春雷 Ⅱ

「姫様、姫様!」

 暗闇に沈んでいた少女の意識をうつつへと引き戻したのは、頬を打ち付ける雨粒ではなく、耳慣れぬ男の囁きであった。

 細い肩を骨が軋まんばかりの力で掴み揺さぶる男の、焦燥さえ滲ませた声に促され、少女は二つの矢車菊を開花させる。

「……ご無事でございましたか」

 途端、ほっと安堵の溜息を吐いた若い男の面立ちには、全く覚えがなかった。彼がサグルク人だろうということ以外は、何一つ察しがつかない。

 一方、眼に映る背景は、もう自分たち一族の物ではない街のものでしかありえなかった。それも、既に焼き払われてしまっただろう生まれ育った屋敷とはかなり離れた郊外の、更に人通りが少ない一画というところか。

「……そなたは? 私は一体なぜ、かような所で寝ていたのだ? そなた、何か知っておるか?」

 未だ薄靄に覆われぼやけた頭に浮かんだ三つの疑問のうち、ここはどこだという謎の答えは中途半端にとはいえ得られた。ゆえに少女は、舌をもつらせながらも残りの二つを吐き出す。同時に上半身を起こすと、明白な違和感を覚えた。脚の間とか身体の節々にではなく、雨に濡れ泥に塗れた青金の髪が張りつく項に。

 緩やかな弧を描く二つのふくらみの間に、あるべきものがない。はっとして胸元に手を置くと、常ならば忙しなく脈打つ心臓の丁度真上をくすぐっていた蜂蜜色の粒が消え去っていた。

 細い金の鎖に通された、光に透かせば黄金色に輝く琥珀。祖先が太陽の石と呼ぶ宝玉の首飾りを、シグディースは欠かさず身に着けていた。「お前に良く似合う」との言葉と共に五年前に父に与えられてから、ずっと。だがあの宝物も、父母と弟の仇であるあの男に奪われてしまったのだろう。

 そういえばあの男は、シグディースの胸元をしきりに弄ってきたが、あれは服の下に隠していた宝玉の存在に気づいていたからなのか。ならばあの男がシグディースを押し倒した理由は、体ではなく首飾りにあったのかもしれない。だから衣服がさして乱れていないのだろう。

 シグディースはきっと、あの男の好みに合わなかったのだ。それだけが何もかもを失ってしまったこの日の、唯一の幸いなのかもしれなかった。

「私はアスコルと申します。姫様の御父君の御威光に従っていたサグルク人の兵の一人です」

 シグディースが落ち着くのを待っていたのだろう。サグルク人の名を名乗ったことからも父の配下であった先住民の一派であるのは明らかな男は、哀しげに目を伏せた。

「私は友たちと共に、グリンスクの大公一族の軍勢と刃を交えていたのですが、何分多勢に無勢でございまして。多くの友は戦場にて斃れましたが、私は幸いにも命があったため、姫様の御父君たちとともにこの城壁の内に逃げ込めたのですが……」

 後は、姫様もよくご存じでしょう。

 掠れた囁きを最後に口ごもった若い戦士を眼差しで促すと、彼は躊躇いつつも引き結んでいた唇を開いた。

「勝敗決したりといえどもせめて一兵でも多く敵を倒さんと、もはや一人だけとなった友と剣を振るっていたところ、燃える公邸から出てきた若い男と出くわしまして」

 その男が気を失った姫様を大公の兵たちに与えんとしておりましたので、友ともに姫様をなんとかお救いし、身を隠していた次第でございます。

 全てを言い終わったアスコルの面に悲痛な影が落ちているのは、彼の最後の戦友だという勇士の姿が影も形もないのと無関係ではあるまい。アスコルの友は恐らく、シグディースを助けるために命を落としてしまったのだ。彼らの忠義や武勇に報いる術を失った公の娘など、捨て置いても誰にも責められはしないのに。

「左様か。……すまなかったな」

「いえ。我が友もきっと、姫様のご無事を喜んでいるでしょう。かようにお美しい姫君を貞操を穢される前にお救いできたのは、まこと神々の思し召しでございます」

 ――長年祈りと贄を捧げ続けた父上たちが、あのような酷い末路を辿るのを防げなかった神々の慈悲など。もはや一切当てにならぬし、当てにする価値もありはせぬわ。

 少女は掌に爪を食いこませ、自身と信仰していた神々の無力さを噛みしめる。

 形良い耳に飛び込んできた低い囁きは、否応なく眼裏に焼き付いた姉の姿を思い起こさせた。無残にも大公の長子に陵辱され、敵兵に髪を掴まれ引きずられていったフリムリーズは、今どこにいるのだろう。そもそも、姉の生命の炎は未だ燃え盛っているだろうか。冷水を浴びせかけられ、踏みにじられてはいないだろうか。

 まだフリムリーズの息の根が絶やされていないのならば、姉はもはやこの世にただ一人だけとなった親族だ。なんとしても助けたい。

「……そなた、姉上がどうなったかは把握しておらぬか?」

 胸を突く想いを曝け出すと、目の前の男の肩がびくりと震えた。

「大変申し上げにくいことですが、あちらの兵が喚いていたことが真実だとすると、大公の長子の妾にされたようでございます」

「――そう、か」

「ですが妾というのは名目だけのもので、今はその……長子の従士団ドルジーナ全員の慰み者とされているとか」

 ややして吐き出されたのは、予想を遙かに凌駕する残忍な現実であって。

 元々繊細で臆病な性質のフリムリーズなのに、敵のただ中で女としてはこれ以上ないほどの責苦を味わわされているなんて。姉は、どれほど辛い想いをしているのか。アスコルたち忠義の徒に助けられたシグディースには想像もできなかった。

