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 〈秋桜〉を抜ける。それはかなり難しいことだ。

 実はこれさえも龍神の企みのうちかもしれない。あいつは隊長の行動を全部読んでいたくらいだ。〈秋桜〉を抜けるという発想だって、経緯を考えればそれほど突飛なものではないだろう。

 それを抜きにしても、〈秋桜〉を抜けるのは危険だ。そもそも〈秋桜〉は暗殺組織。内部事情を知る人間を野放しにしておくような生易しい組織ではない。涼子曰く、これまでにも無断で逃げた人間は何人かいるそうだが、全員が一番隊により殺されている。

 一番隊というのは、〈秋桜〉設立当時からある暗殺専門部隊で、外部の人間だけでなく、内部の人間も始末している部隊だ。一番隊は謎に包まれており、詳しい仕事内容はおろか、その隊員の顔さえわからないという特殊な部隊である。下手すると隊長より強い人間がいるかもしれないそうだ。

 さらに、隊長はミーリスに行くと言ったが、ミーリスだったら誰も隊長のことを知らない、というわけではない。何せ特級指名手配犯である。手配書の似顔絵は笑えるくらい似ていないのだけど、黒鱗で翼のない龍人となるとやはりどこかで気づかれてしまう可能性はある。

 国境をどう渡るかも問題だ。国境付近は基本的に柵があったり国境警備隊がいたりする。越えるのはやはり危険が伴う。隊長は人に知られているような道は使わず、とにかく森を歩き、険しい山を越えるつもりでいるらしい。確かにそれなら警備隊に見つかったりする心配はないだろうが、厳しい旅路になるのは確実だ。しかも、旅の途中で一番隊に追われ、戦うことになるかもしれない。

 そんなこんなで、俺たちはあえて天候の悪い山中で戦闘訓練をしているのである。


 「ホントに動きが無いよねぇ」

 隊長がぼんやりと呟く。俺は回想から戻って、「何が?」と訪ねる。

「いや、こういう訓練始めてから七ヵ月以上経ってるのに、龍神が何かしてくる気配はないし、会長も何にも言ってこないし……」

 変化が無さすぎて逆に怖くなってきたかも、と隊長は笑った。

 そう、もう一年近く動きが無いのだ。「殺す」なんて言われたからそれなりに怯えていたけれど、実はやっぱり、〈秋桜〉にいるのが危険なんてただの勘違いなのかもしれない。

 なぜ、この何も動きがない隙に〈秋桜〉を抜けないのかは、これが理由だ。まさか勘違いで〈秋桜〉を抜けて無駄なリスクを冒したくはないし、それなりにみんな〈秋桜〉に想い入れがあるのだ。……俺も例に漏れず。好きな女の子と二度と会えなくなるなんて……悲しい。

 隊長はそのあたりのリスクを考え、ギリギリの妥協案を取った。次に龍神に出会ったとき、あるいは会長が怪しい動きをしたらすぐに〈秋桜〉を抜ける、というものだ。下手すれば逃げる前に殺されかねないのだが、こればかりはどうしようもない。

