約束の刃

田所米子

葬送 Ⅰ

 支配者たる大公の邸宅すら木で建てられるこの地では、聖堂こそが唯一の石もしくは煉瓦造りの建物である。その希少な建築の、先が尖った屋根の黄金の輝きが今日ばかりはいささか減じて見えたのは、天候のせいだけではあるまい。式が厳かに始められる寸前、参列者の幾ばくかは蒼ざめた唇でめいめいに囁いていた。

 故人が初めての我が子のつつがない成長を願い、建立を命じた大聖堂。預言者と聖人たちのモザイクで眩い内部には、件の長子を筆頭に彼の七人の息子たちが揃っていた。

 上は十八から下は四つの公子たちのうち、幼少の者は泣き腫らした目で。長上の者は涙を堪えつつもやはり濡れた瞳で、父の魂の安息を祈っている。

 年長の公子のうち、故人の三男は、もしくは弟たち以上に激しく涙していた。が、それも致し方のないことだと、葬儀の場に居合わせた面々は痛ましげに目を伏せる。

 西の海の彼方からやって来た一族による統一が成されて間もない氷雪の地。その末永い繁栄をも願って築かれたはずの建物で最初になされた儀式が、造営を命じた男の葬儀であるという皮肉を想っても。だがその全てが、茫然と佇む女には――故人の妻であり、父の喪失を嘆く子らの母である女にとっては遠かった。

 乳母の裳裾にしがみ付いて啼泣する末子は、けれども時折ちらと母の方を窺っている。まるで、女が抱きしめるために幼子に手を差し伸べるのを期待しているかのごとく。しかし哀しみに耐える幼い我が子の稚い様子すらも、女の心には届かなかった。まるで、厚い面紗ベールに隔てられているようで。

 ――お前を……。

 よしんば届いたとしても、棺で眠る男が囁いた言葉に囚われる魂が、子らを振り返るはずはなかったのであるが。

 ――まさかあの大公妃さまが、大公の葬儀に参列なさるとは。

 幾ばくか前、巻貝の耳をくすぐった侮蔑と驚愕が入り混じる囁きが木霊する。彼の存在や、彼と過ごした日々。交わした約束に埋め尽くされていたはずの脳裏に残っていた、ほんの僅かな余白で。

 女自身も、自分がどうしてこの聖堂に連れてこられたのか把握していなかった。なぜかような真似をする必要があるのかも。

 女はただ、夫にあの言葉をもう一度言って欲しくて、彼の病苦に蝕まれても逞しい肩を揺さぶっていただけなのに。そうしたらいつの間にか襟や袖を涙で濡らす子供たちに囲まれていて、何かを恐れる目をした長子の指図によって彼と引き離された。そうして女は彼を悼むための服を着せられ、この場に連れてこられたのだ。

 だがこれも、夫がどれ程気まぐれな性質なのか、妻たる自分しか真の意味では理解していなかっただけなのかもしれない。あるいは夫が権力を振りかざして、周囲を無理やり自分の悪趣味な思い付きに従わせているのか。

 彼女にとっては不可解極まりないこの状況に、女はそのように折り合いをつけていた。自分たちの結婚の際にも発揮された夫の気まぐれには、当時の女自身、散々に振り回されたものだった。だからまた、彼があのような悪戯をしでかしたのだろうと。

 だがそれももう、終わりにしなくてはならない。だって自分たちは、派遣した地で立派に務めを果たすようになった子すらいる身なのに。だのにこんな酔狂をしでかしては、統治者としての名に傷が付きかねないではないか。

 でも本当になぜ、物好きだが愚かではない彼が、この余興をいつまでも止めないのだろう。これではまるで、自分の気持ちを確かめているようではないか。そこまで考え至ってから、女ははたと悟った。今までの己の行いからして、彼が自分の想いを確かめたくなるのは当然であると。

 であるとすれば、この悪ふざけを終わらせるには、少しばかり気恥ずかしくはあるがこうするしかあるまい。

 決意が固まると同時に、いずこを彷徨っているかも判然としていなかった、矢車菊の青の瞳の焦点が定まった。進むべき道を見出した双眸は、けれども正気の光を宿してはいない。

 雪白の頬に恋する乙女の赤みを刷き、眠る夫へと近づく大公妃。彼女の足取りは白鳥に似て優雅だが、人を水中に引きずり込む水精ルサールカめいてもいた。

 白百合さながらにひっそりと、今や母の無関心にも涙していた幼児の嘆きをよそに佇んでいた女。その狂乱を最初に察知したのは、彼女と同じ色の瞳を翳らせる長子であった。

 女の細い肩へと、青年の硬く節くれだった指が伸ばされる。母上、との控えめな静止の声も。だが女はその全てを払いのけ、己を待っているはずの夫のもとへと歩を進める。ほっそりとした後ろ姿を見やる子らの面は、あるいは恐怖し、あるいは絶望していた。

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