3章 濡闇ノ国ノ生活

第12話

 強い風と、それに交じる小雨が窓を叩く音で目を覚ます。

 まるで針のような細かい雨が降っているせいで、窓の外は白んでいた。暗い湿地の向こうに広がる景色はまるで見えず、世界にはこの塔しかないのではないか、なんてそんな妄想が広がる。

 いや、実際のところ、私にはこの塔しかない。

 この塔が、私の世界の全てだった。

 そんな私の世界の中に、今日は異物が転がっている。

 蹴飛ばして起こそうかと思ったが、寝癖で髪がもじゃもじゃになっている今の私の姿を見られるのは癪だ。身支度を整えてから蹴り起こそう。

 私は眠気で霞む視界の中を、フラフラと立ち泳ぎするように浴室へと向かった。

 毎日毎時毎分、あきれるほどの量を魔力炉が作ってくれるお湯を浴びて、寝癖と寝汗と、身体の底に溜まった冷たさを落とせば、それだけで上機嫌になる。後はお腹の中に朝食を詰め込めば完全な私が戻ってくるだろう。

 浴室を出ると、オーベルの奴が床に敷いた毛布から身を起こしていた。蹴り起こす必要はなくなったようだ。

 オーベルの頭にも、もじゃもじゃの寝癖がついていて、顔はむくんでおり、酷い顔をしている。

 私を見るなり、そんな自分の姿を恥じるように顔を真赤にして、顔を背けた。醜い姿を見られたくないという、そんな繊細な心が草原人にもあったのか。

「の、ノノ!」

「何? 朝から騒々しい声を出さないでよ。いい気分が台無しだわ」

「服を着ろ!」

 あ。

 ………。

 ………いい気分が台無しだ。

 


「忘れろ」

「ああ…」

 服を着た私は、とりあえずオーベルにそう言うと、オーベルも二つ返事する。

 奴は頭を抱えて何ともいい難い表情をしているが、本当にわかっているのか? もしこの醜態を塔の誰かに吹聴するようなら舌を引っこ抜いてやる。ミシェルに告げ口するようだったら目玉も引っこ抜いてやる。

 私は小さくも激しい熱量を伴った覚悟を胸に秘め、早くこの最悪の朝を忘れるためにも話を変える。

「それで、改めてこの塔の生活について説明しておこうと思うんだけど」

「そ、そうだな。教えてくれ」

「まず、オーベルさん――いや、面倒くさいわね。オーベル、お前はこの部屋から一人で出るな」

 色々癪だったので、もう敬称略だ。言葉遣いもラフにする。

「ああ、ボロが出るとまずいからな。ノノと行動を共にする。昨日みたいに過ごせばいいんだろ?」

「そうよ」

 昨日は、中層の調合師の元へ行ったり、ババ――師匠に休みの許可をもらったりするために、オーベルを連れ回した。ライフォテール魔法塔内部の案内を兼ねてだ。

「昨日も軽く触れたけど、今のお前は私と同郷で、魔物に家を壊されて困っていたところを私の慈悲で招かれた、という設定にしてあるわ。間違えないでね」

「わかった。他に何か気をつけることはあるか?」

「昨日と同じく、この部屋の外に出る時には、雨合羽とマスクを必ず着けておくように」

「大丈夫なのか? 初日ならともかく、今日も雨合羽姿じゃ変に思われないか?」

「オーベルが魔力酔いしやすい体質だっていうことは、昨日見かけた知り合い達には説明した。それに、この塔の内部の魔力濃度は、普通の村と比べれば高いのよ。ひょっとしたら他の塔よりも高いかもしれない。村暮らしだったやつが環境の変化から魔力酔いするのは不自然じゃない」

