再生と命の歌
光の洪水とともに雛乃の頭に流れ込んだのは、ヴィンの、いや雛乃が好きになった命を喰う存在の記憶だった。
最初はなにも感情を持たない、命を喰うだけの存在。それが命を喰い、それらの感情を知り、模倣し学ぶことで自らも感情を得ていく過程。
愛情を得てからの苦しみ。それらが一瞬にして雛乃の記憶に叩き込まれた。
同時に、雛乃とヴィンを押し潰そうとしていた圧力が光の洪水の中に消え失せる。
「ヴィン‼︎」
光を発しているのはヴィンの身体。その身体に絡み付いていた鳥喰草も黄金に輝き、細かな光の粒子へと姿を変え、波となり放射状に広がっていく。
そしてその光が走った場所から、鳥が飛び立った。島に緑が芽吹き、一斉に育ち花を咲かせて行く。枯れた川に水がわき出し流れを作る。
歓喜に揺れる鳥たちの声が響き、歌っている。
目に見えるどの島でも鳥喰草は光と消え、かわりに鮮やかな緑の息吹が巻き上がっていた。
「なにこれ、どうなってるの⁉︎」
「鳥たちが……楽園が、再生していく……?」
鳥喰草から解放され、光を発し続けるヴィンの身体が雛乃を抱き寄せた。その光が、熱が雛乃のなにもかもを浄化するかのように癒していく。
ヴィンから発せられる光は、遥か彼方まで走っている。その光がそれまで薄暗かった空を照らし、闇を払い清涼な青を出現させていく。
「ヴィン……‼︎」
「俺は、ヴィンじゃないんだ、ヒナ」
「わたしが知ってるヴィンはあなただけよ」
もう一度口づけた。雛乃がそうしたいのが誰なのか、それを刻みつけるように。
今見えている肉体が、かつて生きていた力を持つ鳥ヴィンの姿だというのは記憶を見てわかっている。だが雛乃が出会ったのは、彼じゃない。雛乃が出会ったヴィンは、今目の前にいる命。
かつて生きていたヴィンが喰われてしまったことを正当化は出来ない。それでも、雛乃が愛しいと思ったのはその命を喰った紛いものの鳥であるヴィンだ。楽園を愛する心を持つ優しい命だ。
ヴィンの手が優しく雛乃の髪をなでる。その感触に胸がいっぱいになりなにも言葉が紡げない。
おそるおそる雛乃へ触れた唇は、やがてその熱を増した。気持ちをあふれさせるように、徐々に早まる呼吸に合わせて唇が触れ合う。
「ヒナ、帰ろう。楽園は再生される。果ての裂け目も閉じる」
「え?」
「ヒナは元の場所に帰るんだ」
「いや‼︎ ヴィンの側にいたいの、だから帰ってきたの‼︎」
雛乃に対する全ての善意を、犠牲を、期待を無駄にしてもそうしたかったのだ。それは綺麗な感情などではない。それが雛乃が心から望んだ、大切な想いだ。
「俺のこの姿は消える。この身体は、命は楽園に還す」
「うそ……」
「楽園は再生する。そこに俺やヒナの居場所はない。ここに居続ければ、異物として存在が消去されてしまう。だからヒナ」
雛乃を抱きしめる腕に力がこもる。
「俺を連れて行ってくれ。楽園の外に、お前の生きる場所に」
その言葉に、胸がいっぱいになり知らず涙が一粒こぼれた。
かつて生きていた鳥ヴィンの身体は、命は楽園に還す。だから、雛乃が知るこの姿は消えることになるのだ。
しかし、元々の彼の命は残る。それは雛乃と同じように楽園の命ではない。
ここから出られるのだ。
「一緒に?」
「ああ」
「会える?」
「すぐとはいかないかもしれないが約束する、どんなに時間がかかっても必ずお前を見つけ出す」
「うん」
向こうでヴィンがどんな姿になるのか、雛乃には全く想像も出来ない。それでも、彼が共に来てくれる、それだけで心が熱くなる。
もしかしたら、本当に鳥になってしまうのかもしれない。それでも、きっと会えばわかる気がした。
彼に分けてもらった命は、まだ雛乃の胸にある。この温もりを忘れたりしない。
そっと手を握ったヴィンが立ち上がり、雛乃を優しく促し立ち上がらせる。顔を上げると、呆然と辺りを見回す三人の鳥の姿があった。血まみれになっていたはずのナツの身体からは、綺麗に傷が消えている。
「そうか……ヴィン、君はそういう……」
ひとりごちるようにつぶやいたナツが、ヴィンを見つめる。その表情から、彼が雛乃同様にヴィンの記憶を見たのだということがわかる。おそらく、ドゥードゥもナギもそうなのだろう。
ナギはその大きな瞳をさらに大きくして涙を浮かべている。
「ヴィン、行っちゃうの?」
「ああ。俺は楽園をめちゃくちゃにした。罪なき命を奪い、みんなを欺きながら崩壊させようとした。いくら謝っても無駄だが、本当にすまなかった」
ナギの両目から涙があふれた。ドゥードゥがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。その表情は険しい。
金の瞳が揺れた。
「ヴィン、君はたくさんの罪なき命を喰った」
「ああ」
「君の意思に反していたことは見ていればわかったけど、だからって許せることじゃない」
黙って頷くヴィンの瞳が悲しみをたたえて沈む。
「だけどその片棒を担いだのは僕だ。気づいていたのに止めてやれなかった」
「俺たちもそうだ」
