流氷 Ⅱ

 自分たち一族とエレイクの一族は同盟を結んでいた。だのになぜいきなり宣戦布告されねばならぬのか。驚きと憤りは泉のごとく湧き出て来る。だが一方で、これは当然の帰結であると納得できた。これは数世代後で起るはずだった決定的な争いに、自分たちの代でけりをつけるに至ったにすぎぬのだと。

 彼を崇める西南の帝国の、話に聞く栄華を極めた様子からして、天主とやらは確かに強大な力を持ってはいるかもしれない。けれども狭量極まりない神のみに縋るあちらと、折に触れ贄と祈りを捧げてきた父祖の神々とサグルク人の神々、及び一族を代々見守ってきてくれた守護霊フィルギャの加護を受けたこちら。勝利がどちらに与えられるかは火を見るよりも明らかだと、少女は無邪気に信じたのだ。少女だけではなく、いずれ訪れる運命の日に少女の父と共に戦う戦士たちや、民たちも。

 大地を覆っていた雪もすっかり融け、春らしくなった――指定された戦の日がついにあと十日に迫った晩。父は旗下の者でも特に名の知られた戦士や、配下に置いたサグルク人の諸族の長を宴に招いた。剣が折れ矢尽きても運命を共にせよ。と、仲間に呼びかける父の姿は威厳に溢れていた。

 父に従うイヴォリ人の戦士たちは、一方的に断絶を告げられる以前から新参者であるエレイクの末裔たちを敵視していた。ゆえに彼らは麦酒ビールや蜜酒、舶来の高価な葡萄酒を呷っては、野太い声で息巻いたのだろう。奴らの称号など力ずくで奪ってしまえばいい、あの一族を根絶しにして、こちらが大公になればよいのだと。そうして赤ら顔の戦士たちが、グリンスクにおいては打ち捨てられた神々の名誉を復活させんと雄叫びを上げれば、サグルク人の長たちも騒々しく同調した。

 普段は農民あるいは商人や職人として生きるイヴォリの戦士は、自らの財産を守るためにも。サグルクの部族の長たちは、貶められた彼らの神々のために、懸命に剣や斧を振るってくれるだろう。

 大公やその息子らの首級を挙げんと意気込む男達の勇ましい様子に、姉や七つ年下の弟と並んで坐す少女は、匂やかに紅い唇をほころばせた。けれどもフリムリーズは、彼女の未来が喜ばしい方向へと変わった際に零した喜びはどこへやら。招いた戦士たちのようにとはゆかずとも、姉もまた一度や二度は酒杯を干したはずである。なのに、咲き誇る野薔薇めいた面はどことなく蒼ざめていた。

「まだ思案されているのですか? ヴォルダンやオーズル、フェルヴィを捨てた愚か者共に、父上が負けるはずはありませんのに」

 父祖の神の中でもとりわけ篤く崇拝される三柱の神々には、勝利を祈願して既に大量の生贄を捧げている。羊や豚だけでなく、不届きにも西南の唯一なる天主とやらの下に奔った、イヴォリ人の戦士の一家をも。

 よく肥えた家畜の亡骸の中に、自らを蔑ろにした不届き者を見出して、神々は大いに慰められたはずだ。だから彼らはきっとこの敬神に、幾世代にも渡って唄い継がれる栄光でもって報いてくれる。そもそもエレイクの一族は、先住民との争いの最中に若くして戦死した先代の頃から、サグルク人の神に懸けて誓っていたような輩なのだ。父祖の神々は、とうにあの一族を見放しているだろう。

 だからどうか、お辛そうな顔はもうならないでください。そうシグディースが囁くと、姉は堅く引き結んでいた唇をやっと開いてくれた。

「……確かに、私たちの神々は偉大だわ。でもそれでも、神の守護の御手から零れ落ちて、斃れる者もきっといるでしょう。なんせ戦とは、そういうものなのだから。私はそれが嫌なのよ」