 なぜなら、私も塔へ来た時はそうだったから。

「なるほどな」

「それと、昨日は食事をここへ持ち込んだけど、今日は今から一緒に食べに行く。いつまでも食事を部屋に運んでいると、怪しまれかねないから」

「たしかにそうだな。配給品…だったか?」

「そうよ」

 この塔で暮らす使用人は、基本的には全員食堂で食事を摂る。

 決められた時間に食堂へ向かい、予め貰ってある配給品券を使ってその日に食べたい食事を選び、その場で食事をするのである。

 他の塔は知らないが、少なくともライフォテール魔法塔ではそれが常識となっている。部屋に食事を運んで食べるのは、病気や怪我をして動けない時に運んでもらうなど、特殊な場合だ。

 ただし、ミシェルを始め、この塔の魔法使い一家だけは特別で、専用のシェフが料理を作り、家族で食事を摂る。

一度だけミシェルに誘われたことがあったけれど、肩が凝るだけだった。料理は確かに美味しかったけど。

「けど、その配給品券というのを、俺は持ってないぞ」

「仕方ないから私のを使わせてあげる。貸しにしておくわ」

 こう見えても多少は蓄えがあるので問題ない。

「あまり期待してないけど、倍返ししてくれればいいから」

「………必ず返すさ」

 悪いが本当に期待してない。

 オーベルを元の国へ帰したら、もう二度と会うこともないだろうしな。

 さて、それでは出発するとしよう。そろそろ時間だ。

「雨合羽を着て。出発するわ」

「………」

「ん? どうした?」

「あ、いや、そういえばこの合羽って、ノノの合羽なんだよな?」

「そうだけど?」

「………」

「何故赤くなる…?」

 あ、ひょっとしてお前、いま私の裸のことを思い出したろ!?

 その妄想を止めないと舌も目玉も引っこ抜くぞ!?



 朝から余計なトラブルに巻き込まれたが(私は悪くない)、オーベルを伴って、私は上層の食堂へやってきた。

 今日は休日でもないし、時間が遅いので、食事をしている人は既にまばらだった。皆もう自分の仕事を始めている時間だろう。

 だからここに残っているのは、まだ仕事の時間ではない者達。

 そう例えば、夜警。夜の警備をする者達。

 そう例えば、運び屋。荷物の状況次第で出発時間は変わる。

 そう例えば―――


「やっほー! ノノー!」

 面倒なやつに絡まれた。

 私は配給品券で交換した今日の食事(紫芋のスープとパンとサラダ)をテーブルに置き、”いつもの顔”を作って、突如隣席に尻を滑り込ませてきた知り合いを見た。

「グリンジャ。何か用?」

「聞いたよー! ノノが男の子拾ってきたって! それってこの子だよね!? おはよー! 私はグリンジャ! よろしくね!」

「え、あ…ああ、よろしく。俺はオーベルだ」

 オーベルにも耳鳴りを催すような大声で挨拶する陽気な奴。彼女は私の知り合いの一人で、炉技師見習いのグリンジャだ。見習いとはいえ、彼女は夜の炉番を任されている炉技師筆頭見習いである。こんな喧しい性格でも炉のことになると真面目で、私はそこだけはこいつのことを評価していた。

「オーベルっていうのね! オーベルは今年でいくつ? 私はね、今年で210歳!」

「にひゃ…!?」

 私は咄嗟にオーベルの膝を蹴る。

「うっ…!」

 危ないところだった。

「グリンジャ。他人に妄りに年齢を訊くものじゃないわ。失礼よ」

「えぇ? だって、ノノの連れてきた子のこと知りたいもん!」

「……何故?」

「みんな気になってるよ! 私も気になってるし、オババ様だって! おっちゃんだって! だから、私に聞いとけって、皆言うんだよねぇ~! えへへ! 私、頼られちゃってる!」

 ババア…貴様…。

 まぁ、確かに、新入りがどんなやつなのか気になるのはわかる。責任者としては、安定したコミュニティにとって不和となりうる要因は早めに把握して対処しておきたいのだろうし。

