第一部 彼女

流氷 Ⅰ

 光弾く雪で化粧された畔に立つ少女は、毛皮外套シューバの合わせをそっと握り締めた。毛皮を内側にして仕立てられる、この地伝統の防寒具が必要でなくなるまでには、あとどれ程かかるのか。矢車菊の青の瞳で眺める川には流氷が浮いていた。

「こんなところに居たのね、シグディース」

 もう何年も前に決められていた、四つ年上の姉フリムリーズの婚礼が行われるまでには、色彩に乏しい大地も華やかに芽吹いてくれるだろうか。肌理細やかな雪白の頬に刺さる冷気は、未だ針のごとく鋭かった。暦の上では既に春だというのに。

「貴女はまた伴も付けずに、独りで歩き回って。お母さまや婆やが心配していたわよ」

「独りでここまでやって来たのは、姉上も同じではありませぬか?」

「私はちゃんと、どこまで行くか言い残してきたわ」

 ――それこそ、貴女と違ってね。

 揶揄うような笑い声に釣られて振り返ると、淡い翠色の瞳がすぐ近くに迫っていた。

「私ならばともかく、姉上は近く婚儀を控えた身でございましょうに。何かあったらどうするおつもりだったのです?」

 紡ぎ出したのが無論冗談であるのは、姉も理解してくれたはずだ。父に似て薄い唇をしたシグディースとは異なり、母とそっくり同じで厚みのある姉の唇は、ふんわりとほころんだのだから。

「そしたらきっと、お父さまどころかエレイクの一族の、グリンスクの、その……大公も大騒ぎでしょうね」

 しかし姉が細い喉から押し出した声は、幽かに震えてさえいた。

 シグディースたちの父は、イヴォルカと呼ばれるようになった地の言葉で「公」と称される支配者である。けれども父は、唯一絶対の君主ではなかった。残念ながら、旗下に置いた諸族や近隣諸国からは、より強力だと見做される一族が存在するのだ。それが姉の婚約者の一族。大河ヤールが二つの支流に分かれる地点のほど近くで栄える、都市グリンスクの主たるエレイクの裔である。

 船を操って西の海の彼方より訪れ、原住民サグルク人の首長同士の抗争の絶えない大陸東部北方の覇権を握った男エレイク。及びその後裔は、シグディースたちと同じ西方からの入植者イヴォリ人であった。それも、シグディースの父祖よりも数世代後にこの地にやってきた、いわば新参者である。

 が、開祖の子の代で先住民の長の娘と婚姻を結ぶなどしたエレイクの一族は、終いにはサグルク人が住まう地の三分の二を従えるに至った。更に彼らは、南方で跋扈する遊牧民からも、幾ばくかの土地を奪うのにも成功したのである。ために現在のグリンスクの主であるエレイクの孫は、自らこそ並ぶものなき偉大なる公――大公であると名乗りだした。それだけでなく彼は自称した称号を、近隣では最も繁栄した、大陸中部南方にある帝国に認めさせもしたのである。

 エレイクの一族の支配下に入らぬ残り――シチェルニフと呼ばれる公国の長である父は、つまり新参者に出し抜かれた。ために父はエレイクの一族に良い印象を抱いてはいないが、彼らと交える刃を憤怒の炎で鍛えているのでもない。

 領土ではエレイクの裔に負けるとはいえ、父は西南のシャロミーヤ帝国との交易に有利な、大河ヤールの支流近くの都市を抑えている。自分たちにもまだ巻き返しの機会もあるだろう。だから機が熟すまでは、グリンスクの主たちとよしみを結ぶべきだ。そう考えた父は、自ら長女とエレイクの一族の長子の婚約を申し込んだのだった。もっとも、その時・・・は、子や孫の代になっても訪れないかもしれないが。

「……貴女の言う通りだわ。私、なんて考えなしだったのかしら」

 フリムリーズは長い睫毛を煌めく雫で濡らしさえして、自らの行動を悔いている。姉の大げさですらある反応は少女を驚かせると同時に、まだ未熟だが確かに膨らんだ胸の奥を締め付けた。

