第20話
「はぁ…」
「ノノ、そんなに溜息をつかないで。幸せが逃げてしまうわ」
この苦しみと悲しみと疲労感を少しでも解消するために、溜息の1つや2つは許して欲しい。
絵画が描き上がったので、私はようやく解放され、ミシェルと共に上層広場のベンチに腰掛けていた。時折行き交う塔の住人達と挨拶を交わしながら、天井に並ぶ魔法灯の瞬きを浴びて、隣に座る彼女の横顔を見つめる。
絵画のモデルは大変窮屈な時間だったが、いまこうしてミシェルと共に居られる時間は、報酬としては満足いくものだと感じた。
「けれど、お父様もお母様も、お兄様もお姉さまも、みんなみんな、オーベルの絵をとっても褒めていたわね! ふふ、出来上がった絵を取り合いしたりして、皆、小さな子供みたいだったわ!」
金持ちは皆、芸術品に目がないって聴いたことがあるけれど、本当だったとは思いもよらなかった。家族同士でも逸品の奪い合いって起こるんだな…。
「ふふ、ノノもついにオーベルの才能を認めたかしら?」
「………」
流石に、認めざる得ない。
オーベルが描いた絵を直接見ては居ないけれど、あの一家が取り合うような出来だ。羊皮紙の落書きではなく、ちゃんとキャンパスに描いた絵ならば、私がまともに描かれているのだろうか。
しかしそれならば、
「ミシェルも描いて欲しい」
「え?」
ミシェルがキョトンとする。
「だって、私ばかりモデルになるなんて、不公平よ」
「え、えへへ、私は――ずっと静かにしているのは、ちょっと苦手…だから…」
「私ばっかりに動くななんて、酷いと思わない?」
「ご、ごめんなさい、ノノ! でもほら、オーベルがとっても真剣に描いていたから…お手伝いしたくって!」
「むぅ」
納得いかない…。
ミシェル、ちょっとオーベルのことになると甘やかす傾向が強いと思う…。モヤモヤしてしまう。
「おまたせ、ノノ。ミシェル」
と、ミシェルと話している内に、オーベルが戻ってきた。
オーベルは先程使っていた絵画道具一式を抱えていた。キャンパス立ても背中に背負っている。
「オーベル、それは?」
「報酬の代わりに譲ってもらうことにしたんだ」
「まぁ! 素敵だわ! それがあればいつでもどこでも、絵を描けるわ!」
「ならやっぱり、オーベルにミシェルを描いてもらおう」
「ひゃう!?」
ミシェルが驚いて口を抑える。可愛い。
「それは絵描きへの依頼ってことでいいのか?」
「お前は居候。なら、私にそれくらいしてくれたっていいでしょ?」
「モデルさんは如何かな?」
オーベルはミシェルに振り向く。ミシェルはきょとんとした後、もじもじし始め、視線を泳がせる。可愛い。
「そ、それなら、ちょっとだけ…」
「だってさ、ノノ」
よっし! よくやった!
これでミシェルの絵が手に入れば、毎時毎分ミシェルを見て過ごせる。
私の生活も豊かになること間違いなしだ。
「…ふふ、ノノが嬉しそうだわ」
「ノノはきっと、ミシェルのことが好きなんだよ」
「私もノノの事が好きよ」
それは、ミシェルが親愛を表す最上級の言葉だった。ミシェルの思わぬ言葉に、私はドキリとして、動きを止めてしまう。胸の中が熱くなって、ごちゃごちゃと不器用に生きている今の全てが、報われた気持ちになる。
「でも、私は貴方のことも好きよ、オーベル」
「え?」
え?
