一章 裏切り者たち

一話

 太陽の月も終わりだというのに、俺はまだ、夏の一大イベントを終えていない。

「たいちょー」

 俺はソファーに寝そべったまま、ダイニングテーブルの方にいる隊長に話しかける。

「なぁに?」

 隊長は退屈そうな声色で返してきた。今日は雨が降っており、外に出かけられないのである。

「海行こうぜ」

「やだ」

 予想外の即答に俺は上半身を起こした。

「なんで? 隊長海好きだろ」

「海好きって言った覚えないけど……」

「いや、なんか好きそうだから」

 夏と言えば海。イベント大好きな隊長が、海に行きたくないはずがない。しかし隊長は俺の予想に反し微妙な表情を浮かべている。

「確かに好きだけど……」

「ほら、やっぱり」

「だって僕、泳げないもん。泳げないのに海に行っても……」

 そこまで言って、隊長はハッと目を見開いた。

「どうした?」

「……いや……昔ね、ウルフさんと一緒に海に行ったことがあったなって思い出しただけ」

 隊長はそう言って少し寂しそうに笑った。

 そう、ウルフはもうこの世にはいない。あれからニ年経つが、短い付き合いだった俺でさえ未だに「何か足りない」という切なさに胸が痛む。ましてや隊長の心の傷の深さは計り知れない。

「海ねぇ……あ、そうだ、イツキくん」

「何だ?」

「アヤメちゃん誘って行けばいいじゃん」

 俺が思わずむせ返ったそのとき、玄関のベルが鳴った。助かったと思いつつ、俺は隊長と目を見合わせた。

「今日誰か来る予定あったか?」

「えっと、無いはずだけど……」

 隊長が立ち上がって玄関に向かう。俺も後からついていって、リビングから顔を出して見守った。

 隊長がためらいがちに玄関を開けると、その先には白鷺と烏がいた。

「え……っ?」

「予告もなしに帰ってきてすみません……」

 白鷺がひどく疲れた様子でぺこりと頭を下げた。その後から烏が相変わらずの仏頂面で入ってくる。

「いやいや、別にいつでも帰ってきて大丈夫だよ!? おかえり!」

「ただいまです」

 白鷺は大きなバッグとキャリーケースを抱えて玄関を上がった。まるで家具以外の全てを持って帰ってきたかのような荷物の大きさである。どうやらしばらくこの家にいるつもりらしい。烏も同じような装いで、一言も発さずに荷物を家に運び入れている。

「えと、白鷺くんすっごく顔色悪いけど大丈夫……?」

 隊長が訪ねると、白鷺がどきりとするほど怖い無表情で隊長を振り返った。が、それは一瞬だけで、すぐにいつもの微笑を浮かべた。

「ちょっと……色々ありまして」

「後で説明するから荷物運ぶの手伝って」

 烏がぶっきらぼうに言って隊長にバッグを押し付ける。隊長は思わずといった様子でそれを受け取り、目をぱちくりさせた。


 荷物の整理を終え、俺たちは黒狐と涼子も呼んでリビングに集合した。が、白鷺はいない。

「あれ? 白鷺くんまだ二階にいるの?」

 隊長の問いに烏が頷いた。

「白鷺は寝てる。不眠症が悪化して、ここ五日全く眠れなかったって」

「い、五日も……」

 さっきの怖い無表情は寝不足のせいか、と俺は妙に納得した。それにしても一体何があったのだろう。白鷺の疲弊ぶりに気を取られて気づかなかったが、烏もなんだかげっそりしている。

「とりあえず、どうして急に帰ってきたのか教えて?」

 隊長が訪ねると、烏は微かに頷いた。

「……仕事、辞めました」

 隊長と涼子が目を見開き、黒狐がガタッと椅子を倒しそうな勢いで立ち上がる。

「お……お前っ、なんで……!?」

「正確に言うと、辞めさせられたんです」

 無表情だが、どこか苦しそうな声色が痛々しい。黒狐もそれを感じたようで、ゆっくりと椅子に座り直した。

「何かやっちまったのか……? まさか人を……」

「未遂です」

 食い気味に答えて、烏は小さく息を吐いた。

「警察組織内でだいぶ嫌われてたんですよ、僕。半魔だから……。それで僕を組織から追い出して、あわよくば刑務所に放り込もうとしていた連中がいたんです。そいつらに嵌められました」

