泥濘 Ⅰ

 心中で詫びながらも、全てを喪った少女は転がっていた年若い戦士の亡骸から衣服を剥ぎ取る。そうして得た装束に袖を通し、アスコルの縁者だと身を偽ったシグディースは、共々エレイクの一族の三男の軍に身を寄せることとなった。父の軍勢の生き残りは、シチェルニフの新たな統治者となったトラスィニ公ロスティヴォロドの軍に吸収されたために。

 寛大とも称せる沙汰は、シグディースの父の兵の残りを皆殺しにするのは惜しいと、件の三男が欲したため。とはいえ、さっさと新たな主に跪いた戦士――その多くはサグルク人の諸族だった――は無条件に受け入れられたのではなかった。大公一族とその領民が奉ずる天主への鞍替えを求められたのである。つまりこれまでの神々を捨てろと命じられたのだが、躊躇う者はなかった。

 先住民の長たちはシグディース同様、此度の戦の結果によって唯一なる天の主への認識を改めていたのだろう。あの神は、自らへの絶対の忠誠を求めるだけの力はあると。よって、改宗は概ね恙なく行われた。

 改宗はシチェルニフの民に対しても進められたが、やはり表だって逆らう者はなかった。密かに天主に祈りを捧げていた者などは、むしろ諸手を上げて新たな支配者を歓迎したらしい。そんな天主の徒のある者は、自分たちの前の主の無残な末路は天罰であると囁いているらしかった。正統なる教えの信者を、神であると騙った悪魔に捧げる贄とした報いに違いないと。

 シチェルニフの民の大多数を占めるサグルク人が、奴隷とはいえ自分たちの同胞の腹から出てきた大公の三男に親しみを抱くまでには、月の満ち欠けが二回か三回繰り返されれば十分であった。そういえば現大公も、先住民の女を母に持つ。

 自分たちも、それこそ先住民の娘を娶るなどして、もっと「あちら」に近づいておくべきだったのかもしれない。非業の死を遂げた前の公夫妻やその嫡子を悼む声などすっかり絶えた街角にて、少年に扮した少女は悔恨せずにはいられなかった。

 シグディース自身はといえば、小耳に挟んだ民たちの囁きによると、辱めを受けた末に自死したことになっているらしい。宿願を果たすためにも自分は死んだ者とされていた方が都合がいいから、特に思うところはなかった。

 かつて先住民たるサグルク人が――表向きは領民全てが天主の徒となった現在でも、農村部ではもしかしたら――降り注ぐ夏の陽光の下で水浴し、太陽と水の、植物の成長や豊かな収穫に欠かせぬ自然の力の結実を促した夏至。

 夜が明け、一年のうち植物の力が最高に高まる日になったその瞬間にしか開花しないという幻の羊歯シダの逸話は、シグディースにも覚えがあった。その魔法の花を上手く摘み取れば、あらゆる願いが叶うのだという伝承も。けれども少女が頭巾を目深に覆って活気を取り戻した街を歩むのは、神秘の植物を得るためではなかった。第一その花は、真夜中にしか開かないのだ。

 アスコルのような、あの運命の日まではシグディースは顔も知らなかった者さえ、自分が誰なのか把握していたのだ。もしかしたら他にも己の顔に覚えがある者が生き残っているかもしれない。ゆえにシグディースは、アスコルに重く言い含められたのだ。トラスィニ公ロスティヴォロドが自らの配下の仮の住まいに指定した、天幕の群れの一つから無暗に出てはならないと。

 そうする義務などないのに自分を助けてくれただけではなく、匿ってくれているアスコルに迷惑はかけたくない。それゆえシグディースは姉とさほど齢が変わらないだろう青年を第二の父と見做し、ある一つを除く全ての事柄において彼に従っていた。そんな思慮深い彼が頭巾を投げつけてまでシグディースに外出を促したのは――