 過ぎ去った秋に、主要な交易相手である西南の帝国からの使節が父の許に訪れてから、姉はずっと様子がおかしい。暗に自分たちを無知蒙昧な野蛮人だと貶してくる輩を、シグディースはさっさと帰れと邪見にしていた。だのに姉は、使節が乗った船が河を下って見えなくなるまで、ずっと見送っていたのだ。だがそれはきっと、迫りくる婚姻のため生まれ育ったシチェルニフと、自らを加護してくれた神々の庇護下を離れなければならないという事情が関係しているのだろう。

 グリンスクの公たちは十数年ほど前に、父祖の神々や併せて生贄を捧げていたサグルク人の神々を捨て、帝国が崇める唯一なる神の徒――天主正教徒となった。そして天主の教えでは、シグディースたちのような他の神に祈りを捧げる者は、異教徒と呼ばれているらしい。そして、天主の徒と異教徒の結婚は禁じられているのだとか。

 ために姉はグリンスクに向かう時が来れば、今までの神の下を去り、信徒には自分以外の神に縋ることも赦さぬという、「けちな」神に跪かなくてはならない。フリムリーズが来るべき未来に怯えるのは当然であった。

「私に何かあったら、貴女が私の代わりになって、私と同じ目に遭うに決まっているのに……」

 シグディースは、妹である自分を優しく思いやってくれるフリムリーズのことが好きだった。本当に辛くて恐ろしい想いをしているのは姉だろうに。

「ご心配召されませぬな、姉上。ここは父上の街なのだから、私や姉上に害を為そうとする不届き者など、いるはずがございません」

 少女は頭を上げ、自分よりもやや背が高い姉の目を覗き込む。すると真っ直ぐに背に流した青みを帯びた金色の――月や星のごとく冴え冴えと輝く髪が、華奢な肩をさらさらと流れた。

「それに、エレイクの一族の長男は、何だかんだで近隣では最も将来有望ですし、由緒正しい系譜を継いでもいるでしょう? もしも奴らがまだ我らと同じ神を崇めていたのなら、私も姉上と一緒に嫁ぎたかったぐらいです」

 万が一、あの一族の三男の妻にされるぐらいだったら、その方がずっと良いではありませんか。

 少女は雪を被った七竈ナナカマドのごとく目を引く、紅く艶やかな口唇に勝気な笑みを刷く。すると姉もまたそうねと微笑んでくれた。

 グリンスク大公には、落馬が原因で死した次子と死産だった末子を除けば、息子が二人。長男は姉の婚約者であり次代のグリンスク大公で、三男はこのシチェルニフと隣接するトラスィニの公に任じられていた。けれども、三男は家内奴隷チェリャヂの腹から出たという出自からして、シグディースの結婚相手には相応しくない。それが、父を始めとする周囲の見解であった。

 シグディース自身としては、件の三男が自分好みの強く逞しい勇士であり、なおかつ跪いて懇願されれば嫁いでやらなくもないつもりではある。たとえ財産や地位があっても弱い男の子は産みたくないが、その逆ならば受け入れられるから。

 だが、もし仮にシグディースを妻にしたとしても、エレイクの一族の三男は決して父の後継にはなれまい。だからこそシグディースは、いずれ大公妃という名誉ある地位に就くと約束された姉に、僅かとはいえ羨望の念を抱いてもいた。エレイクの一族の長子の母親は、騎馬民族の長の娘だと聞く。姉の未来の夫は父母の血を引いた、並ぶ者無き勇士なのだろう。

「風が冷たくなってまいりました。そろそろ屋敷に戻らねば」

 未だ俯いていた姉の細い手を取って、雪解け水を啜った泥で衣服を汚してはならぬと用心して歩んだ道の片隅では、蕗蒲公英フキタンポポが咲いていた。

 春の訪れを告げる植物のさきがけであるこの花は、匂い菫のごとき芳香を放ちはしない。けれども、待ちわびる麗らかな陽光を濃縮したのかと紛う、冴えて明るい黄色をしていた。だからこの花を見ていると、自然に心が踊ってくるのだ。