 戦や死を司る神ヴォルダンは勇猛なる者を好む。ゆえに戦場で敵の手によって息絶えた者の魂を天上にある彼の館に連れていくというのは、イヴォリ人ならば幼子でも知っている話だ。ヴォルダンの館に招かれるのは、戦士たちにとって最高の名誉であり、彼らはそれを目的としても戦場に立つということも。なのに何故、姉は未だ浮かない顔をしているのか。

 葡萄酒と同じく西南から齎された絹の晴着。目が覚める緋色に染め上げられた布地に緩やかな弧を描かせる胸を締め付け、僅かながら苛立たせもした謎の答えは、音にするまでもなく与えられた。

「私のせいで誰かが死ぬのは、哀しいわ」

 この優しく繊細な姉は、父がグリンスクの大公の決定を覆そうとしなかった――有力な一族との繋がりをあちらから断ち切られるに任せ、再び撚り合わせんとしなかったのは、自分を想っての行動なのだと思い込んでいるのだ。自分がエレイクの一族の長男との結婚を嫌がったから、大公に戦を挑まれてしまったのだと。

 もしくは姉は天主正教の腑抜けた教えに、知らず知らずのうちに毒されてしまっていたのかもしれない。シグディースとは異なりフリムリーズは、大公一族の者となるべく西南より来る神の教えを、あらかじめ幾らか学ばされていたから。

「ご心配には及びませぬよ」

 うら若き姫君は自分のそれよりも色が薄い金色の髪に隠れる耳だけではなく、自らにも聞かせるべく、紅の花弁をほころばせた。

 神々に守られた父の軍勢は、一兵たりとも損なわれることなく、不届き者たちを蹴散らすだろう。華々しく勝利した父は余勢を駆ってグリンスクに攻め入り、主を喪った都を陥落させ、全てのイヴォリ人およびサグルク人の君主となるだろうと。さすれば流石に、姉のこのシグディースにとっては理由の分からない不安も治まるに違いない。

 自分よりも丈高いが華奢な姉の背を支え、姫君は酒焼けした喉から絞り出された歌声が響く大広間から居室を目指す。そうして羽毛が詰められた寝具に横たわった少女が見たのは無論、敵を制覇した父を出迎える吉夢であった。


「父上」

 すっきりとした弧を描く眉の下の、切れ上がった大きな目。秀いた額から続く高く通った鼻梁。鎖帷子を纏って武装した父は四十を越えてなお美々しい勇士であり、この父によく似ていると言われるのはシグディースの誇りの一つであった。

「おお、儂の可愛い姫よ」

 敵の血で汚れた顔に満面の笑みを浮かべた父は、五年前に不仲であった兄弟を打ち負かして戻って来た時のごとく、自分を抱き上げてはくれないかもしれない。だって幼かったあの頃と違い、シグディースの背はすっかり伸びて、胸や腰は徐々にではあるが女らしいまろみを帯びてきたのだから。

 でもきっと父は、あのいけ好かない大公たちから奪った戦利品を、自らの手足となって戦った者たちのみならず、シグディースにも与えてくれるだろう。欠かさず身に着けている琥珀の首飾りを、五年前のシグディースの首にかけてくれたように。


「どうか、ご無事で」

 決戦の日。少女は母や姉、幼い弟と共にシチェルニフの街近くの平原へと赴く父や戦士たちを見送った。父たちはそこで大公の軍と対決するのである。少女は、十日前の夢が真になれと願いはしなかった。己が見たのは正夢であると信じていたから。

 けれども幾ばくかの後に突き付けられたのは、愚かしいほどに無邪気な姫君の、否彼女たちの望みとはかけ離れた現実であった。偉大なる神々は、他の神を認めぬ器が小さい神に。父祖の神々に守られていたはずの父や兵たちは、狭量な神のみを恃む敵に敗北を喫したのである。

