泥濘 Ⅱ
「大公が戦死したとな!?」
驚くべき知らせが告げられたのは、大き目の林檎程に膨らんだ胸に布を巻き終えた直後だった。つまり下は男物の
三年の歳月は可憐な蕾を見事芳しく開かせ、少女は凛として臈長けた女性へと咲きほころんでいた。金の髪は月か星のごとく清らかに輝き、元来白い肌は陽に当たらぬため雪のごとく透き通っている。ほっそりとしなやかな肢体は白鳥を連想させるが、女らしいまろみも十分に帯びていた。
髪を長く伸ばしていなくとも、その美貌を讃える詩を競い合って贈られてもおかしくはない姫君。太陽ではなく月の光を糧にして花開いた百合めいた、触れることを躊躇わせるまでの美さは、しかし現在のシグディースにとっては何らの価値も有さぬ代物であった。
シグディースは姉以外の家族を殺したあの男の息の根を止めるために生きているのだ。自分の乳や尻が丸くなるよりも、腕や脚に戦うための筋肉が付いた方が、世界樹の根の下にある死者の国にいる父母や弟も喜ぶだろう。もっとも、そのための訓練をなかなかできないのが歯がゆい所なのだが。
シグディースは両親を失い唯一の親戚となったアスコルを頼りに生きる、病弱な少年であると身を偽っている。虚弱な体質ゆえ、与えられた部屋に否応なく籠っているのだと。アスコルは、彼が紡ぎ出した「設定」を守るためにもなるべく居室でおとなしくしているべきだとシグディースを諭し、シグディースも彼の助言には従ってきた。が、どうしても部屋ではできないこともある。その一つが入浴であった。
「真か!? 真ならば、何ゆえ、どこの輩によって倒されたのだ!?」
幸いにしてトラスィニの公邸には、女奴隷用の
「それは今から説明いたしますので、まずは服をきちんと着てくださいませ」
いっそ土気色に近いほど頬を蒼ざめさせていたアスコルであるが、更にこれ以上はないというぐらい疲れた顔をした。眉間には骨まで達しそうな深い皺が刻まれていて、彼がぱたりと倒れていないのが不思議なぐらいである。トラスィニ公の従士とは、それほどに多忙なのだろうか。
「なぜだ? 話しなど、この格好のままでも構わぬではないか」
「はしたないにも程があるでしょう。大体、いきなり誰かが入ってきたら如何なさるおつもりなので?」
「う、うむ。……左様であるな」
大公の戦死の経緯を早く知りたいので、娘は素早く麻の
「高貴な姫君であったのなら、言われなくともお気づきになってくださいませ……」
「とは言うものの、敗北し国を失った君主の娘など、奴隷以下の存在ではないか。だのに高貴も何もあるまい」
「それでも、です」
二つ並んだ寝台に腰かけて待っていても、アスコルが口を開く気配はなかった。堅く目を閉じ、
公は奉仕の見返りとして下級従士の衣食住を保証する。が、アスコルのように部屋に二つも寝台――というのは名ばかりの、藁の山に布を被せただけのものだが――を支給された者は稀であろう。
この公邸に初めて足を踏み入れた日。顔を隠すために深く頭巾を被った
『私は常に嘘をついて生きてきましたから、』
それを指摘した際のアスコルはどこか投げやりな目をしていて、自分自身を嘲っているようだったが。
「まず初めに、グリンスクの大公は勝手に名乗っていた称号をシャロミーヤ帝国に正式に認められ、また彼の地から妃を貰う見返りに、条約を結んでいたことは覚えておられますか?」
だがしかし、己の目の前で脂汗が滴っていないのが不思議なほど顔を歪める彼が語るのは、紛れもない真実なのだろう。切れ切れに吐き出される言葉に滲む焦燥が、シグディースの直感を裏付けていた。
「シャロミーヤに求められれば可能な限りは兵を出すというあれであろう?」
帝国の走狗となってまで認められたかったのかと、亡き父やその家臣たちは密かに嘲っていた取り決めの仔細を思い出し、娘は紅玉の色艶を放つ唇を噛みしめる。
あれは確か大公が改宗すると同時に結ばれた条約で、当時シグディースは生まれたばかり。
――大公は帝国の犬で、首輪はあの取り決め。欲しければ剣を振るって奪えばよいものを、舌でもって手に入れるとは軟弱なものだ。
けれども大公を軟弱と嘲笑う周囲に囲まれて育ったため、シグディースも自然グリンスク大公は腑抜けであると認識していた。だがそれは、間違っていたのかもしれない。
エレイクの一族は、大公が西南の帝国に阿るのと引きかえに、彼の地から進んだ文化や制度、及び技術者を多数招来するのに成功した。帝国は表立っては異教徒と対等な交易を行わない。そのため、以前は主に略奪や、略奪を防ぐための上納品という形でしか手に入らなかった品々を、平和裡に掌中に収めることも。
また帝国では、イヴォルカの森の奥深くに住まう獣――特に