「少し摘んで、ヨギルにあげませんか?」

 数日前から熱を出して寝込んでいる小さな弟も、春の訪れの徴たるこの花を差し出せば目と頬を輝かせてくれるだろう。

「おや、まあ、姫様たちったら、なんて遅いお帰りなんでしょう。わたしゃ心配で、胸がはちきれそうでしたよ」

 吹き荒ぶ冷風も何のその。姉と共に花を摘んで父母の許に帰った少女を待ち構えていたのは、サグルク人の乳母の安堵が入り混じった小言だった。

「お体もこんなに冷えて……。お風邪を召されないように、早く温かい飲み物を召し上がってくださいませ」

 シグディースたちを暖炉に近寄らせるが早いか、働き者の乳母は厨房から湯で溶いた木苺の蜜漬けの汁だけでなく、松毬まつかさの蜂蜜煮を持ってきてくれた。

「少し渋いですけれど、体が弱っているときは、松ぼっくりを食べるといいんですよ。一口食べると森の香りがいっぱいに広がって、胸がすっとしますし」

「私も姉上も、まだ風邪をひいたと決まったわけではないぞ、婆や」

 少女が反論しつつも匙を口に運んだのは、料理人が丹精込めて拵えた甘味を好んでいたからに他ならない。

「姉上。グリンスクにも、これを上手く作れる者がいると良いですね」

 慣れ親しんだ味を舌に刻みこもうとしているのか。薄い目蓋まぶたを下ろして松毬の蜂蜜煮を味わっていた姉は、やはりまだ憂鬱そうだった。

「きっと、おりますよ。婚礼の日には、フリムリーズ様だけでなく、シグディース様も、帝国の絹の服を纏われるのでしょう? 楽しみですね」

 若い娘なら誰しも喜ぶであろう、結婚式と高価な衣裳の話が振られても、姉の面に落ちた影はそのままで。

「ええ、そうね。特にシグディースは、お美しい方だと評判だったお祖母さまにそっくりなんですもの。私よりもずっと綺麗になるに決まってるわ」

「何をおっしゃられるのです? 私は所詮まだ十四の小娘。姉上のような女らしさはありませぬ。それに、折角の婚礼の日なのに、花嫁である姉上より私が目立つなど。誰よりも何よりも、姉上が輝かなくては」

 姉は母から外見だけでなく、控えめで繊細な性分をも受け継いでいる。それは彼女の長所であり、短所でもあった。

 母はこのシチェルニフで穏やかで慈悲深い公妃として敬愛されている。けれども母譲りの姉の美点は、グリンスクでは公邸の維持を担う奴隷たちや、従えるべき先住民の特権階級たる土豪貴族ボヤーレの侮りの的となるやもしれない。そもそも、この気弱な娘を本当にグリンスクにやってよいのだろうか。父母の密やかな懊悩は、シグディースとて知悉していた。

 しかし結局のところ、父母の危惧も姉の煩悶も、何もかもが無用の長物であった。それが判明したのは、少女が姉と共に炉端で蜂蜜煮を平らげた日から、一月ほど経った頃。

 泥濘んだ地面が乾くのを待っていたのだろう。大公から寄こされたという使者は、驚くべき知らせを齎した。グリンスクの大公一族はシチェルニフの公一族との戦いを望んでいるから、来るべき日に備えて兵や武器を集めておけ、と。

 大公は常に最前線に立って敵の血を浴び、誰よりも多くの敵を屠ってきたのを誇りとする、典型的な戦士気質の男であると聞く。ゆえに彼は同盟を破棄するにあたって、武装した戦士の集団ではなく、着飾った使者を送ってきたのであろう。

 グリンスクの大公一族と、自分たちを結んでいた細い糸はあちらから断ち切られた。つまり、姉と大公の長男の婚約も破棄された。そう父から告げられた瞬間の、姉の喜びに満ちた横顔は、今までにないぐらい麗しく見えた。

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