 辛うじて残っていた公を含むシチェルニフの戦士たちは、大慌てで戦場から逃げ出し、土塁の中に逃げ込んできた。そうして惨めな敗走を晒した君主は、信じがたい知らせに立ちすくむばかりの妻や子供たちと共に、ひっそりとした一室に身を隠したのである。略奪の対象となる貴重品など蓄えられているはずのない粗末な部屋ならば、グリンスクの戦士も荒らしはすまいと。

 しかし、自分たちがいずれ捕らえられ、無残に殺されるという神々の決定は、シグディースにだって察せられた。イヴォリの戦士たちの獰猛さと抜け目なさは、同じイヴォリ人であるからこそ、まだ十四の小娘であるシグディースとて嫌というほど知悉している。いっそ、父が腰に下げた剣で胸を突いてもらった方が遙かに楽に、誇り高く旅立てるということも。

 幽かに聴いた覚えがある程度のものも、良く知ったのも様々な悲鳴や剣戟。加えて、自分たちを探す獣じみた怒号。狭すぎる一室で、外から轟く破壊と混乱の合唱に苛まれつつ身を寄せ合っていたのは、シグディースを含む家族全員が僅かな可能性に縋っていたかったからに他ならない。

 どの神が――いっそ唯一神だか天主だかでもいいから――起こしてくれたものでも構わないから奇跡が起きて、自分が生まれ育った館を破壊する男達が直ちに立ち去ってくれれば。少女はけぶる睫毛に飾られた深い青の双眸を閉ざし、物心ついて以来最も真摯に祈願した。けれども彼女の願いは、やはり聞き届けられなかったのである。父祖の神にも、支配下に置いた民の神にも。勿論、遠い西南の地からこの氷雪の地までやって来た唯一なる神にも。

 規模や材料の質、施された装飾においては民たちの家を凌駕するとはいえ、公の邸とて木で建てられている。であるからこそ公邸の扉や壁は、斧を幾度か振り下ろされただけで、簡単に中の者を曝け出した。

「――いたぞ! シチェルニフの公とその妻子だ!」

 猛獣の咆哮めいた一声によって、希望が絶たれたまさにその瞬間。

「ごめんなさい。ごめんなさい。全部、私のせいなの。死ぬのは私だけでいいの。なのにお父様やお母様、シグディースにヨギルまで……」

 土気色に変じた頬を溢れる涙で濡らしながら、姉はまたしても意味不明な嘆きを、噛みしめすぎて血が滲んだ唇から漏らしていた。

 合図を聞きつけ集まって来た大公の兵たちは、すっかりシグディース達を包囲していた。これでは隙を突いて逃げるのは不可能だろう。それに唯一武器を携えた父には、もはや再び刃を握る気力など残されていないらしい。父はただただ、呆けた顔で返り血に塗れた敵兵を見据えるばかり。となれば、シグディース達は、

「そこまで分かってんなら、大人しく俺たちについて来るんだろ、お姫様よ。俺たちの大公さまが、お前に、お前たちに用があるんだぜ?」

 下卑た、けれども勝者の誇りを湛えた笑みを口の端に刻んだ敵兵に拘束される屈辱を甘受するしかない。

 もはや公とは讃えられぬだろう男とその妻子は、つい先日に宴を張った大広間まで引きずられていった。恥辱と恐怖に細い肩を震わせながら進んだ、もう自分たちの物ではない邸宅は血で汚されている。それだけでなく、あちらこちらに腕や脚といった人体の一部どころか、亡骸そのものが転がっていた。そしてシグディースたちも、もうすぐその一つになるのだ。

 絶望のあまり涙すら浮かばない瞳で少女が見据えた先には、良く知った人物の、あまりに変わり果てた面影が転がっていた。流氷を見に行ったあの日。シグディースや姉に松毬の蜂蜜煮を勧めてくれた老いた女は、割かれた腹からはらわたを零れさせていた。

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