 だから、ババアは、夜炉番で暇なこいつに情報収集を命じたということか。

「私と同い年よ」

 オーベルの年齢は知らないが、草原人ならば100歳も生きないだろう。明らかに私の方が年上だ。色々な都合を考えて、同い年ということにしておいた。

「わぁー! ほんとに!? わぁー! なるほどなぁ!」

 何故か眼を輝かせ始めるグリンジャ。

「もうこれって運命だよね! うんうん! 運命だ!」

「何が運命なの…?」

「同い年の男女が恋をすると、それは必ず実るからだよ!」

「あぁ…そういう…」

 根も葉もないジンクスだ。

 グリンジャはそういうのが好きなのだ。根拠のない噂や伝承、ジンクスを集めている。占いも大好物だ。

「残念だけど、私達はそういうのじゃないから」

「えぇーッ!!?」

 食堂重に響き渡るグリンジャの声音。今は食堂の利用者も少ないので、そう迷惑にはならないと思ったが、食堂にいる夜警のお兄さんやら配膳係のお姉さんやらが、驚愕の表情でこっちを見ている。迷惑だった、か…?

 私は静かに食事をしたいだけだったというのに…。

「ね、ね! オーベル君はどうなの!? ノノのこと好き!?」

「ぶっ!?」

 オーベルがスープを吹き出す。

「え、あ、あー…」

 おい、返事に気をつけろ。さらにこの厄介事を大きくするつもりか、と、私はオーベルに眼で訴える。

「み、魅力的な女性だとは思う。彼女のことはよい友人だと思ってるよ…」

 たっぷり時間をかけて、オーベルは無難な答えを絞り出した。いいぞ。悪くない。

「ふ―――――――ん」

 グリンジャは半眼になる。

「なるほどね。完全に理解した」

 一体何を理解したグリンジャ。おい、私を見ろ。

「うんうん、やっぱそうだよね。ノノってそうだもんね」

 ちゃんと説明して!?  私が一体何だって言うんだ!?

 グリンジャの態度にイラっとした私は、胸ぐらを掴んで振り回したい衝動に駆られるが、ギリギリのところで踏み止まる。落ち着け、そんなことをしたら食堂の迷惑になる…。

「がんばってねオーベル君! 私、君のこと応援してるわ!」

「あらら? 一体何を応援するのかしら?」

 ぐっと両拳を握るグリンジャが、背後からの声を聞いて凍りつく。

 私はその澄んだ声を耳にして胸が高鳴る。イライラしていた感情が溶けていく。

「み、ミシェルお嬢様、ご機嫌麗しゅう…」

 グリンジャは普段のオチャラケた表情を何処かへ捨て去り、慇懃無礼に自らの雇い主に挨拶してみせた。普段からそういう顔ができるなら、普段からそうして欲しい。

「おはよう、グリンジャ。おはよう、ノノ! おはよう、オーベル!!」

 太陽のような笑顔を振りまいて、全員に挨拶をしてくれるミシェル。まるで天使だ。天使とこんなところで出会うのは想定外だったけど、ここへ来てよかった。

「それで、皆で一体何のお話をしていたの? 応援ってなぁに?」

「い、いえ…その…」

 どうした、グリンジャ。顔色が悪いぞ。いつもの威勢はどうした?

 ミシェルの前だからって猫被ってるのか…?

「オーベル君は、まだこの塔の生活になれていないようですので、応援している…と、いうわけでして…」

「そうね。オーベルはまだ来たばかりだから、これからいっぱい、この塔のことを知ってもらいたいわ。グリンジャ、貴方もオーベルが困っていたなら助けてあげてね。オーベルは私の友人でもあるのだから」

「は、はい! お任せ下さいませ!」

「では、グリンジャ。オーベルとノノをお借りしても良いかしら? 少し用事があるのだけれど」

「え、ええ! もちろんです、ミシェルお嬢様!」

「ありがとう、グリンジャ」

 ミシェルはグリンジャに白百合のような微笑みを投げかけて、彼女の行動全てを封殺し、私に向き直る。

「では、お食事の途中で悪いけれど、ノノ。オーベル。来て下さる? 今すぐに」

 え、あれ?

 何故かよくわからないが、ミシェルから謎の圧を感じる。一体なんだろう…。

 私とオーベルは顔を見合わせて、名残惜しいが食事を食べきる前に、食堂を出ることになった。

 

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