「い、いや、ミシェル、俺のことは…」
「絵が描けるからじゃないのよ。オーベルは、私を守ってくれようとしてくれたわ。ノノも守ってくれるけど、オーベルも私を守ってくれる。だから、同じくらい二人のことが好きよ」
「………。そ、そうか。光栄だよ」
「ふふ」
ミシェルが満足そうな笑みを、オーベルに向けている。
だけど、私は、頭から冷たい泥水の中に落ちたような気分だった。
胸の中の熱い気持ちは、急に棘が生えたような痛みを生み、ジワジワと私の内側から焦がすようだった。
べ、別に、なんとも無いはずだ…。落ち着け、私。
オーベルとミシェルでは、立場も違う。種族も違う。住んでる場所も違う。
オーベルなんかが、ミシェルの眼鏡に適うなんて、そんなこと有り得ない。
有り得ない。
有り得ない。
有り得ない。
家族になろうと、ミシェルに言われるのは、私だけ。
野蛮で、脆弱な、草原人のお前なんかが―――
「ノノ? 大丈夫…?」
ミシェルが、私を心配そうに見つめる。
朱い瞳が、私を映している。
「ごめん、ミシェル。やっぱり、ちょっと疲れてしまったみたいだわ。慣れないことはするもんじゃないわね…」
「いえ、いいえ、私こそ、ノノが頑張ってるのに、囃し立ててしまって…」
「ミシェルは悪くないわ。じっとしてるのが気質に合わなかっただけよ」
私は、ミシェルの柔らかい髪に手を伸ばして、指先でそっと触れる。
「今日はこれで解散にしましょう。材料も沢山集まったし」
「ええ…。ノノもゆっくり休んでね」
「うん。ミシェルも」
私はベンチから立ち上がって、ミシェルに別れを告げる。そして、バカみたいに棒立ちになってるバカの腕を掴んだ
「行くわよ」
「え、あ、ああ」
半ば引き摺るように、オーベルを引っ張っていく。
背後にミシェルの視線を感じたけれど、振り返る事はできなかった。
唇を噛んで血が滲んでいるこんな顔を、ミシェルに見られるわけにはいかないから。
「お、おい、ノノ。どうしたんだ? 様子が変だぞ」
様子が変? 変だと?
誰のせいでこうなってると思ってる。
私は厄介事の塊であるこの愚図を今すぐ階下に放り投げて、全てを終わらせてしまいたい気持ちを押さえ、ゆっくりとオーベルの腕を離した。
「ごめん、痛かったかしら?」
腕をもぎ取らないように十分手加減したつもりだったが、脆弱な草原人にとっては激痛だったかもしれない。もしそうだったなら、そこは素直に謝罪する。
「いや、腕は大丈夫だ」
なら気遣う必要はないな。
「では食堂に寄って、夕食を食べましょう。それから部屋に戻って、今日は休むわ」
「………」
「どうしたの?」
「いや、その、元はと言えば俺が勝手にキャスレード卿に画家だと答えてしまったのが原因だから…。その、ミシェルのことは…」
「…はぁ」
私はため息を吐いた。幸せが逃げてしまう。
「ミシェルに対して怒ってるわけないわ」
そんなことは天地がひっくり返っても有り得ない。
「だったら、俺に対して怒りを感じているのか…?」
そうとも言える。
いや、どうなんだろうな…。わからない。
全ての元凶がオーベルであることは間違いない。ならばオーベルを殺してしまえば、全てが解決するのではないか? いいや、それでこいつを感情のままに殺すのは、話が違う。
そんなことをしても、ただミシェルを悲しませるだけだ。私が嫌われるだけだ。原因を排除するだけでは、何も終わらない。何も戻らない。
「お前はよくやったわよ。キャスレード卿も大喜びだったんでしょう? 私も、お前の職を問われた時、答えを持ってなかった。お前に特技があって助かったわ」
「なら何故、そんなに辛そうな顔をしてるんだ…」
「そんな顔してないわ」
私は”いつも通り”だ。”いつも通り”の顔だ。
悲しくもないし、辛くもない。何とも無い。
「ノノ、お前、ひょっとして―――」
オーベルの暗い瞳が私を映す。