 だがその怪しい動きも無く、当然龍神とはあれ以来会ってはいないので、結局一年近く経った今でも〈秋桜〉にいるのだ。

「杞憂だったらいいんだけどな」

「そうだねえ」

 隊長はのほほんと答えて、それからキョロキョロと辺りを見回した。

「そういえば涼子ちゃんは?」

「知らん。どっかで迷ってんじゃね」

「さすがにそれはないだろ」

 この訓練には涼子も参加している。つまり、涼子も〈秋桜〉脱出予定組である。


 実は既に、残りの三人も身の振り方は決めているのだ。涼子と烏は二日で決め、白鷺は五日かけて、何回か隊長と話をしてから決めていた。

 涼子は俺たちと来ることにした。これには何故か隊長が一番驚いていた。「ホントにいいの!?」と何回も聞いていた。

 「だって涼子ちゃんは巻き添えだよ!? 僕と来ない方が安全じゃない!?」

「別に安全性は私の人生に必要ないわ」

 涼子はさらりと言った。……カッケェ。

「でも……っ、もし涼子ちゃんが僕のせいで……」

「その先は考えちゃダメ」

 涼子は隊長の頭にポンと手を置く。

「私が勝手に行きたいと言ったの。私の命の責任を隊長が背負う必要はどこにもない」

 隊長は少し泣きそうな顔で頷く。

「じゃあ……なんで僕についてくるのか、聞いてもいい?」

「もし私が死んでも、復讐は考えないって約束してくれるなら」

 涼子は悪戯っぽく言って片目を瞑る。隊長は何とも言えない顔をして頷く。

「私は〈秋桜〉に失望したの」

「……え?」

「私が〈秋桜〉にいたのは、ほとんど成り行きだけど、ここはいいところだと思っていた。一番いいのは、会長も会員も、きちんと仲間を大切にするところよ。人殺しの組織だけども」

 けれど、と涼子は目を伏せる。

「会長は隊長を裏切った。それは私の信頼をも一緒に裏切ったことになるの。しかもそれが原因で、私たちはウルフを喪うことになった。〈秋桜〉がウルフを殺したも同然よ。こんな状態で、私は〈秋桜〉に……会長に忠誠心を保てるはずがない」

 隊長はハッとして涼子を見上げる。

「それに、私にはあてがあるの。……もし隊長たちに、本当に逃げ場が無くなるようなことがあれば……私はきっと役に立つわ。保証はできないけれど」

 涼子は意味深な微笑みを隊長に向ける。隊長は首を傾げ、「あてって、何?」と尋ねたが、これには涼子は答えず、「時が来たら教えるわ」とだけ言った。


 そんなこんなで涼子も訓練に参加している。訓練に参加しないのは、残りの二人。

 烏と白鷺は、〈秋桜〉に残る組だ。

 烏が「抜けません」と言ったとき、隊長は今度は逆に「抜けないの!?」と驚いていた。黒狐や涼子も驚いていた。

 「だって烏くん、前に〈秋桜〉抜けたいって言ってたじゃない!」

「そうだ、お前〈秋桜〉嫌いなんだろ!?」

 口々に言う隊長たちに向かって、烏は面倒くさそうにため息をついた。

「〈秋桜〉は嫌いだし抜けたいのも山々ですが、抜けると面倒なことになるのは目に見えてるじゃないですか。嫌ですよ、凄腕の暗殺者に追われるの。だいたい本気で抜けようと思ってたら、とっくの昔に抜けてますよ」

「それはそうだけど……! ある意味チャンスなのよ!?」

「得体の知れない龍神とやらに目をつけられるのをチャンスと仰るんですか?」

 烏は嫌味な口調で言った。それで三人は閉口する。

「……でも、すごく嫌なこと言うけど……烏くんが〈秋桜〉嫌いなの、会長は知ってるんでしょ? 僕たちが〈秋桜〉抜けて、烏くんが抜けなかったら、逆に色々疑われちゃうんじゃないかな……」

 隊長がおずおずと言うと、烏はにっこりと――何だかすごく気味の悪い笑顔を浮かべた。

「どうぞ、ご心配なく」

「……お前、何か企んでるな?」

 黒狐が目を細めて睨むと、烏は喉の奥で笑った。

「みんな抜けてしまうなら、後の〈秋桜〉がどうなろうと構わないって解釈しても良いですか?」

「……ちょっ、烏くん……。何考えてるの……?」

「〈秋桜〉を潰そうかなと」

 このとき俺は会話には参加しておらず、リビングで白鷺とカードゲームをして遊んでいただけなのだが、さすがに俺も白鷺もゲームどころではなくなって、四人の方を振り返った。

「い、今、烏くんなんて……?」

「その方が隊長たちにとっても良いでしょう?」

「ちょっと待てぇっ! お前、それはそれで龍神の恨みを買いかねないんだぞ!?」

「何故です? 龍神は隊長が狙いなんでしょう? 隊長が〈秋桜〉を自主的に抜けてしまえば、あとの〈秋桜〉に用は無いはずだと思いますが」

「確かにそうだが、会長はおそらく龍神に買収されたまんまだ。現に週に二回は電話をかけてくるし、隊長と話をしなきゃ切らないんだぞ。明らかに監視だ、俺たちが逃げてねえか確認してんだよ。龍神に何か言われてなきゃ、そんなことするはずがねえ」