「本当に、私と一緒にトラスィニに行かれるのですか?」

 数日後には、大公の三男の従士団ドルジーナは一部を残し、主の本拠地へと移らなければならないため。そして元シチェルニフ公の配下の生き残りは、残留組から外されていた。

 そも公の戦士だけではなく、協力者や家来をも含む従士団の役目は、多岐に渡る。戦の決定から立案、貢税ダーニの取り立てに裁判。その他諸々の行政面の雑務だけでなく、公の畑や屋敷に猟場の手入れ、支配下に置いた村や奴隷の世話まで果たさなければならないのだ。無論、各々の従士がその全てを行うのではなく、役割分担というものがあるのだが。

 従士団は概ね三つの集団に分けられていて、戦や行政と言った重要な事柄の相談相手となるのは、言うまでもなく位が高い従士たちだ。彼らは公に衣食住を世話される他の仲間とは異なり、自身の邸宅を所持している。どころか、奴隷や下級の従士すらも従えている彼らの中には、土着の土豪貴族ボヤーレに近い権勢を誇る者もいた。

 第二の集団は下級従士と呼ばれていて、公の館に住みこみで働き、時に奴隷に混じって様々な雑用を果たす。その一方で、公の側近くに控える従者や護衛兵となり、行政の末端の維持を任される者もいた。

 最後は武装した自由民からなる戦士で、此度の戦を生き延び、トラスィニに移されることになったのは彼らだ。アスコルも恐らくは、この集団に属していたのだろう。

 己に忠誠を誓ってまだ日も浅い戦士たちを、なじみ深い土地に残していたら。さすれば、いつ民と結託して反旗を翻すか分からない。己の支配を盤石なものとするためにも新たな領土の支配は古参の家来に任せ、新参者はしばらく己の膝元で雑用をさせつつ監視するのが良かろう。

 大公の三男はそのように判断したのだろうが、至極当然の決定であった。大公の三男は父の命により、十二の頃から遊牧民が跋扈する草原地帯との境たるトラスィニの防衛の任をこなしてきた。その彼の忠実な手足となって働く従士など、掃いて捨てるほどいるのだから。

「もう何度も繰り返しましたが、名を変えて農村にでも身を隠せば、平穏に暮らせるでしょうに」

「そなたも分からぬ奴よなあ」

 元姫君は舐めれば鉄錆の味が滲みそうな赤い唇に、尊大な笑みを浮かべる。

 アスコルは恐らく、生まれ育った街への愛着を刺激すれば、シグディースも決意を翻すのではと期待していたのだろう。だが、イヴォリ人にとって血の復讐の義務は何より重いものの一つなのだ。たとえシグディースが、形ばかりとはいえ改宗を済ませた身であっても。生き延びるためにも父祖の神々は捨て去ったが、父祖の掟を捨て去るつもりは毛頭ない。

「ですが、あの日ご両親や弟君を殺した男の名前もご存じないのでしょう? だのにどうやって復讐を果たすおつもりなのです?」

「そ、それは、」

 痛い所を突かれてしまい、布を巻いてふくらみを誤魔化した胸を逸らせていた元姫君は、少女にしては低めの声を詰まらせた。

「貴女が探しているその男が、ロスティヴォロド様の従士だったら、いずれ出会えるかもしれない。ですが、大公様やリャストの公に任ぜられている長男様の従士であったなら、探そうにも探せないでしょうに」

「……そなたの言い分にも一理ある。私はあの男を捜しに行くのもままならぬ身であるしな。しかし、あの日この目に刻み付けたあの男の姿は、決して忘れはせぬわ!」

 緩い癖のある鋼色の髪に、紫紺の瞳。背は高い方で、体には戦士らしい鍛え抜かれた筋肉を纏っていた。そして顔立ちは、こう評するのは腹立たしいが男らしく端整。

 怒りのあまり少年の枠内に留まれる高さを突破した声で、亡国の姫君は仇の特徴を捲し立てた。

「そうだ。そなた、私が申したような容姿の男に覚えはないかえ?」

 ひっそりとした路地に、彼女と若い戦士の他の人間の影が落ちていないのは、身を隠さねばならぬ元姫君にとっては幸運であっただろう。

「致し方のないことやもしれませぬが、時折設定・・を忘れてしまうのには気を付けた方が宜しいかと」

 またまた痛い所を突かれてしまい、男装の元姫君の肌理細やかな雪白の頬には、恥じらいの紅が刷かれた。アスコルの指摘は正しい。もしも正体が見破られてしまったら、シグディースは今度こそ殺されてしまうに決まっているのだから。

