第7話

 正直に言えば正気を保つので精一杯だった。草原人風情がミシェルの肌に触れるなど、あってはならない事だ…。

 しかし、しかし、私は怒りのあまり牙を剥き出しにするような顔になったりはしない。いつも通り、いつも通りの表情を保ち、オーベルの手に触れたまま離れようとしないミシェルを引き剥がす。

「では」

 引き剥がしつつ、話を続けよう。

「話もまとまったのなら出発しましょう。もし魔力炉が全く使えないのであれば、オーベルさんを元の場所へすぐに帰すということも難しくなってしまうから」

「そうなってないことを祈るよ」

 ああ、祈れ祈れ。私も祈る。

 ミシェルは何故か不満そうな顔をしていたが、私はオーベルを立たせて魔法使いの部屋を出る。

「魔力炉は下層。結構降りるわよ。脚を踏み外さないように気をつけて。まだ足元が覚束ないようだったら__」

 私は部屋の前に待たせておいた灰色の羽鎧虫を指す。

「こいつに乗っていく?」

「何だ…そいつは…?」

 オーベルは引け腰だった。

「羽鎧虫よ。この国の乗り物なの!」

 私が喋ろうとしたところに、ミシェルが割り込んでくる。

「それ、魔物じゃないのか…?」

「魔物…?」

「そうね。魔物よ」

 ミシェルが小首を傾げるので、私が代わりに答えた。

「もう! ノノばっかりずるいわ! 私もオーベルに色々教えてあげたいのに!」

「知らないことは教えられないでしょ…」

「ノノは物知り過ぎるのよ!」

「えぇ…」

 どうして物知りであることを責められなきゃならないんだ…。

「お前達は、魔物を飼ってるのか…?」

 オーベルは羽鎧虫にアンニョイな視線を向けつつ尋ねる。

「湿地を飛び越えるのに必要だからね。それに、こいつは草食よ。人を襲うことはない大人しい魔物」

 襲われることがあるとすれば、繁殖期に不用意にメスに近づいてしまった場合か。怒り狂ったオスの群れに追い回される羽目になる。

「他にも、丸石虫っていう虫もいるのよ?」

 ミシェルがしたり顔で私の説明に続いた。

 羽鎧虫が空路だとすれば、丸石虫は陸路の足だ。

 丸石虫はその名の通り、丸い楕円形の石に似た姿をしており、そこから長い足が沢山生えている。泥濘んだ湿地を人の足で歩くのは困難を極めるため、この長い足で安定して湿地を歩ける丸石虫が重宝される場合がある。

 湿地で育つ植物や、動物を採集しに向かう場合、空から羽鎧虫を使うと、降り立ったその勢いで羽鎧虫の身体は湿地に沈み込み、飛び立てなくなってしまう。着陸に制限が掛かる以上、飛翔能力にやや不安の残る羽鎧虫を多用することは難しい。

 対して丸石虫はその足で上手く姿勢を保つことができるし、足に細かく生えている毛のおかげで湿地の泥濘に沈むことがない。

 ちなみに、丸石虫は見た目が完全に虫なので、私はあまり好きではない。

「な、何だか俺の想像の及ばない場所だな…。それに、この音…」

 オーベルは耳を立てた。塔の厚い石壁を抜けて、空から叩きつけられる雨粒の音が幾重にも重なって聞こえてくる。

「雨の音…だよな? 大雨のようだが、大丈夫なのか?」

「この程度は日常茶飯事よ。1年の半分は雨なんですもの」

 その雨が、広大な湿地を形成している。

 しかもただの雨ではない。魔力を膨大に含んだ雨だった。魔法使いたちの扱う力の源が、常に空から降り続いているのだ。

 何故空から魔力を含んだ水が雨となって降ってくるのか、それは王様だけが知っているらしい。

「洪水にはならないのか?」

「時々なるわ! 楽しいわ!」

「楽しい…のか…?」

「楽しくはない」

 私は流石に真顔で告げた。

「えぇ? ノノ、ほら、だって、下層が水浸しになって、泳ぐことが出来るじゃない」

「ゲジが水から逃げるために大量に塔を登ってくるのよ。最悪だわ…」

「ノノは本当にゲジが嫌いなんだから! あんなに可愛いのに、どうしてかしら?」

 私の親友の理解できない所、その一。あの醜悪な生き物の事が好きなところ。

「あー、すまない。そのゲジというのは何だ?」

「ああ、ごめんなさい、オーベル! ゲジっていうのはね__」

「こいつのことだ」

 私は階段の端から触手を伸ばしていたゲジに目掛けて斧を振り下ろした。

 ゲジは頭部を砕かれ絶命し、不快な粘液を零す。斧を持ち上げると、ぬちゃぁ、と糸を引いた。ゲジの身体は階段の端にくっついたままだ。粘液に粘着性があるので、壁で潰すと中々汚れが落ちない。掃除が大変な所以だ。

