春に魔導士を待つ
あれから何度目かの春が来る。私は遠い約束を胸にそれを迎える。
生きている限り、この営みは続くだろう。
あの頃、私は十三四で、親の言うまま魔法学校の寮に入った。
今でこそ魔法は禁じられて、若い人たちは見たこともないだろうけれど、私たちの頃はまだ魔法庁という役所もあって、魔法が今より身近に存在していたのだ。
そこそこの貴族の家に生まれ育ち、適度なワガママも許されていた少女にとって、寮暮らしは楽しみなものではなかった。魔法に興味はなかったし、親元を離れるのも初めてだった。私は不安と不満を抱えながら校門をくぐった。
同室になったのはオレンジ色の髪をした小柄な少女だった。
「アディル・コレックっていうの、よろしくね」
屈託のない笑顔だった。大きな目がキラキラしながら私を見つめていた。
アディルは聞いたこともないような田舎の出身だった。純粋で一生懸命で面倒見がよく、同い年の私たちはたちまち仲良くなった。
行儀見習いの延長で入学したような私と違って、アディルは真剣に魔導士を志していた。小さい頃から修行を積んでいて、知識も実力も同級生とは比べ物にならなかった。私が薬草の選別に悩んでいる横で、アディルは二重魔法陣の構成条件を研究していた。
「魔法って難しすぎるよ。複雑だし面倒だし、アディルはなんでこんなのできるの?」
「あらシオン、初めては何でも難しいものよ。複雑そうに見えて、魔法はすべてこの世の理と結びついているの。丁寧に解きほぐせば段々とわかってくる。シオンの得意な料理の方が、あたしには格段に難しくて全然理解できないわ。落し蓋って何あれ?どういうこと?」
確かにアディルの料理の腕は最悪で、一度紫色のシチューを食べさせられたことがある。
「変よねアディルって。魔法より料理の方が苦手だなんて」
「結局好きなものは得意になるってことじゃない?」
「好きなものかあ……あたしは何が好きなんだろ。このまま大人になんかなれるのかな」
「薬草学の成績、最近すごいじゃない。シオンなら魔法薬の調合師とか向いてると思う」
「アディルが教えてくれたおかげでしょ。ダメだよあたし。自分が何したらいいのかわかんない」
「大丈夫、シオンは決めたらやり遂げる人だもの。きっと自分の道を見つけられるわ」
「ほんとにそう思う?」
「うん」
「そうなのかなあ……。ね、アディルは大人になりたい?」
「うん、早くなりたい。立派な魔導士になりたいの」
「いっつもそう言ってるもんね…いいな、目標があって。あたしは何ができるのかなあ」
「何ができるかより、何がしたいかじゃない?」
「そうなんだけどさあ……何でも不安に思っちゃうのよ。自信持てるものなんて何もないから」
「あたし、シオンの料理、好きよ」
「え」
「あんなに美味しい料理作れるなんてすごいって、いつも思ってる。シオンの料理食べると幸せな気持ちになるの。あたしに言われたって自信にならないかもだけど」
「……」
アディルは優しい子だった。いつしか私はアディルに惹かれていた。それは友情より、もう少し強い感情だった。
なぜあんなものが流行ったのかよくわからない。
魔法学校でおまじないが広まるというのは、腑に落ちるとも言えるし、あり得ないことのような気もする。年頃の少女たちの好奇心はどこでも変わらないということだろうか。
内容は単純だ。初めてのキスが満月の晩ならその相手は永遠の恋人になる、というものだった。
「ん~、どうなんだろ。確かに月には魔力があるけど、人の人生を左右するほどかというと」
アディルは否定的だったが、クラスメイトの中には盲信する子もいて、誰それはそれで結婚しただの、古くから伝わる秘法だの、根拠のない噂話で学校中が大いに沸いた。魔法学校としてはあまりよろしくない傾向であったろう。しばらくの間、満月が近づくと生徒たちがざわめきだすという現象が続いた。思春期の少女にとっては噂だけでも十分なときめきだったのだ。
私も心をときめかせた一人だった。
ある満月の夜、私はこっそり目を覚ました。
隣りではアディルが小さな寝息を立てて眠っている。月の光が窓から差し込んで、ちょうどベッドの上を蒼く照らしていた。
