのかと思案する余裕などありはしない。

 ややして若き公とその選り抜きの精鋭たちは、門を守っていた衛兵を一人残らず赤い海に沈めた。その粘つく水は、無論倒れ伏した男たちの身から吹き出たものである。

 主の勇姿に刺激されたのか。早く大公邸に入らなければ、目ぼしい物は全て取られてしまうと気づいたのか。シグディースやアスコルの周りの兵たちもまた、公に続けと叫びながら前進した。シグディースとて、自分も彼らに倣わねばならぬと自覚してはいる。けれども、何の恨みもない雑兵たちを物言わぬ肉塊に変えられるだろうか。

「じゃあな。死なないように気を付けてくれ」

 荒々しくうねる人波に揉まれ逸れてしまったために、シグディースはアスコルに感謝の言葉一つ告げられなかった。再び逢える保証など、どこにもありはしないのに。

 そういえば彼は、なぜここまでシグディースに親身になってくれたのだろう。シグディースがかつての君主の娘であったからだとしても、全てを失ったシグディースは彼に褒美の一つもくれてやれないのに。むしろ、彼の負担となってばかりだったのに。

 姉上をお助けし、あやつに今一度見まみえ礼を述べるためにも、私は生き残らねばなるまい。

 覚悟を決めると、腕の震えは徐々にだが鎮まった。決意を新たに足を踏み入れた屋敷の中には、既に敵も味方も様々な死体が折り重なって倒れている。その中にはもちろん女の亡骸も混じっていて。

「……姉上?」

 うつ伏せに倒れ伏す若い女の亡骸を目にした際などは、駆け寄って彼女の面相を確認せずにはいられなかった。よくよく見やれば、事切れた彼女はイヴォリ人特有の月か星を連想させる金髪を有してはいない。背格好だって、姉とはまるで異なるのに。

 一太刀で斬り捨てられたのだろう彼女への憐れみに、胸が締め付けられる。しばし目蓋を下ろしていると、金属と金属がぶつかり合う物々しい音が鳴り響くと同時に、背に容赦のない一撃と罵声が叩きつけられた。

「――てめえ、んなところでぼさっとしてんじゃねえぞ! 邪魔なんだよ!」

「まあいいじゃねえか。戦いもあらかたケリがついたみてえだから、あいつの分の金も俺たちが頂くとしようぜ」

 成人した男の重みだけでなく、鉄製の武具の重みをも乗せられた足蹴の衝撃は、しばし呼吸を忘れさせた。

 血と泥に塗れた床に手をついて咳き込む自分と、シグディースには一切振り返らず、雄叫びを上げてどこぞに去っていった戦士二人。彼らとシグディースでは、彼らの方が圧倒的に正しい。

 戦場には、命を賭して戦うと誓った者たちのみが立つことを赦され。だからたった一人の臆病者が混じっていただけでも、敗北に繋がりかねない。そうして待っているのは三年前にシチェルニフを、その座を一年どころか半年も維持できなかった男を原罪襲っている、残忍なる結末なのだ。

 だから、敵の女を哀れと想う暇と余裕があるならば、刃を振るって少しでも多くの敵兵を屠るべきなのだ。それこそが戦士というもので、彼らは己が血と汗と引きかえに報酬を約束されているのだから。

 乱れていた呼吸をどうにか整え、残った力を振り絞って再び立ち上がった頃には、周囲はすっかり地獄へと変じていた。ある者は手か足を失い、またある者は深手を負って倒れる者たちは、断末魔の苦しみに喘いでいる。割かれた腹から臓物を零れさせた老婆の亡骸は、排泄物の臭気をも漂わせていた。

 剣戟の音と、慈悲を求める女の絶叫に麻痺した耳では、姉の声を聞き分けようにも聞き分けられない。目を覆いたくなる有様が焼き付いた双眸は、転がる若い女の体を発見するごとに、ほんの一瞬とはいえフリムリーズではないかと身構えさせた。

 どれだけ探しても、姉は見つからない。焦燥は、敵討ちという目標に寄りかかることで、家族を突然に奪われてもなお涙を流さずにいた娘の面を恐怖で歪ませた。

 フリムリーズはもうとっくに、この戦に巻き込まれて絶命してしまったのではないか。そもそもどうして、姉はまだ生きていると思い込んでいられたのだろう。

 繊細で臆病な性質のフリムリーズだから、あんな目に遭った後すぐ自死していたとしても不思議はない。たとえ姉自らが死を望まずとも、ヴィシェマールが気まぐれに姉の身体に刃を振り下ろしていたとしても、少しもおかしくないのに。

 もしも姉が既に亡くなっていたとしたら、父母と弟に再会できて、喜んでいるだろうか。シグディースは復讐のためにそこに赴く資格を捨てた、地下の死者の国で。ならばよいが、姉はシグディースのことを何と認識しているのだろう。自分と違って辱めも受けずに生き延び、未だ宿願を果たすどころか、その切っ掛けすら掴めずにいる妹を。もしかしたらシグディースのあまりの不甲斐なさに、怒りを募らせているかもしれない。

 姉の死を半ば確信してさえいた娘の足を動かし続けたのは、それでも捨てきれなかった一縷の希望だった。生きた姉に逢えなくとも。彼女の亡骸を弔うことすらできなくとも、シグディースはフリムリーズを探し続けなければならない。力尽きて生き絶えるまで、ずっと。それが、不甲斐ない己が家族のためにできる唯一の償いなのだから。

 よたよたと歩を進める少年・・が刃を受けずに済んだのは、どこぞに隠れた大公は未だ捕らえられずとも、大公側の兵はあらかた倒されたため。勝利が確実となり、敵の襲撃を警戒する必要もなくなった者たちにとっては、気を違えたらしきうら若き戦士の行く先など取るに足らぬ細事であったのだ。

 月のごとき金髪と華の顔を血飛沫で汚した少年は――下級の戦士に扮した少女は、いつしか館の奥深くにまで入り込んでいた。うらぶれた一画は、家内奴隷たちの寝所だろう。同じ材質の同じ大きさの扉が幾つも並んでいた。三年前に自分たちが一家で身を隠した場所にどこか似てもいる。

 金目の物など置かれているはずがない、普段から打ち捨てられていたに違いない、寂しい場所。命を狙われている君主が身を隠すとしたら、こんな所ではないだろうか。

 せめて大公を見つけて、あの日姉に無体を働いた償いをさせたい。

 胸中に広がった願いは、叶えられるはずはない。だのに娘は自嘲しながらも、無限に連なっているようにすら感じられる扉を次々に開いた。そんな馬鹿を繰り返していると、ある取っ手を引いた途端、噎せ返らんばかりの血の臭いが中から漂ってきて。

 これはもしやと身構えつつ、娘は狭苦しい一室に足を踏み入れる。すると中ではおびただしい真紅が広がっていて、その中心で倒れ伏す男に、窶れ果てた女が刃を幾度となく振り下ろしていた。

 彼の身体から流れたにしては嫌に量が多い血の海に沈む男。彼が大公ヴィシェマールであることは、身なりから、何より三年前に脳裏に焼き付いた面立ちからも明らかである。一方、既に事切れていることは確実な彼に剣を振るい続ける、焦点の合わない虚ろな、しかし鬼気迫る目をした女は。

「――姉上」

 どれだけ変わり果てていようとも彼女はフリムリーズだと、シグディースには一目で判ぜられた。

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