「”悔しい”のか?」
その問いが、私の中の焔に油となって注がれた。
私の身体は理性を置き去りにして、その腕をオーベルの首へと伸ばす。
草原人に回避など不可能だろう。反射することさえ出来ない私の最高速だ。
首を折られたことさえ、気づかせないまま、即死させることができる。
けど、けど、私は…
脳裏に、ミシェルの笑顔が浮かぶ。
伸びかけた自身の腕を、私は残った腕を叩きつけてへし折った。折れた骨が肘から突き出し、同時に血が吹き出て階段を濡らす。逆方向に折れ曲がった腕が、ダランとオーベルの前に突き出された。
「……オーベル、言葉に気をつけて」
痛みが、苦しみが、私の煮え立った頭に効いてくる。言葉を発せられる程度には、心に帯びた熱が冷まされて、思考がクリアになっていく。
「の、ノノ…!? な、何してるんだ!? 腕…腕が…!」
「私、その気になれば、お前の首をへし折るのは簡単なの。今、ちょっと危なかったわ。本当に気をつけて。私が辛そうだろうと、苦しそうだろうと、悔しそうだろうと、お前には関係のないことよ。無事に自分の国へ帰りたいでしょ? それなら、私やミシェル、この塔の住人に、あまり深く関わらないことをお薦めするわ」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!? 治療しないと!」
「いいから、オーべル、見てなさい」
私の折れた腕は、急速に再生していく。肉を裂いて飛び出した骨は、ズルズルと腕の中へ戻っていくし、肉は溶け合うようにして繋がっていく。
オーベルにその様を、よく見せつける。
彼は言葉を失っていた。
「私達とお前達は違うの。だから、余計な気遣いは不要だし、お前が私達を理解する必要もない。そして、私はお前を理解する気なんてない」
お前が帰ってしまえば、それで終わり。それだけの関係。
「だから、余計なことをしないで、黙って言うことを訊いていて。それだけでいいのよ。それだけで五体満足で故郷に帰してあげられる」
「………」
私を揺さぶるな。
私の決意が鈍った時、かなりの確率でお前の命は無いのだから。
だから、できれば、そうさせないで欲しい。私のために。ミシェルのために。
「腕は、ほら、もう治ったわ。行きましょう」
腕の痛みが消えると共に、私の中の怒りも小さくなる。理性が保たれる。
私はオーベルから視線を外す。
さて、今日の夕飯は何を食べようか___
そう思考を巡らせようとした時、やや乱暴に肩を掴まれ、無理矢理振り向かされる。振り向いた私の逆の肩にもオーベルの手が乗った。逃さないつもりらしい。
「俺はッ!」
目の前に、オーベルの顔がある。鼻先が触れそうなほど近くに。
「俺は……ノノ、お前に嫌われたくないんだ」
「………」
「お前の負担になりたくない、お前を理解したい、上手くやっていきたい。そう、思ってるんだ…」
振り解くのはゲジを潰すよりも簡単だった。だけど、ゲジを潰した後のように面倒なことになりそうな気がした。
私の視線は、オーベルを見ていない。
その背後、恐らく夜勤の為に下層へ向かう途中だったのだろう少し離れた位置にいるグリンジャを見ている。口に両手を当てて「やべー瞬間を見ちゃったー!!!」なんて顔をしているグリンジャを、だ。
なんてタイミングだ。
ここでオーベルを振り解けば、今までの偽装が全て泡沫と化す。
私は視線をオーベルに戻した。
オーベルは真剣な表情で、私を見ていた。
「オーベル、それは無理だわ」
進退窮まった私は、”いつもの顔”を一瞬だけ、脱ぐことにした。
一度だけ、瞳を閉じて、深呼吸して―――…
「ノノ、それでも俺は__!」
オーベルの呼びかけに応じて、再び眼を開く。
私は
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