春雷 Ⅰ

 少女はほんの十日前に父が宴を張った場に、肉を食べ終わった後に残った骨同然に放られた。強かに右肩を打ち付けたために深い青の瞳には生理的な涙が滲んだが、乱暴狼藉を非難できるはずはない。なぜならシグディースたちシチェルニフの公一族の価値など、もはや路傍の石以下なのだから。

 大広間は物々しく武装した男達でひしめいていた。とりわけ見事な武具で身を飾った中年の男は、鍛え抜かれていると一目で察せられる、堂々たる体つきをしている。とはいえ彼の背丈は、長身の父とは違ってイヴォリ人の男としては極めて平均的。顔立ちも、美貌を謳われた祖母に似たシグディースたちの父とは異なり、人目を引く華やかさなど欠片も備えていなかった。

 だがしかし、イヴォリ人に多い凍てついた氷青アイスブルーの双眸が。砂色の髪よりも僅かに濃い色の髯で覆われた面に漂う覇者の威厳が、この男はただ者ではないと教えてくれる。この男こそが、グリンスクの大公であると。

「これはこれは、噂に聞く以上に美しい娘だ」

 かつては父が占めていた座に坐す男の眼前まで蹴飛ばされた姉を、大公は言葉とは裏腹に無感動に見下ろした。従士なのだろうか。彼の両隣には、血飛沫で汚れているとはいえ立派な身なりの青年が控えていた。うち一人は大公に勝るとも劣らぬ感情の読めぬ、いっそ退屈そうですらある目を、敗北者たるシグディースたちに向けている。

「そなたは見目麗しいのみでなく、穏やかで気立ての良い娘だとも聴いていた。ゆえにそなたを我が娘として迎えられなかったこと、まこと残念でならぬ」

「……申し訳ございません」

 欠片程も残念とは思っていないのを隠そうともしない声音で、大公は跪いて自分を仰ぐ息子の元婚約者に語りかけた。

「どうか、どうかお許しください! 父と母は悪くない! 妹と弟に至っては、何も知らないのです! ですからどうか、私はどうなってもいいから、家族のことは!」

 姉は罪人のごとく震え、ただひたすら謝罪を繰り返していた。大公にではなく、大公の傍らの二人のうち、大公と同じ氷めいた双眸を溶岩の激怒でもって燃やす青年に。大公の左側に控える一人は、髪も目の色もイヴォリ人らしからぬ風采をしている。だが右側の、顔立ちも大公に似通った若い男が誰であるかなど、考えずとも察せられた。

「お前は俺の名誉を傷つけた。それは、お前自身が良く分かっているはずだ。どうすれば損なわれた俺の名誉が回復されるのかも」

 グリンスクの大公の長子ヴィシェマールは、理由も定かではない悔恨の証をとめどなく流す姉のか細い首筋に、赤く濡れた剣を向ける。

「……もちろんでございます」

 だからどうか、貴方様のお望みのままに。

 静かな声で諦観を告げたフリムリーズの背は、しかしがたがたと震えていた。死の恐怖に耐えられなくなったのだろう。濃密に漂う鉄錆とはまた異なる異臭が、亡骸や臓物から放たれる臭気に麻痺しかけていた鼻を刺激したのは、姉の華奢な体が崩れ落ちるのと同時であった。

 迫りくる終焉に怯えた姉が失禁してしまったのだ。少女が姉の哀れな様子に気づいたのは、大公の長子が剣を抜くと同時に反射的に閉ざしていた目を、恐る恐る開いたため。

 シグディース達身内にとっては痛ましいほど哀れだが、勝者にとっては無様極まりないだろう様を晒した姉を嗤う者はなかった。しんと静まり返った場で、行動を起こした者はただ一人。大公の長子は、崩れ落ちていた姉の長い髪を掴み半身を起こすと、柔な腹部に拳をめり込ませる。

