巡る命の旅
雛乃の感覚に、知っているものの気配が流れ込んでくる。肉眼で見えるわけではない。それでもはっきりと帰る方向が視えた。
光の翼が力強く羽ばたく。それと同時に、光の粒子が舞う。はっとしてふり返ると、羽根が一枚消えていくところだった。そのことに驚いて悲鳴を上げてしまう。
背中の翼はヴィンだ。ヴィンの命だ。それは有限のもの。
「ヴィン‼︎」
––––––大丈夫だ、心配するな。
ヴィンが少し苦笑した気配がした。それは、本当に大丈夫だと思わせるものがあったが、それでも確かめずにはいられない。
ヴィンと一緒に帰れなければ意味がない。一人で帰るために楽園へ戻ったのではないのだ。
––––––約束する、どんなに時間がかかっても必ずお前を見つけ出す。
それは楽園でも言ってくれた言葉。その約束が守られるためには、ヴィンも雛乃と一緒に帰りつかなければならない。
きっと大丈夫なのだろう。翼から流れこむ熱にも嘘は感じられない。
「信じていいの?」
––––––ああ、もちろんだ。
「時間がかかるの?」
––––––わからない。時間は意味を持たないが、それゆえに予測が出来ないからな。
翼が羽ばたく。そこから流れる熱が、雛乃を抱きしめる。
––––––だが約束は必ず守る。ヒナを見つける。絶対に。
「うん……」
––––––だから生きていてくれ。それまで、ヒナの命を光らせていてくれないか。
「うん、わかった。わたし、頑張ってみる」
帰っても雛乃に待っているのは白血病の身体だ。おそらく辛い治療だって受けなければいけないのだ。向こうで今自分がどうなっているのかはわからないが、魔法のように病が治るなんてことにはなっていないだろう。
それでもヴィンとまた再会するために、生きなければ。
「ねえヴィン、わたし、あなたが好き」
––––––そうか。
翼が震えた。雛乃を抱擁する熱に、心臓が早鐘を打つ。
それでも気持ちがあふれて止まらない。恥ずかしさよりも、伝えたい気持ちの方が大きい。
「ヴィンはこの世のものじゃないみたいに綺麗で、完璧で、手を繋げただけでラッキーだったって思えるほどだった、でもね」
二人で手を繋いで飛んだ楽園の景色が浮かぶ。その手の熱を、雛乃を安心させてくれるようにずっと繋いでいてくれた優しさを。
そのぬくもりは、ヴィンの外見が与えてくれたものではない。
「でもヴィンに惹かれたのはそこじゃないの。飛んでない時も、ずっと手を繋いでいてくれたよね。ずっと側にいてくれたよね。見ず知らずのわたしに生きて欲しいって思ってくれたよね。本当に、ありがとう」
ヴィンが笑った気配がした。
背中でまた一枚、羽根が光の粒子になって消えていく。
––––––いいんだ、俺がそうしたかったんだ。
胸がきゅっと締め付けられるように疼いた。ヴィンがキスをしてくれた時も、そう言っていた。けれど、その言葉がどういう意味を持つのか、まだ雛乃は聞けないでいる。
ヴィンの記憶を雛乃は確かに見た。だからお互いの気持ちは同じだと、通じ合っていると知ってしまった。それでも直接聞きたいと願ってしまう。
––––––なぜなのかなんて、わからない。ただ、俺はお前を守らなければと思った。ヒナがどうしようもなく、愛しく感じた。
「ヴィン、それって……」
––––––ヒナを愛している。どうしようもなく。
胸が高鳴り、あっという間にその熱が喉元を駆け上がる。それはのどを通り過ぎ、涙となってあふれ出した。
嬉しいという一言では到底表せない感情の渦が身体を巡る。しかしその感情を言い表せる語彙を雛乃は見つけられそうになかった。
ただただ、悲しみや切なささえ内包した狂おしいほどの歓喜が胸に押し寄せてくる。
––––––ヒナの人生はヒナのものだ。俺のために無駄にしないで欲しい。それなのに、ヒナを縛るような約束をしてしまうくらいには、離したくない。
出会うまでにどれくらいの時間が必要なのか、ヴィンにもわからないのだ。もしかしたら、出会った頃には雛乃はおばあちゃんになってしまっているかもしれない。そう思うと、約束は雛乃の足枷になるとヴィンは思っているのだろう。
「あはは、嬉しいな。それにもう、手遅れだよヴィン。ヴィンこそいいの? わたし、おばあちゃんになってるかもよ?」
––––––愚問だな、姿形の向こうに見える光がヒナだ。それは変わらない。
「うん」
––––––だが人生はお前の自由だ。好きなように生きろ。好きなように愛していい。縛られるな。俺は必ずヒナと出会う。どんな形でも。形に囚われずに、ヒナの愛を惜しまないでくれ。
形に囚われずに。
そうだヴィンは今肉体がない。地球風に言えば、魂の状態。しかし雛乃と出会うためには肉体が必要なのだ。
ヴィンはこれから地球に生まれるのだろう。とすれば雛乃とは年齢がかなり離れることになる。姿形は関係ないと言いつつ、大人の姿を想像していたのでは会えるものも会えない。
もしかしたら、他人として出会うのではないのかもしれない。むしろその可能性の方が、ずっと大きい。ヴィンがこれから地球に生まれるのならば。
いや、そもそも人ですらないのかもしれないではないか。
先入観は捨てよう。ヴィンからもらったこの大切な気持ちを、手の届く人たちに分けながら再会を待とう。
「わたしヴィンを待つわ。でも、覚えておくわね。もし、誰かに愛を与えたくなったら、そうする、かもしれない。でも、ずっと待ってるから……」
ヴィンが頷いた気配。その気配はゆるくほほ笑んでいる。
––––––あんまり待たせないよう努力はする。
まるで拗ねた男の子みたいな憮然とした調子で言われたその台詞に、つい吹き出してしまう。
早く会えたらいい。だけどどんなに時間がかかっても、絶対にヴィンは雛乃の元へと来てくれる。そのことに疑いはない。信じられるから、待つのも苦ではないだろう。
どこまでも続く暗闇。だけど怖くはない。雛乃には帰る方向がはっきりと感じられるし、ヴィンが一緒なのだから。
手を繋ぐよりも近くにいて、雛乃を抱きしめてくれている。
やがて、雛乃の瞳に一点の小さな光が見え始めた。
––––––ヒナ、あの光が見えるか?
