最後の熱
「し、信じられない……ッ」
雛乃に寄りかかるようにして力を抜いたナギの声が震えた。いや、声だけではない。その手や身体は、小刻みに震えている。
雛乃を守るように覆っていた漆黒の翼がナギの背に畳まれて視界が戻る。
前方には地面を手で掻くヴィンの姿。ヴィンもまだ無事だ。でも、苦しんでいる。
「どういうつもり?」
背後で響いたドゥードゥの声。ふり返ったそこには、膝を地面に付いて羽毛を赤く染めたナツの後ろ姿があり、思わず悲鳴を上げてしまう。
どうしてナツとナギが? まさかドゥードゥの力から守ってくれたのだろうか。なぜ。
ドゥードゥへと視線を向けると、なんの表情も浮かべていない。まるで感情を削ぎ落としたみたいなその無表情に震えが走る。
「ナツ……! なんでここに。あの時……」
「ヒナに目印を付けたからね。あれくらいで俺がやられるわけないだろ」
ナツの背が苦しげに上下する。
目印、そう言われてはっとする。ナツが放った光の矢に太腿を刺されたのだ。激痛だったが、すぐに矢は消えて痛みもひいた。あれはヴィンの命が癒してくれたのだと思っていたが、違ったのだ。本当は、ナツの力を入れられ、後をつけられるようにされていたのだ。
「……だからドゥードゥを敵に回すのは嫌なんだ。ヒナごとヴィンを吹き飛ばそうとするなんて正気の沙汰とは思えないよ」
そう言ったナツが咳き込み、地面に新たな血が染みを作ったのが雛乃の位置からでも見えた。そのことに動揺し、のどから空気がもれる。
なぜかはわからない、しかし状況からしてナツとナギが身を挺して雛乃を守ってくれたのは明らかだ。
「君たちには言われたくないな」
「う、うるさいわね、あたしたちはヒナを殺そうなんてッ……はなから思ってないわよ‼︎」
小刻みに震えながらもナギが声を上げる。その震えは明らかにドゥードゥに怯えている様子だ。それでも、雛乃を襲った時のようにナギは退かない。
「怪我させるとは思ってたけど……ごめん……」
ナギがその身体をやっと雛乃から離す。
「ヒナは帰してあげてよ、あたしの力をあげるから! ねえ、ドゥードゥ‼︎」
「ナギ……」
ナツとナギは、雛乃を始末すると言った。あれは、本気ではなかったということだろうか。
鳥喰草が雛乃を庇ったのを見て、二人はヴィンが本体だと確信した。雛乃ではなく、あれはヴィンがどう動くのかを二人は試したのか。そして信じたくなかったことを、信じざるを得なくなったのだ。
「ヒナちゃんは帰らないよ。君たちのその正義感は無駄だ」
ドゥードゥの声が冷たく響く。
そうだ、帰らない。それでも、こうして雛乃を命懸けで守ってくれたナツとナギに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「こんなことをしてる時間があったら、君たちも手伝ってくれないか? ヴィンを救いたい……」
一瞬だけドゥードゥの声が揺れる。
ヴィンと対峙し、涙を流していたドゥードゥ。彼は彼なりに、ヴィンの事を大切に思っている。その答えが、ヴィンの苦しみを終わらせる事なのだ。
「それは同感だ。楽園も救わなければ」
「ヒナ、今ならまだ間に合うわ‼︎ 帰りましょう‼︎」
ナギが雛乃の手を引く。その手を、力を込めてふり払う。信じられないものを見るようなナギの顔に胸が痛んだ。
「わたし、帰らない」
「なんで⁉︎」
「ヴィンの側にいるわ。わたしにはそれしか出来ないもの。わたしには救えないの‼︎」
ヴィンへと視線を向ける。
荒い息を繰り返し土を掻くヴィン。顔を上げるのも辛いのか、そのほおは地面に付いたまま雛乃の方を向くことも出来ていない。
「俺たちは楽園を救うことを諦めない。意味はわかってるよね?」
やっと立ち上がったナツが、雛乃を向いた。その顔は、意外なほどに優しいもので、それが雛乃の胸を苦しくさせた。
