第34話

 □■□■□


 私の名前は、ミシェル・ライフォテール。

 濡闇ノ国の魔法使い。

 今、私は空を落ちている。

 いつか、幼い頃、ライフォテールの塔から落ちた時と同じ。

 ふわふわ、ふわふわと、私は空気を切り裂いて、バタバタと激しく波打つスカートを抑えて、空を見ている。

 ああ、なんて綺麗なんだろう。

 こんな、こんな深い青の空が、この世界にはあったんだ。

 それに、草原。

 本当に草原だ。緑の美しい草達が、地平線の彼方まで広がっている。

 空と大地が繋がっている。

 こんな世界があったんだ。

 私の故郷は、雨ばかり。

 私の故郷は、泥ばかり。

 私の故郷は、石ばかり。

 その他には、虫ばかり。

 ああ、なんて退屈なんだろうって、ずっと思ってた。

 何をするにも文句を言われて、何をするにも道具が足りなくて、窮屈で、窮屈で、窮屈で、窮屈で、仕方のない場所だった。

 雨に濡れるのも嫌い。

 塔に住む人々も嫌い。

 家族のみんなは、少しだけ好き。だけど嫌い。

 私が好きなのは、ただ一人だけだった。私の親友は、ただ一人だけだった。

 私に並び立てる者は、ただ一人だけだった。

 でも、今は違う。

 愛しい人。

 私を、あの濡れそぼる闇の国から出る切っ掛けをくれた人。

 違う世界の人。とてもとても、絵が上手く、素敵な人。

 私を怖れないでくれる人。私を守ってくれる人。

 今、私は満たされている。

 ノノもいる。オーベルもいる。そして、新しい世界が目の前にある。

 こんなに素晴らしいことはない。

 だから、だからこそ―――


 この幸福の邪魔はさせない。


 私は私の中にある魔力を引き出す。

 私という魔力の沼は、底なしの泥水を湛える。それを引き出して、地面にぶつければ、私の眼下に広がる草原が弾け飛ぶ。まるで、勢いよく引っ張ってしまったボタンのように。

 緑の美しい毛並みは千切れ、荒れ、茶褐色の肉がむき出しになる。土煙と、舞う草と、降り注ぐ石塊と、そして、突然の轟音に驚き振り向く、鎧姿の人達。

「こんにちは! とても素敵な空ね。ここは素敵なところだわ!」

「お、女…ッ!?」

「な、なんだ、お前は、一体どこからきた!?」

 私が挨拶をしても、鎧姿の人達は驚き戸惑うだけだった。

 そうね。そうよね。ちゃんと説明しなくっちゃ。

「私、今からオーベルのために戦うの。どうかよろしくね」

「え、あぁ!? 一体何を言ってやがる!?」

「お、おい、どうする…?」

「気が触れてんのかぁ? 気味が悪いぜ…」

 会話が通じていないわ。

 草原の国の人達は、あまり濡闇ノ国の言葉が通じないのかもしれない。オーベルだけが特別だったのかも知れない。

 私は、兵士たちの背後に、いくつもの木造りの模型が並んでいるのを見た。

 大きく縦に振られ、王城へ向けて石を投げつけていた。

 あの石がオーベルに当たったら危ない。

 私は魔力を伸ばす。

「えい」

 そして、まずは一つ握り潰した。

 なんて脆いのかしら。あまり良い木材を使っていないみたい。そうよね、近くに木々は多くないし。きっと古い材木を何度も繰り返し使っているのよ。

 そうでなければ、こんなにも脆い説明がつかない。

「えい」

 もう一つ握りつぶす。

 崩れ行く模型は、鎧姿の人達を巻き込みながら崩れ去る。

「と、投石機が…!?」

「崩れるぞー!!! 逃げろー!!!」

「な、なんだ!? 一体何が起こった!?」

「この女が妙な仕草をしたら崩れ始めたんだ!」

 まるで獣のように、皆が私を見る。

 殺意に満ちた瞳を私に向ける。

 では、始めましょう。

 私は礼儀に則り、ドレスの裾を摘んで上げて、決闘前の会釈をすると、滾る魔力を漲らせた。


□■□■□


 その瞬間、突然現れた女―――やけに肌が白く、爛々と血のように赤い目を滾らせる、金髪の若い女だ――を警戒していた兵士たちが、全て捻れ、血と内臓を吹き出しながら肉塊へ変わった。