私は寝床を抜け出し、アディルに近づいた。アディルは何も気づかず眠っている。唇が小さな宝石みたいだった。私は顔を近づけて、そっと自分の唇を重ねた。
アディルが目を覚ましたので、私はあわてて身を離した。
「ご、ごめん、起こしちゃった?」
夢とうつつの境目でそこにだけ違和感を覚えたのか、アディルが自分の唇を触った。私は急に恥ずかしくなった。
「あ、あのね、あのね……怒らないで。あたし、あの、あたしほんとにアディルのことが……」
そこで言葉が止まった。驚いたのだ。目の前でアディルが泣いていた。
大きな目からボロボロと涙がこぼれていた。アディルの涙なんて初めてだった。濡れた瞳が一瞬だけ責めるように私を刺した。伏せたまつげに悲しみの影があった。
私は理解した。アディルには好きな人がいたのだ。
複雑な魔法に精通していながら他愛ないまじないを信じてしまうほどに。初めてのキスがその人でなくて泣いてしまうほどに。
息が苦しくなった。私はアディルを傷つけたことを知った。
「……アディル……あ、あの……」
アディルは何の反応も見せなかった。私はそれ以上何も言えなくなった。
それから私たちの間には見えない壁ができた。私は何とか謝りたかったのに声をかけることさえできなかった。
しばらくして実家が破産したという知らせが届き、私は退学しなくてはならなくなった。
アディルとはあれっきり、結局何も話せないまま、学校を離れた。小さな馬車に揺られながら遠ざかる校舎を振り返ったが、いくら探してもアディルの姿は見つからなかった。
それから十数年が経った。
私は魔法学校で学んだことを活かし、薬草店に勤めた。一生懸命働いて、やがて自分の店を持った。そこそこの貴族の娘だった私は、そこそこの薬屋の女将になった。下町に構えた店は評判もよく、毎日が忙しかった。
あるとき国王が亡くなり、王太子が新しい王になった。新王は新しいものを好んだ。古い文化を改良し、ときには排除した。魔法も消された文化のひとつだ。魔法は使うことも学ぶことも禁じられ、違反すると逮捕された。鎧を着た巡察兵たちが町中を歩き回るようになり、庶民の暮らしは息苦しくなった。魔法学校も魔法庁もなくなってしまった。
薬の調合は魔法と見なされなかったので、何とか店を続けることができた。私はアディルのことが心配だった。彼女が魔法を捨てるとは思えなかったからだ。
あの夜以来、ずっとアディルのことが頭の片隅にあった。忘れようにも忘れられなかった。償えないままの罪の意識は、トゲとなって私を刺し続けていた。魔法庁に入ったことは聞いていたが、それ以後の消息についてはまったく知れなかった。
冬の終わりのある夜のこと。
私はひとりで店の後片付けをしていた。外にはちらちらと名残りの雪が舞っている。春が近いとはいえ、夜にはまだ暖炉が必要だった。火の始末を確かめて店を出た。
表通りをドカドカと荒い足音が通り過ぎる。巡察兵たちだ。こんな遅くまでやかましいことだと私は顔をしかめた。
ふと、店の前の暗がりに気配を感じた。何かがうずくまっている。
「誰かそこにいるのかい?」
私は用心しながら暗がりに踏み込んだ。黒いローブをまとった何者かがそこにいた。
「……すみません、すぐに立ち去ります。少し休んでいるだけなんです」
声に聞き覚えがあった。私はまさかという思いでローブの奥をのぞきこんだ。オレンジ色の髪が見える。動悸が激しくなった。
「……アディル?」
「……え?」
間違いなかった。年相応になり、汗と埃で汚れていたが、面影はあの頃のままだ。私は十数年ぶりにアディルと再会した。
「……シオン……なの?どうして?」
「どうしてって。アディルこそどうしてこんなところに?」
そこで私はアディルが何かを抱えていることに気がついた。眠っているように動かないそれは、子犬ほどの大きさをしていた。生き物のようだ。
また足音が聞こえた。さっきより近くを歩き回っている。と、アディルが暗がりの奥に身を隠そうとした。その様子に勘づくものがあった。
「アディル、あなた、追われてるのね?」