「あぁ! なんてことするの!? ノノ! 生き物を大切にしなさい!」

「ゲジは生き物じゃないよ、ミシェル」

「もう! ゲジに失礼だわ!」

 ミシェルのお説教を聞き流しつつオーベルを見れば、彼は顔をひきつらせて固まっている。気持ちはわかる。

「こ、これがゲジ…? 俺はてっきり、虫か何かだと思ったんだが…」

「オーベル、ゲジはちゃんとした虫よ」

 ミシェルが頬を膨らませて言う。

「む、虫なのか、これ…?」

 オーベルは短刀でゲジの死骸を小突いた。ゲジの死骸はゆっくりと階下へ落下していく。

「細かい足の生えた___黒い内臓…に、見えるが…。目も口もなさそうだし…。何を食べてるんだ…?」

「……何を食べてるのでしょう?」

「ミシェル、食べるものもわかってないのに部屋で飼ってるの…?」

「ちゃ、ちゃんと大きくなってるわ! きっと自分で食べ物を確保しているのよ、ゲジは賢い生き物だわ!」

 まさか、部屋の中に放し飼いにしてたりしないよね…? 一抹の不安が私の脳裏を過ぎった。

 

 こうして私達は、時折現れるゲジを叩き潰しつつ(その度にミシェルのお説教を聞きつつ)、塔の下層へと降り立った。

 流石に長い階段を下るのは草原人であるオーベルには厳しかったようで、途中で休もうと提案してきたため、半ば無理矢理に羽鎧虫に載せて、ここまで降りてきた。

 乗ってる間にオーベルと羽鎧虫は和解できたようで、今では畏れることなく羽鎧虫の手綱を握っている。

「よ、ほ…」

「上手いわ、オーベル! 騎手の才能があるわ!」

「馬みたいなものだと思えば、可愛く見えてくるな」

 それはわかる。言うことをちゃんと聞いてくれると愛着が湧くよね。

「馬…?」

 今度はミシェルが質問する番のようだ。

「馬っていうのは草原の国での乗り物にしている生き物よ」

 だがオーベルには答えさせない。私が答える。

「どんな形をしているのかしら?」

「四本脚で茶色い。物凄く早く走る、らしい」

 しかし実は本物を私も見たことがない。

「この国に馬は居ないのか?」

 今度はオーベルの質問だ。ミシェルには答えさせない。私が答える。

「国境近くまで行けば乾いた場所に生息してるらしいけど、この近くには居ないわね。湿地を渡れなきゃ魔物のエサになるだけだもの」

「厳しい土地なんだな…」

「そうかもね。でも水だけはあるわよ。草原の国じゃ、逆に水は貴重なんでしょ?」

「貴重という程でもないが、何処にでもあるわけじゃないな。子供が親から最初に習うことの一つは、川や泉の場所なんだ」

「もーっ!」

 急にミシェルが吠えた。

「ノノばっかりオーベルとお話していてずるいわ! 私もオーベルとお話したいのに!」」

 別に私はこいつと話をしたいわけでは無い。ミシェルと会話して欲しくないだけなんだ。

「えっと、その__すまない、ミシェル嬢。俺はこの国についてわからないことだらけで、詳しい人に色々訊いてしまって…」

 オーベルが下手くそな言い訳をするので私が口を開こうとするが、ミシェルが人差し指を私の唇に押し付けてくる。「しー!」の合図だ。ミシェルの柔らかい指が私の唇に触れて、私は喋れなくなった。

「私も詳しくてよ、オーベル。ノノではなく、私に色々訊いて頂戴」

「あ、ああ、ミシェル嬢も頼らせてもらうよ」

「ふふっ」

 そしてすぐに機嫌を直すミシェル。

 私はミシェルの指の感触の残る唇を手で覆いつつ、不自然に思われぬよう先を急いだ。


 

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