 先程の、我が身の無事を喜んだ己の薄情さが恥ずかしく、赦しがたい。

 拳を震わせて立ち尽くした少女の頭上には、千々に乱れる胸中そのものの暗雲が立ち込めていた。先ほどから大粒の雨を落としている鉛色の合間では、轟音を伴う閃光が奔っている。

 春の本格的な訪れの徴たる雷は、常ならば喜ばしいものであった。だのに今ばかりは忌まわしく感じられるのは何故なのだろう。シグディースが今しがた捨て去った神々の中でも、とりわけ篤い信仰を寄せていた三柱。その一つたる雷神を思い起こさせるからなのだろうか。父祖の神々の中では最強と讃えられながら、異郷の神を打ち負かせなかった、情けない存在を。

 激しさを増すばかりの豪雨は、一切の情けも容赦もなく、幸福な日常を構成していた全てを奪われた少女の全身に打ち付ける。しかし、脳裏に刻みついた残酷を――姉が辱められる様や、父母や幼い弟の生首に刻まれていた絶望や無念を洗い流してはくれなかった。

「折角助かった身ですのに、このままでは御風邪を召してしまわれます」

「……それがどうした?」

 姉が虐げられ、父母や弟が殺される様子をただ見ることしかできなかった不甲斐ない我が身など、どうなっても構いはせぬ。

 もはや拳を握り続ける気力さえ湧き起こらず、だらりと垂れ下がった細腕の片方は硬い物に掠めた。シグディースが腰に巻いた帯には鞘に収まった短剣が射しこまれていたのだ。あまりに自失が深かったため、今の今まで気づいていなかったが。

 象嵌によって精緻な組紐文様――イヴォリ人の間で好まれる紋様が描かれた柄には覚えがあった。鞘に嵌めこまれた赤や緑の貴石にも。

 姉以外の家族の仇である男に押さえつけられた際、死にもの狂いで掴んだとはいえ、なぜこの短剣が自分の元にあるのだろう。

 仮に、あの男によって気絶させられる前、シグディースがこの一振りを無意識に帯に挟んでいたとする。それでも、一瞥だけで価も質も高いと判ぜられる品を、あの男がなぜ取り戻そうとしなかったのかの説明にはならない。しかし、この一振りはシグディースが持つ唯一の財産であり、未来を切り開く刃に違いなかった。

「略奪もじきに終わります。それまでどこか雨をしのげる場所に隠れておりましょう。そうして雨が止んだら、私が姫様をどこか安全に暮らせる場所にお連れしますゆえ」 

 ですからどうか運よく無事であった貴女様は、これからは公女であった過去など忘れて、ひっそりと生きてください。

「嫌だ」

 控えめな笑みと共に差し出された勧めを、少女は即座に斬り捨てた。

「何ゆえでございますか!? 御父君や御母君に弟君も、それを望まれているでしょうに……」

「そなた、いつ自ら命を断ってもおかしくはない苦痛の最中に置かれている姉上を、このまま捨て置けと申すのか!? 父上や母上、ヨギルの無念を忘れよと申すのか!?」

「お気持ちは痛いほど分かります。ですがか弱い女の身で、一体何ができると申すのです!?」

 もはやこのイヴォルカの唯一の支配者となった大公の覇権を覆せる者など、いるはずはない。見目麗しい貴女ならば無謀な真似さえしなければ、細やかな幸せならばすぐに掴めるだろう。舌に乗せるのも憚られる責苦に遭っているフリムリーズ様は、確かにお労しい。けれどもだからといって、可愛い妹に要らぬ苦労をさせてまで苦痛から逃れたいとは望まないはずです。

 眦を吊り上げてシグディースを説得せんとするアスコルは、忠誠心溢るる父の配下であったとはいえ、やはりサグルク人なのだ。イヴォリ人の慣習では、誰かの命が理不尽に断たれれば、彼あるいは彼女の親族は血の復讐を果たさなければならないとされている。損なわれた一族の名誉を回復するためにも、殺害者本人あるいはその血族の誰ぞを血祭に上げるべきだと。

 血縁者の復讐を果たさずのうのうと暮らすような者は、イヴォリ人の間では或いは殺害者以上に蔑まれる。流される血潮によってではなく、金銭によって損なわれた名誉が購われる場合もありはする。しかし亡くなった縁者を財布に入れて持ち歩くも同然の真似は、同胞の間では最も浅ましいとされる行為の一つなのだ。公の娘であった自分が、なぜかような所業を犯せるだろう。

「私は必ず姉上をお救いし、父上に母上、ヨギルを殺したあの男――この短剣の持ち主であった男を、この手で殺す」

 凄絶な覚悟を込めて細い肩を掴み揺さぶっていた男を仰ぐと、彼の腕からは力が抜けた。

 長く伸びた髪を掴み、研ぎ澄まされた刃を押し当てる。ややして、天頂から冷ややかに人の子を見下ろす月めいた金色の束を断ち切った途端。女であることをも捨て去った少女の張りつめた面を、一際鮮烈な紫電が眩く照らした。

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