どうしても気になってアスコルに秘密で他の従士に訊ねてみたところ、シチェルニフは対シャロミーヤ貿易の重要な拠点として、自分たち一家が治めていた頃よりも豊かになっているらしい。なんでも、天主の家たる石造りの聖堂の建設も着工されたのだとか。
こんなことなら、さっさと改宗しておけば良かった。自分たちは、ここでもまた判断を間違えていたのだ。改宗したからこその発見ではあるが、南の地の神は吝嗇ではあるものの、そう悪い存在ではない。むしろ、家畜や人間を贄として欲せぬのだから、父祖の神々よりも余程寛大でさえあるのに。
珍しく暗澹とした悔恨に浸っていた娘の意識を、落ち付きを取り戻した声が現在に連れ戻す。
「そしてグリンスク大公は、半年ほど前からかねてからの約束通り、帝国が西の山脈に住まう異端を討伐する手伝いに赴いていたのですが」
ここまで来れば、大公の死の経緯は言わずとも察せられた。
「最前線で一兵でも多く敵を屠るを良しとする勇ましさが、今回ばかりは裏目に出たようです。そうして大公は彼の地で討ち死にしてしまったのだとか」
シグディースの予想と寸分違わぬ言葉を吐き出した後、アスコルは口を貝にして黙りこくった。だがまだ彼に尋ねなければならぬことがある。
「して、次のグリンスク大公はどうなる? それとも、もう決まったのかえ!?」
自分たちの新たな支配者は誰か。これぞまさに、この世から天主の御許とやらに旅立っていった者よりも、大多数の民が案ずるところであった。シグディースも、世間とは違う形で。
大公は結局、長男と三男のどちらかを跡継ぎに指名する前に命を落とした。となれば、それぞれグリンスクから見て北のリャストと南のトラスィニの公に任ぜられている異母兄弟のうち、都グリンスクをより早く押えた者が次の大公になるだろう。
シグディースも仮にとはいえ臣従している三男ロスティヴォロドは、今から従士団を率いてグリンスクに急いだところで、彼の兄を出し抜けるかどうか。なんせリャストとトラスィニでは、前者の方がグリンスクに近いのだ。ゆえに都は既に、シグディースにとっても、顔も知らぬ故大公の三男にとっても敵である男に取られたと考えた方がよいだろう。
新たな大公となったであろう長男ヴィシェマールは、父亡き後はこれ幸いと、常々蔑んでいた女奴隷の息子の息の根を止めんするだろう。つまり三男ロスティヴォロドが生き残りたければ、兄を破って自分がグリンスク大公になるしかないのだ。
大公位を巡って争う最中、母親違いの兄弟とそれぞれの兵は、嫌でも刃を交えなければならなはずだ。さすれば、ヴィシェマールの館に侵入し、妾として囚われているという姉を探し出すのも不可能ではあるまい。
待ちわびた時の到来を予感し、娘は雪の頬に血の色を淡く登らせる。
「……ロスティヴォロド様はお父君の訃報を亡き大公の従士より告げられた後、直ちに俺たち従士団に進軍の準備を命じられました」
「そうかえ」
握りしめた小さな拳を震わせるのは、恐怖ではなく歓喜であった。
「ですから、俺は今までのように貴女を守ることができなくなったので、今度こそどこかに、」
「――私も戦うぞ!」
顔中に喜色を湛えて立ち上がった娘は、戸惑う男が見守る最中、声高らかに宣言する。
「私もそなたらと同じ、ロスティヴォロドの従士として、ヴィシェマールを大公位から引きずり下ろすべく剣を握ろうではないか」
――さすればこれでやっと、姉上を苦痛からお救いできる。
矢車菊の青の双眸は覚悟を宿しぎらぎらと輝いている。
説得を重ねても無駄だと覚悟したのだろう。もしくは、大公の死を耳にした瞬間から、こうなるだろうと予測していたのか。
「……畏まりました。では、姫様の分の武具や武器も準備してまいりますので、どうかそれまでは早まったことはなさらないでくださいませ」
ややしてアスコルが揃えてきたのは、皮の鎧に決して質が良いとは言えない剣であったが、それだけで十分であった。
大公の落命が伝えられてから一月後の、シグディースは参加しなかったが、ロスティヴォロドが配下の結束を固めるためにも開いた大宴会。その翌日トラスィニを発った男たちは、グリンスクを目前に控えた平野で物々しく武装した兵と衝突した。弟を血祭に上げるべく、新たな大公ヴィシェマールが寄こしてきた軍勢と。
「戦の最中は、できるだけ俺から離れないでくださいね」
敵としてはこの上なく煩わしいが、味方に引き入れればこの上なく頼もしい遊牧民をも交えたロスティヴォロドの軍は、兄の手駒を撃破した。
余勢を駆ってグリンスクを包囲した
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