ナツが頷き、ナギはなにも言えずに涙を流す。
彼らがともに過ごした時間は、雛乃には想像も出来ない。それでも四人の絆に胸が痛んだ。
ずっと欺き続けたヴィンと、ずっと愛する友を手にかけることをためらった力を持つ鳥たち。どちらが辛かったかなんて、そんな物差しで測れるような感情ではないだろう。
「僕はね、ヴィンのことが大好きなんだよ。だから、許せないのに憎めないんだ。僕たちは今の君しか知らない。今の君だから迷っていた。君の心は、楽園を愛する気持ちは知っていたよ」
「ドゥードゥ、すまない。ありがとう」
ドゥードゥの顔が歪んだ。涙がとめどなくあふれ出し、その両腕がヴィンを強く抱き締める。
彼はなにかを言いかけ、それは結局音にならなかった。
その身体が離れた時、そこにあったのは涙で濡れた、それでも優しいドゥードゥの笑み。
「ヒナちゃん、元気で」
「ありがとう。ドゥードゥも」
「うん」
なにかか吹っ切れたようなドゥードゥのほほ笑みに、雛乃も笑みを返す。
「ヴィン、ヒナ。色々、ごめんなさい」
ナギが腕を広げ、雛乃とヴィンを同時に抱き締める。その漆黒の翼が広がり、ナギの感情を代弁するかの様に震えた。
ナギの側にやってきたナツが、その髪をなでる。それに促されるように、ナギは身体を離した。
「幸せにね」
「ありがとう、ナギ。あなたも」
頷いたナギは、ナツと共に数歩離れた。ナツが慰めるように妹の頭を抱き、こちらに頷きを返してくれる。その表情は、初めて会った頃と同じ優しい顔だ。
ヴィンの身体の輝きが増していく。それと比例する様に、身体の輪郭が薄くなる。
「行くぞ」
「うん」
差し出された手を取る。ふわりと身体が浮かんだ。
これで、力を持つ鳥たちとも、楽園とも永遠の別れになる。だからこそ、雛乃は泣きそうになるのを必死でこらえた。
島の上の三人に大きく手をふり、笑顔を向ける。
「ドゥードゥ、ナツ、ナギ‼︎ ありがとう、さようなら‼︎」
にっこりとほほ笑んだドゥードゥが、ひらひらと手をふった。ナギが泣きながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて両手を大きくふる。ナツは瞳を細めて口角を上げた。
それを見届けて、ヴィンの翼が大きく羽ばたく。あっという間に三人の姿は遠くなり、雛乃の周囲は青に包まれた。
本当はもっとゆっくり話したかった。たくさん交流して、楽園での生活を共有して、そうすれば良い友になれたのかもしれない。ヴィンと彼らのように。
みんなでピクニックだってしてみたかった。今度はなんのしがらみもなく。
緑が再生し、鳥たちが集う。歓喜の声があふれて行く。蘇る美しい楽園を、雛乃は見届けることが出来ない。楽園の命ではない雛乃とヴィンに、それは許されていないのだ。
それでもいい。この熱と共にあれるのならば。
鳥たちの群れを追い越す。あっという間に島は後ろへと流れ行く。それはこれまでとは段違いのスピードだ。
景色をゆっくり眺めることは出来ない。
手を引くヴィンの姿が、よりいっそう薄れていく。
「ヴィン……‼︎」
「心配いらない。俺はヒナの翼になる。鳥の身体では外へ出られないしな」
一瞬ふり返ったヴィンが、その瞳を細めてほほ笑んだ。それになにかを言う暇もなく、その身体が溶ける様に消えた。それと同時に繋いでいた手からヴィンの熱が流れこみ、それが背中に集中していく。
皮膚が焼けるかのような熱が背中を突き破り、輝く翼が力強く羽ばたいた。
––––––飛べ、ヒナ。
「うん……‼︎」
光の翼から流れこむ熱が雛乃の身体を包んでいく。それは、ヴィンが抱きしめてくれているような心地を雛乃に与えた。
いや、ヴィンは形が変わっただけで、きっと抱きしめてくれているのだ。そう思うと喜びが胸の中を駆け巡り、気分が高揚していくのが自分でもはっきりとわかった。
ヴィンと一つになっている。それが背筋を震わせるほど嬉しい。
無事に帰ったとして、またヴィンに会えるのか、その時ヴィンの姿はどうなっているのかわからない。それでも、不思議と不安はなかった。
この熱を忘れたりなんかしない。雛乃と一つに混じり合ったこの熱を。
遠くの空に亀裂が入っているのが見えてくる。あれが楽園の果て。ここからの唯一の出口。
「ヴィン、あの亀裂……‼︎」
その亀裂はゆっくりと、しかし確実に小さくなり始めていた。その穴がだんだんと閉じていく。
あの亀裂が完全に閉じれば、楽園は再び美しく蘇る。そしてそこに雛乃とヴィンの場所はない。
雛乃の身体がスピードを増し、閉じていく亀裂に真っ直ぐに突っ込む。なにもない真っ暗な空間から振り返ると、閉じていく亀裂の向こうに青空が見えた。
「さようなら……!」
その青を隠すように、亀裂は跡形もなく閉じた。そこには暗闇がひろがるばかりとなる。
楽園は閉じた。閉じた世界の中で、きっと元の美しさへと再生していくのだろう。
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