 フリムリーズはくぐもった呻き声を発し、仰向けに倒れ込んだ。その姉に馬乗りになった男がこれから何をするつもりなのかなど、教えられなくても察せられる。まだ幼い弟のヨギルを除けば、敵も味方もこの場に居る者全てが理解したはずだ。

「――おやめください! それぐらいならいっそ、一思いに殺してやってください!」

 だからこそ、シグディースと同じく沈痛に面を伏せていた母は、喉も裂けよと叫んだのだろう。しかし母の懇願は聞き入れられず、血も滲まんばかりの悲鳴の余韻には、上質な衣服が引き裂かれる音が重なった。

「此度の始末は、娘のみに責任があるのではありません。娘をきちんと躾けられなかった私が悪いのです。だから、苛むのならばどうか私を……」

 嗚咽交じりの哀れな絶叫に、大公の長子は耳を貸さなかった。幾つもの目に晒された肌は雪のごとく白く、女らしいまろみを帯びて柔らかそうで。

 ふっくらと盛り上がった乳房が武骨な手に揉みしだかれる様を。力なく垂れる細い脚が持ち上げられ、その中心に潜む亀裂が暴かれる様を、シグディースたちは黙って眺めることしかできなかった。なぜなら自分たちは敗北したのだから。

 この場で唯一姉を蹂躙する男を止められる力を持つのは大公だ。しかし姉を辱める男の父でもある大公の眼差しは、先ほどからまるで変わりない。ただただ冷めた瞳で、乱暴に腰が打ち付けられるためにひび割れた呻きを漏らすフリムリーズの様子を検分している。だが大公は時折左を向いて、傍らの若い男に何事か語りかけていた。姉を助けたくとも助けられない口惜しさを噛みしめるシグディースには、彼らの密談は聞こえなかったが。


 姉の痛みと屈辱の時が、どれ程長く続いたのかは定かではない。

 目蓋を下ろすことすら忘れていた双眸は、父母と弟、及び彼らに向けられた斧の姿を突き付けられ、限界まで瞠られた。シグディースを除く家族は、いつの間にやら浅ましい笑みを浮かべる兵に、大公の足元まで引きずられていたのである。

 先ほどまで大公の傍らにいた若い男は、きっとこれ・・を命じられていたのだろう。彼はまず、シグディースの父の逞しい首筋を、迷いなく断ち切った。こんな状況でなければ。それが振るわれたのが己が父でなければ、見事だと称賛していたかもしれない腕前で。

 どっと音を立てて倒れた肢体の断面の、肉の生々しい桃色と骨の白はたちまち紅蓮に呑みこまれた。だのに言語に尽くしがたい光景は眼裏に、脳裏に、魂に焼き印のごとく焼き付いて。

「……どうせ殺すと言うのなら、せめて私を先に。私は、我が子が死ぬ様など見たくは、」

 父の返り血を浴びた男の耳、或いは心には、哀れな女の懇願は届かなかったらしい。男は寸毫の躊躇いもなく、母を求めて泣きじゃくる幼い弟の命をも刈り取った。

 我が子の首から吹き出た飛沫で全身で濡らした母は、もう涙すら枯れ果ててしまったらしい。足元まで転がって来た弟の首を抱きしめた母は全てを諦め、己に振り下ろされた裁きを、敗北の代償を受け入れて――

「……母上」

 シグディースの目前で父と弟同様に、己が血潮でもって大公の従士らしき男の斧を濡らす露となった。これでもう苦しみと恥辱から解放されるのだという事実を喜びながら。

 全てが行われるまでには、大した手間は要されなかったに違いない。けれども残された娘にとっては、永遠にすら等しい時が流れた。

 いずれにせよ、シグディースがそれまでいた世界は崩壊してしまったのだ。春になり、川に張っていた氷が砕けるかのごとく無残に。暗い水に飲みこまれる大地さながらに跡形もなく。国を、父母を喪ったシグディースはもう高貴な姫君ではない。奴隷どころか虫けら同然の身となったのだ。