返事はなかったが、それが答えになっていた。私はすかさずアディルの手を取ると、店の中に連れ込んだ。
「ここはあたしの店よ。今は誰もいないから大丈夫」
扉に鍵をかけた。明かりはつけない。火を落としたばかりの暖炉にはまだ熱が残っていた。とりあえずその前に椅子を置いてアディルをうながす。アディルは少し迷っていたが、やがて腰を下ろした。抱えていたものを膝の上に置き、そっとなでる。それは、首の長いトカゲのような見たこともない生き物だった。かなり弱っているらしく動かない。
「……魔物の子どもね?この子のせいで追われているのね?」
「……詳しいことは言えないわ。シオン、あなたに迷惑がかかる」
「……わかったわ。なら聞かない。でも手当てだけさせて。この子もそうだけど、アディル、あなたも凍えてるわ。何か温かいものを作りましょう」
「すぐに出ていくから」
「すぐ出ていけるならあんなところに隠れてやしないでしょ。大丈夫、すぐにできるわ。それとも自分で作る?寮で作った紫色のシチュー、まだ覚えてるけど?」
そう言うと、アディルは初めて微笑んだ。
「懐かしいな……ありがとうシオン。いただくわ、あなたの料理」
私は胸の奥に明かりが点ったように感じて嬉しくなった。
突然、激しく扉が叩かれた。鎧の触れあう音がする。私は息を呑んだ。アディルの顔色が真っ青になった。
「アディル、魔法で姿を消せる?」
「ダメ……!隊長は魔力に気づくの……!」
瞬間、私は覚悟を決めた。
「わかった。こっちへ来て。その子も一緒に!」
「どうするの?」
「私のスカートの中へ。大丈夫、かなり太ったからね。ちっちゃなあなたなら隠せるわ」
「そんな!無理よ!」
「つべこべ言ってるヒマはないわ!動かないでいるから、あなたも息をひそめて」
「……シオン」
「忘れたの。あたしは決めたら必ずやり遂げる女よ」
アディルがはっとした。私の目を見つめる。小さく、しかし強くうなずくと素早くローブを脱いだ。
扉が今にも蹴破られそうだ。アディルが魔物を抱え、スカートの中に潜りこむ。私は乱れを直すと、すり足で扉に向かった。
鍵を開けた途端、重装備の鎧兵たちがわらわらと飛び込んできた。
「何だいあんたらは!巡察を呼ぶよ!」
怒鳴り声も意に介さず、鎧兵らは店の中を見回している。一人だけ
「私らが巡察ですよ。すみませんな、奥さん。手配中の逃亡者がこの辺に逃げ込んだものでね」
「逃亡者?それがウチと何の関係があるんだい」
「中に隠れてやいないか調べさせてもらえませんか。間違いだったらすぐ退散します」
「間違いだよ。とっとと出ておいき」
「調べが終わったらね。すみませんがご協力を」
私は男の腕をグッとつかんだ。
「あんたらの横暴さは腹にすえかねてたんだ。ここにいな。部下たちに変な真似しないよう言うんだ」
私はあえて隊長を引き留めた。すぐ下でアディルがうずくまっている。何かの拍子に足でも触れれば、たちまち見つかってしまうだろう。だが私に恐怖はなかった。汗の一滴も流れなかった。何があってもアディルを守ると決めていた。
私は隊長をのべつまくなしに罵り、口やかましい女将を演じ続けた。そのおかげか、相手は顔を背けてこちらを向こうとしなかった。
やがて、散々に店の中を荒らして鎧兵らは引き上げた。壁紙ははがされ床板はめくられ、薬草のビンがそこら中に投げ出されている。強盗に入られた方がマシなほどだった。それでも私は胸の中で安堵の息をついた。
「やはり間違いのようでしたな、奥さん。失礼しました」
「失礼で済まされる有様かい、これが。もうあんたらの顔は見たくもない。行っちまいな」
「ご協力に感謝しますよ。そんなところにずっと立ち尽くしでお疲れでしょう。さあどうぞ、おくつろぎをっ」
言うや、隊長はいきなり私の腕を引っ張った。不意を突かれた私はよろめいて、たたらを踏んだ。いちどきに背中が凍った。慌てて振り返る。だがそこにアディルの姿はなかった。
「……ふん、動かないから何かあるかと思ったが」
隊長は予想が外れた様子だったが、私の驚きはそれ以上だった。
気配は感じる。すぐそこにいるのだ。だがどこに?