 ピシャリと、生暖かい液体が顔にかかった兵士は、何が起こったのか理解できないまま、頬を打った何かに手をやる。

 それは誰かの目玉だった。

「あ、ああああああああぁぁぁぁッ!?」

 悲鳴が吹き上がる。

 しかし、その悲鳴もすぐに止む。

 悲鳴を上げていた者が次に血風へと変わり果てたからだ。

 一気に混乱が広がった。

 突然人間が、草か何かのようにねじ切られてしまったのだ。

 おまけに、それは突然空から落ちてきた不気味な女の仕業らしい。

 ここまで情報が出れば、多くの草原の国の兵士は一つの伝説に思い当たる。

 ”魔王”

 約200年ほど前、この地に現れた途方も無い力を持った魔人。

 かつて草原の国を蹂躙し、夥しい犠牲を払いながら英雄に討たれた魔王は、今は雨の止まぬ闇の世界で微睡みながら、いつか世界に再び混沌が満ちる時を待っているのだという。

 ああ、そうだ。

 今まさにそれが、目の前に現れたのだと、赤い瞳を輝かせ、微笑む少女を見た者たちは、誰しもそう確信し、そして多くのものが、物言わぬ肉塊へと生まれ変わっていった。


□■□■□


「………あら、大変」

 私は思わず口元に手をやり、考えてしまう。

「もう、飽きてしまったわ…」

 あ、そうだ。こんなに大きな草原があるのだから、どこかにキレイな模様の虫は隠れていないかしら?

 って、ダメダメ! 今はオーベル、オーベルのことが大事!

 愛しいオーベルとの家と、その家族を救いに来たんだから!

 飽きて他のことをしたらダメ! 彼に失礼だわ!

 けど、けど、どうしましょう。

 そう言えば、私、着の身着のままここへ来てしまった。

 考えてみれば、オーベルの家族が生きているのならば、オーベルに紹介されてしまうことになるでしょう。その時、こんな貧相なドレス姿では、あまりにも失礼になってしまうのではないかしら。なにせ、オーベルは本物の王子様。となれば、その家族は当然王様とお妃様であるからして、私のような汚れた湿地の国の生まれの者が、それなりの格好をしていたなら、あまり印象が良くないのでは?

「大変だわ…大変だわ…」

 私は頬を抑えて考え込んでしまう。

「そういえば、ノノはちゃんと新しいお洋服だったわ…。まさかあれが、キャストレードお兄様の言っていた勝負服…。ああ、なんてこと…!」

 ノノはちゃんと準備してきていた。

 さすがはノノだ。鼻が高い。

 でもいまはそうじゃない。ノノはちゃんとしてきたのに、私はちゃんとしていない。大変なことをしでかしてしまった!

 これじゃ”ノノと一緒にオーベルに娶ってもらえない”わ!

 今すぐにでも”門”のところへ戻りたい! けど、もう戦いは始めてしまったし、早くしないと、オーベルがどんどん危険になってしまうかもしれない。

 もう戻ることなんてできない…。

「うぅ、ううう…」

 どうして私は鈍臭いのかしら。

 何でも一人で出来ないのかしら。

 いいえ、いいえ、わかってる。全てノノがやってくれるから。ノノは私を想って、何でもしてくれる。私は何もしなくていい。そんな日々が長かったから。

 でも、それがようやくダメだと分かった。私がノノを頼っていたら、オーベルもノノを頼ってしまう。私が何も知らないから、私はオーベルを支えられなくなってしまう…。

 それではダメ。それではダメよ。

 化粧も、お茶の入れ方も、魔法も、何もかも、私も、出来るようにならないと!

 今からだって遅くはない。きっとオーベルは待っていてくれる。ノノもきっと教えてくれるから――…。


「あら?」


 ふと我に返った時、近くの兵士たちはいなくなっていた。

 周囲の8割の者が肉塊に成り果てて、緑の草地に赤い水たまりを作り、残り2割の兵士が逃げ出していた。

「あらら…?」

 仕方がない。

 ミシェルは歩き出す。

 このまま城壁に沿って進んでいけば、攻城兵器を全て壊せるだろうから。

「私も少しは考えているのよ?」

 ノノには敵わないかもしれないけど、私だって頑張っているんだから。

 オーベルに、良いところを見せなくっちゃ。

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