「……お前にしちゃ、ずいぶん不覚だな」

「ええ、本当に……ただ、さすがに僕を嵌めるためだけに人間を犠牲にする輩がいるとは思いませんよ」

 烏は自嘲するように喉の奥で笑った。隊長が首をかしげる。

「犠牲って、どういうこと?」

「……僕に殺させようとしたというか、殺すよう仕向けられたというか。寸前でやめたけど」

「それって……烏くんはなんで殺そうとしたの……?」

「薬物を打たれて正気を失ってしまって、そのまま食い殺そうと……。僕の魔物の部分を薬で無理やり引き出された感じで。普段なら何があってもそんなことしない」

 烏は腹立たしげに言った。黒狐が我が事のように歯ぎしりをして、それからため息をついた。

「しょうもないヤツってのはどこにでもいるんだな、ホンマに……。未遂でもムショ行きじゃねーのか?」

「本来はそうですね。ただ今回のは僕だって被害者みたいなものですし、運良く上が僕に味方してくれたのでクビで済みました」

「クビで済む、って、お前……そんなの納得いかんだろ」

 黒狐の言葉に、烏は顔をしかめた。

「当然ですよ。なんとかして復帰できないか今考えているところです」

「頭の硬そうな警察がお前をもう一回受け入れてくれるかねぇ」

 黒狐が身も蓋もないことを言い、リビングは重い空気に包まれた。しばらくしてから隊長がその空気を破るように口を開いた。

「それで、白鷺くんは何があったの?」

「……あいつは別件。僕も詳しくは知らないけど、トラウマを掘り返されるような出来事があった、とだけ。それ以上は訊いたら泣かれそうだったのでやめた」

「あー……」

「白鷺、ああ見えて精神面は弱いものね。……弱いというか、ある一点を突かれると全部崩壊しちゃうという感じかしら」

「そうですね。また落ちついたらそれとなく訊いておきます」

「そうね、烏が訊くのが一番いいわ」

 涼子が頷いたところで、隊長が不意に立ち上がり、電話台の下から紙を取り出した。

「あれから二年も使ってしまったけど……やっと色んな準備が整った」

 隊長はごく真面目な口調で言った。一気に空気が張りつめる。

「烏くんと白鷺くんには酷になっちゃうかもしれないけど……僕はそろそろ国外に出ようと思ってる」

 ぱら、と紙がめくられる。

「僕と一緒に国外に出るのは、黒狐さんと涼子ちゃん、それからイツキくん」

 俺はうなずいた。

 正直、葛藤はあった。だが俺は龍神に目をつけられてしまった以上、動かなければならない。

「ここに残るのは、烏くんと白鷺くん」

 逃げない、という選択肢は、逃げる、という選択肢を選んだ者がいる以上、非常にリスキーなものだ。隊長が国外に出たことの責任を、逃げなかった二人が負う羽目になるかもしれないからだ。具体的に言うと、俺たちの行く先を問い詰めるために酷いことをされたり、俺たちを呼び戻すための人質にされかねないからだ。二人とも、そんなタマではないが。

「間違いないね?」

 みんなは頷いた。

「それから、烏くん。僕の言ったこと、覚えてるよね?」

「うん」

 烏は短く答えた。隊長はうなずき、紙に視線を落とす。

「とりあえずそっちは、始まらなきゃわからないからね……これ以上言うことないや。問題は僕たちのほう」

「俺たちもやってみないとわからんことばかりのはずだろ」

 黒狐が腕を組む。隊長は頭を掻いた。

「まあそうなんだけど……いや、一番問題なのが僕なんだよね。警察とかそういうのに目をつけられるとしたら僕だし……」

「ま、その時はその時じゃろ? 手配書の似顔絵全然似てないからそうそうバレることも無いだろうよ。手配書には龍人って書いてるけど、どっちかというとトカゲだし、お前」

「もう! トカゲじゃないもん」

「はいはい」

 黒狐はニヤニヤ笑って答える。

「それで、イツキくんは刀のこと、どうにかできた?」

「え? ああ、まあ」

 国境を越えて広がる森と山脈を徒歩で行くのに、手入れの道具が多い刀を持っていくのは邪魔じゃないかと俺が言うと、隊長は自分でなんとかしてくれと言ったのだった。

「消耗品はもうなくなったら諦めるかどこかで探すことにするよ」

「うん、わかった」

 隊長はうなずくと紙を暖炉の中に放り込んだ。

「とりあえずみんな、持っていくものはガレージにまとめておいてね。一週間後の集会が終わったら、この家を出るから」

 十五番隊のみんなは、覚悟を決めた顔で頷いた。

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