(……そうか!姿を消す魔法……!)
私はアディルの機転に気づいた。
「……随分と魔力濃度が高いですな。奥さん、あなたまさか、何か魔法をお使いでは?」
私はとっさに、床にばらまかれたビンの中身を取り上げた。
「ウチは薬草店だよ。これだけしっちゃかめっちゃかにされちゃ魔力も漏れるさ。普段はちゃんと保管してあるんだがね。一体誰がぶちまけてくれたんだろうね!」
「……」
隊長は苦い顔を見せると、物も言わず出ていった。足音が遠ざかる。きっかり三分、私は微動だにせずその場に立ち尽くし、そして、へたりこんだ。体からすべての力が抜けた。
「……シオン!」
蜃気楼が濃くなるようにしてアディルの姿が現れた。アディルはひざをつき私の手を取った。
「こんな危ないことを!何かあったらどうする気だったの」
「……ごめんね、ちょっとしくじっちゃった……さすがよ、アディル。よくまああんな一瞬で……助けるつもりがまた助けられちゃったね……ありがとう」
「……バカ、バカ……何言ってるの……バカ」
アディルが私を抱きしめた。香りと温もり。十数年前の記憶が瞬時に蘇る。私はおずおずと友の体に手を回した。
「夢のようよ、アディル……あなたがここにいるなんて」
「私もよ。ずっと会いたかった」
「……本当に?」
「本当よ、シオン。ずっとあなたに会いたかった」
涙があふれた。歓喜と贖罪の気持ちが体中を満たした。私はこの再会を仕組んでくれた運命に心から感謝した。
私たちは夜が明けるまで話し込んだ。暖炉の熱はとっくに冷めていたが、不思議と寒さを感じなかった。
小雪舞う朝日の中、アディルは立ち去った。遠いところに、魔法の里を作るのだそうだ。魔力を持つせいで虐げられている人や獣を救いたいのだという。
「私の力じゃどこまでできるかわからないけど。でもできる限り精一杯やってみたいの。私は私の力を、何かを守るために使いたい。シオン、あなたがしてくれたように」
私の友は、立派な魔導士になっていた。
強さと気高さを兼ね備えた、孤高の魔導士に。
あれからアディルには会っていない。
きっと今でもどこかで、自分の信じた道を自分の力で切り開こうとしているに違いない。
人の希望は、人である。私も誰かの希望になるような人間になりたいと思う。
あまたの別れに、またひとつさよならを重ねた。だが私は寂しくなんかない。
だってアディルは最後にこう言ったのだから。
「ありがとう。きっとまた会おうね!」
あれから何度目かの春が来る。私は遠い約束を胸にそれを迎える。
生きている限り、この営みは続くだろう。
私は、春に魔導士を待つ。
春に魔導士を待つ 桐生イツ @sorekara359
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