「うん、見える。あれって……」
どんどん近づくその光は、楽園の空と同じ色に輝いている。暗闇の中にたった一つだけ光る宝石のような輝き。いや、どんな宝石よりも美しい。
遠目からでもわかる。あそこが雛乃が帰るべき場所。地上の楽園、地球だ。
地球から雛乃を呼ぶ声が聞こえる。
––––––美しいな。
ヴィンのため息のような感嘆の声。
それにほほ笑みで返し、雛乃は翼を止めた。
記憶が蘇る。雛乃はここから外へ出たのだ。どうしてもそうしなければならない気がしたから。
「ヴィン、入れる……?」
楽園に果てがあったように、地球を中心にしたあの世界にも果てがある。それがここだ。見えなくともその壁は存在していて、世界を守っている。
雛乃は裂け目から楽園に入ることが出来た。それならヴィンだって、穴さえ開けば地球へ行くことができるはず。
––––––得意分野だ。
ヴィンの笑った気配。そして背中に熱が走り、驚くほど多くの羽根が光の粒子へと変わった。その光景に驚いている間も無く、光の粒子は前方に吸い込まれるように流れ、見えない壁にぶつかる。
壁を伝い放射状に光が走り、幾何学模様を描いた。その中心が黒くなり、それが広がって行く。半分ほどの大きさになった翼が力強く羽ばたき、あっという間にその中心に開いた穴を通り抜けた。
ふり返って、絶句した。
通り抜けた穴はまた幾何学模様に覆われ、光が薄れてそれも消え行く。そこに現れたのは闇ではなかった。
はるか彼方まで美しく輝く、幾千、幾億の星。見渡す限りに満天の星空が続いている。その光景に胸が熱くなった。
雛乃が地上から見上げていた星空を、今はヴィンと一緒に飛んでいる。この世界の中からしか見られない光景を、一緒に見ているのだ。
––––––ヒナの世界も、楽園なんだな。
「うん……」
楽園に比べれば、あまりに醜い世界かもしれない。人は争い、自然を壊し、多かれ少なかれ負の感情を撒き散らす。
そんな中でも人々は愛し、自然を愛で、優しさを分け与える。そうして心に楽園を作ろうともがいている。
病気だってする。雛乃が治療のために選んだ道は、あまりに苦しかった。死んだ方がマシだと思うくらいに。逆に言えば、そのマシな選択をしたくなくて懸命に命を燃やしていたのだ。
もしまだ生きられるのなら、頑張ってみよう。ヴィンと地上の楽園で出会うために。
地球へと向き直る。満天の星の中にあっても、その青い輝きは見間違うことなどない。
羽ばたく翼の力が増していく。まるで地球の方が近づいてくるかのような錯覚を覚えるほどに速く星々の間を翔け抜ける。
きらきらと輝きながら羽が光の粒子へと変わっていく。視界いっぱいに青い大気が広がった。
––––––行こう、ヒナ。ともに生きるために。
「うん! わたし、頑張ってみる。ヴィンと生きるために」
意識が地球へと引っ張られる。吸い込まれる。
「ヴィン、約束よ!」
––––––ああ。約束だ。必ずヒナを見つける。だから、待っていてくれ。
胸が熱くなる。翼から流れこむ熱が雛乃を抱きしめ、そのまま大気へと飛び込む。懐かしい匂い。雛乃が生きていた世界の色。
白い雲が空に彩りを与え、それが切れると見たことのある街の風景が飛び込んでくる。その中の一つの、白くて四角い建物。その内部。ベッドに寝かされているあれは。
––––––生きろ、ヒナ。
青白い顔で、それでも呼吸をしているその姿に手を伸ばす。触れたと思った瞬間に、背中の翼が光の粒子となって全て空気にとけた。
「ヴィン‼︎」
それは声になったのかどうか。
急に体が鉛でも付けたかのように重くなり、視界が暗転した。
––––––オカエリ、ヒナ。オカエリ……。
どこかで声がする。雛乃の帰りを待っていた声が。
瞳をゆっくりと開く。さほど明るくはなさそうだったが、それでも長い間閉じていた目に室内の明かりはまぶしく涙が浮かぶ。
白くて無機質な天井。
(わたし、帰って来たんだ……ヴィン、ヴィンも一緒に、来たのよね?)
もう答える声はない。ただ胸に抱いた熱だけが冷めずに雛乃の身体をあたため続けている。
その熱を信じるしかない。確かに約束したのだから。一緒に生きると。
女性の驚いたような声がどこかでした。それが帰ってきたことをより実感させる。
もう飛べない。元気に動き回ることも今は出来ない。身体が重い。それでもわかることは、今生きているということ。
(わたし頑張ってみる。だからヴィン、必ず、いつか)
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