 どこぞに引きずられてゆく失神した姉を。対照的に己の方へ近づい来る血塗れの男の姿を、娘はただぼんやりと見つめる。少女の凍り付いていた時を再び動かしたのは、厚く硬い掌と掌が打ち付けられる乾いた音だった。

「――これにて我が一族の名誉は回復された」

 シグディースの父母と弟を屠った男を除いては誰もが耳を傾ける大公の一言は、雷さながらによく通った。

「さあ皆の者、お前たちの武勇に見合う品を、存分に探すがよい。この邸に火を放つ前に。もっともお前たちならば、俺の許しがなくとも既に目ぼしい品を懐に入れているのだろうがな」

 大公が苦笑すると同時に、彼の配下のある者は歓声を上げ、ある者は大口を開けて破顔した。

 略奪の許しを正式に得た兵たちは、手始めに三つの屍から装飾品を剥ぎ取って、血臭いで噎せ返らんばかりの一室を後にする。そのただ一人の例外である男についに腕を掴まれて、少女は悟った。自分はこれから、つい先ほどの姉と同じ目に遭わされるのだと。ただそのためだけに生かされたのだろうと。

 よりによって父母や弟を殺した男に穢されるなど。それぐらいなら死んだ方がましなのだが、死にたくはなかった。できるのならば生き残って、父母や弟の仇を討ち、これ以上はないというぐらいに蹂躙された姉を救いたい。それがたとえ、どこか茫然とした目でシグディースを注視する男の、華奢な顎を持ち上げる手を振りほどくことすらできない細腕には余る困難だとしても。

 品定めにしてはじっくりと、息を殺しさえしてシグディースを観察する男の虹彩は、イヴォリ人らしからぬ紫色をしている。イヴォリ人が瞳に宿す色彩は、青や緑をがほとんどなのに。

 深く濃い印象的な紫の眼をしたこの男は、混血なのだろう。金や薄茶色といった淡い色合いの髪の者がほとんどのイヴォリ人らしからぬ、けれども先住民たるサグルク人には時折いる濃い――研ぎ澄まされた鋼の銀灰の髪した男。彼の端整とすら称せる面立ちには、しかしイヴォリ人らしい特徴もあった。

 混血の大公が覇を唱えるこの地において、イヴォリ人とサグルク人――入植者にして支配者と、被支配者の通婚は、珍しくもなんともない。とはいえ、目の前の男は「あちら」の血の方が大分濃く流れているだろうが。

 顎から首筋を撫でられ、憎むべき男に押し倒されながら、少女はなぜだかそんな愚にもつかぬ思索に耽ってしまった。シグディースがとりとめもない思考に逃げ込める程度には、目の前の男には隙があった。先ほど迷いなくシグディースの父母と弟の首を刎ねた男だとは信じがたいぐらいに。

 この男が、自分を犯そうとしない理由も、殺そうとしない理由も分からない。だが、この好機を逃してはならない。

 少女は圧し掛かる筋肉と鎖帷子の重みに喘ぎながらも、抜け目なく周囲を窺う。青い双眸はやがて、己を押し倒した男が腰に刷いた短剣を探り当てた。あれならば母の首が転がり落ちてすぐ投げ捨てられた斧や、彼が身に佩びるもう一つの武器たる長剣とは異なり、自分にも扱えるだろう。

 どうにか腕を伸ばし見事な細工が施された柄に触れた少女の、硬い指で弄られる胸には熱いものが広がった。これで、父上たちの無念を晴らせる。

 しかし虚しい勝利感は、瞬きほどしか続かなかった。流石に武人というべきか。己が命に関わりかねない不穏な動きを察知した男は、少女の鳩尾に容赦のない一撃をめり込ませたのである。

「お前、生きたいのか? ――だったら、くれてやる」

 無念に短刀の柄を握り締める少女は、息苦しさのあまり薄れゆく意識の中で僅かながら、喜ぶような面白がるような調子を帯びた囁きを捉えた。

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