 万が一の事態が生じても、ただ殺されるだけならばまだよい。大公の三男の従士団全てに身体を暴かれた挙句、首を斬られるという末を辿るよりは。だが想像するだけで背筋が凍る危惧が現実になったら、誰が父母と弟の恨みを晴らすのだろう。

「……ありがたい忠言、感謝する」

 有り得る未来の惨たらしさに顔色を無からしめたまま、少女は傍らの男の顔を覗き込む。途端、切れ上がった双眸は幽かな驚愕のために瞠られたt。

「そういえばそなた、どことなくではあるがあの男と似ておるの」

 同じサグルクの血が流れる故であろうか。家族の仇である男とアスコルの顔立ちには、どこか共通する趣があった。真っ直ぐに垂れる白茶の髪に物憂げだが聡明そうな青灰色の双眸の忠義の戦士と、シグディースの目の前で父母と弟を屠った男の、髪と目の色がもしも同じだったら。さすれば彼らは、兄弟とはゆかずとも従兄弟と間違われる程度には似ていたかもしれない。

「……取り敢えず、褒め言葉として受け取っておきますね」

 目論見が外れたがゆえだろうか。青年は性と身の上を偽った少女と共に与えられた天幕へと踵を返す直前に、重く深い溜息を吐いた。けれども少女は押し殺された吐息に気付かなくて。

「案ずるな。あの男は位が高い従士であろうから、軍に属していればいつか必ずまみえられようぞ」

「私が案じているのは、姫様の行く末なのですが……」

 イヴォリ人の慣習法と同じく天主の教えでも、財産を相続するにあたっては正式な夫婦の間に生まれた子の権利の方が優先されている。が、グリンスク大公が改宗を決意した主な目的は西南の帝国との円滑な交易にあり、教義を厳守するつもりはないのは明白であった。

 要するに、次なる大公を決める際の決定打となるのは、候補者それぞれの武力であり、生まれではない。であるからこそ三男は、シグディースの父の兵の生き残りに目を付けたのだろう。力こそ全てであり、正義なのだから。

 グリンスク大公イシュクヴァルトは、生き残った二人の息子を概ね分け隔てなく扱っていた。それに、どの子も大公が改宗前に儲けた子であって今の正妻の子ではないのだから、条件としては殆ど変わらない。

 大公はどうも、位はともかく領土は長男と三男に平等に与えるつもりらしい。だが残念ながら彼の息子たちはどちらも、父の死後も己の第一の敵を生かしておくほど優しい性格はしていなかった。

 ゆえにシグディースの偽りの主であるロスティヴォロドは、大公位を継いでも継がなくても、いつか必ず彼の兄と衝突する。あの、フリムリーズを公衆の面前で陵辱した挙句、配下の慰み者にした男と。シグディースは来るべき時が来たら、三男の兵に紛れて大公の長男の懐に忍び込み、姉を救出するのだ。

 少女の運命が変わったあの戦の段階で、大公たちはシチェルニフの民の支持を望んでいたのだろう。つい訪れた旅立ちの日の朝。前の公の屋敷を除けば略奪や虐殺の憂き目に遭わなかった街を一度も振り返らずに、少年に扮した少女は城門を潜り抜ける。

 全てを失った姫君は、辿りついた街で三年の月日を過ごした。グリンスク大公イシュクヴァルトが、遠い西南の地で戦死したとの報が齎されるまでは。

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