「だから、龍神が欲しいのは隊長なんでしょう? 〈秋桜〉を利用しているのは隊長がいるからであって、隊長がいなくなれば〈秋桜〉もいらないはずでは? せいぜい会員を捨て駒に使うくらいでしょう。無くなって龍神が怒るとは思えません」

「そりゃそうだが」

「そういえば意味がわからなかったんですけど、隊長って、龍神が唯一接してもいい人間なんでしたっけ? なんで会長は龍神と話ができるんですか?」

 リビングの空気が凍りついた。……そうだ、烏の言うとおりだ。なぜ、今まで気がつかなかったんだろう。

「ほ……ほんとだ……! 黒狐さん、どういうこと!?」

「い、いや、わからん。なんで気がつかなかったんだ……」

「やっぱり黒狐さんってマヌケなんですね」

「るっせぇ! お前もそれ早く言えよな」

「僕が隊長が唯一の人間とかいう話聞いたの一昨日ですよ」

 烏は憮然として答える。

「……ということは、神界の奴らは龍神のルール違反に気づいてないってわけだ。まあこんなことはままあるが、なんとなくちぃっと不穏な感じがするぞ。まあこれで隊長自身に何かあるのは確定だな。他の人間も一応利用できるのに、わざわざ隊長を支配下に置こうとするんだから」

「では、〈秋桜〉を潰しても龍神の恨みは買わなさそうですね。〈秋桜〉自体に特別な価値はない」

「それはそうだが……でもなんつーか、そこまでする必要性を感じんな……。とにかく追っ手が邪魔だって話であって、追っ手さえいなければ別に〈秋桜〉は存在しても構わんのだが」

「それは詰まるところ、どうでもいいってことでは?」

「お前な……」

 黒狐は唇を震わせたが、言葉が続かない。隊長が軽く手を叩いて、気を取り直すように言った。

「とりあえず烏くんが〈秋桜〉に残ってくれるのなら、ウルフさんのお墓の管理は烏くんに任せたいな。僕の一番の心残りだし」

「構わないよ。言われなくてもやるつもりだったし」

「どうすんだよ、本当に〈秋桜〉潰してしまうのか?」

 黒狐が言うと、烏がやれやれと言ったように肩をすくめた。

「だからマヌケだって言ってるんですよ」

「は?」

 烏は長いため息をつく。

「……副隊長の墓が荒れるようなことでもない限り、僕が何しても良いってことでしょ」

「さっすが烏くん! 僕の言いたいことわかってくれた!」

 隊長が烏に抱きつこうとするが、烏はそれを邪険に退けた。

「……は。いや、は?」

 黒狐は未だ混乱中である。そんな黒狐に、烏は冷たい笑顔を見せた。

「ということで。ああ、この件は僕の方でちゃんと考えておくんで、黒狐さんはあまり気にしなくて大丈夫ですよ」

 


 それから三日ほどしてから、白鷺と隊長がわざわざ十五番隊のメンバーをリビングに集合させた。と言っても、烏はこのとき既に仕事――表向きの方の仕事に戻っていたため、家にはいない。

 俺たち全員がダイニングテーブルの周囲に着席するなり隊長が口を開いた。

「白鷺くんは〈秋桜〉に残るって。烏くんが心配だから」

「ブラコンめ」

「烏は放っておきなさい。心配するだけ大損よ」

「いや~、でも」

 白鷺は困ったように微笑った。

「……何かあったとき、僕が〈秋桜〉にいた方がいいと思うんです」

「何かって、烏が龍神に目つけられたり?」

「烏は勝手に殺されておけばいいの」

 ……烏への当たりが強くないですか、涼子どの。

「烏くんが心配というのが一番ですね~。もし何かあっても、一人より二人の方が絶対いいと思うんです。僕にも表向きの仕事がありますし」

「だって。だから白鷺くんも居残り組ね」

「白鷺ー、烏のやつ、既に暴走してるからほどほどにブレーキかけておいてくれよぉ」

「そのために残るんですよ~。隊長の頼みもありますし……」

「頼み?」

 みんなの目が隊長に向く。隊長はなんだか不敵な笑みを見せた。

「ちょっとした保険だよ。効くかどうかは、僕と烏くん次第」

 ぽかんとしている俺たちをよそに、隊長は夕食の支度を始めてしまったのだった。

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