ナツもナギも、見返りなどなく身を危険に晒してまで雛乃を守ってくれた。そしてその命がけの助けを、自分は無駄にしようとしている。それなのになぜ怒らないのか。なぜ馬鹿なことをと罵らないのか。
「わかってる」
「そうか。じゃあ、仕方ないね」
「ナツまで‼︎」
ナギの悲鳴の様な声が上がる。
「無駄だって言ったでしょ?」
冷たいドゥードゥの声。その冷たさとは裏腹に、彼の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
思い込みかもしれなかったが、その涙は雛乃のために流されたような気がして胸がつまる。いつでも優しく笑いかけてくれたドゥードゥの笑顔が蘇った。
「悪いけどヒナちゃんにヴィンは渡さない。逝く時は僕が一緒だ」
その腕が再び上がった。ナツの声が、ナギを呼ぶ。
一瞬顔を歪めたナギが、雛乃の身体を抱きしめた。
「ヒナ、色々ごめん。もうあたしにはなにも出来ないわ」
「いいの、わたしこそごめんなさい。ナギ、ここにいちゃだめ」
ドゥードゥの頭上の空気が歪んでいく。
今度こそやられる。ナツもナギもダメージを受けているから今度は防げないだろうし、雛乃を守ることは無駄だと知った今、そんなことはしないだろう。
彼らにとって、ドゥードゥと敵対し楽園を危険に晒すことはなんのメリットもないのだから。
「あたしは力を持つ鳥よ。楽園を、ヴィンを救うために力を使うわ。でも、最期のお別れをする時間くらい稼げる。行くのよ、ヒナ」
ナギの身体がすっと離れ、ナツの側に駆け寄る。その耳元でなにか言っているのを横目で見ながら踵を返した。ありったけの力を込めて地面を蹴る。
ヴィンの腕が震えながら上がった。気力をふり絞るように上体を起こしたその胸元に駆け出した。倒れるように飛び込む。
崩れ落ちようとするヴィンの身体を両腕で抱えるようにして支えた。重さに後ろに倒れそうになったが、地面に付いたひざに力を込め耐える。ぎゅっと抱きしめたヴィンの身体はあたたかい。その熱が雛乃の身体を焦がしていく。
「ヒナ……なぜ、戻った……俺はお前を喰いた……ッ」
「助けてって聞こえた」
「くそッ」
雑音の混じる荒い息を繰り返しながら、ヴィンが顔を歪めた。それは自分を責めている顔だ。
「俺は、俺がヒナの命をッ」
「違うわ、ヴィンじゃない。それはドゥードゥがやってくれるの。ヴィンじゃないのよ‼︎」
雛乃の命を奪うのはドゥードゥだ。彼がどう思っているのかはわからないが、なぜか雛乃は確信していた。彼はヴィンの心をも救おうとしているのだと。
その結果が、雛乃の命を奪うことなのだ。それがおそらく、彼なりの正気の沙汰ではない愛情。
「そんなことはいいの。わたし、ヴィンの側にいたい。最期まで」
涙があふれる。ヴィンの手を取り、そっとにぎった。その手のひらをほおに当て、指を絡ませる。
熱い。雛乃のどこもかしこもが、ヴィンの熱で染め上げられていく。
背後で、空気が動いたのがわかった。ナギの叫び声が上がり雛乃の背を突風が打った。それでもふり返らない。そんな時間さえも惜しかった。
「いつもヴィンが手を繋いで安心させてくれてた。今度はわたしの番よ」
「ヒナ……っ」
ヴィンの瞳が揺れた。力なくだらりとしていた腕が震え、雛乃の背に回った。絡まった指先にも力がこもる。
ほおとほおが触れた。
「わたしがそうしたいの」
そっと身体を離し、ヴィンの瞳を覗き込む。
ほんの一瞬瞳が交わった。
「ずっと側にいるね」
背後から迫る圧力が全てを塗りつぶしていく。雛乃とヴィンの名を呼ぶ誰かの声がしたが、誰かもわからない。
雛乃の視界に映るのは、ただ一人だけ。
「ヴィン、わたし、あなたが好き」
全てを飲み込むかのように迫る圧力に背を押されヴィンに口づけた。その身体を抱きしめ、全身の熱をありったけヴィンに渡すように深く。その熱にヴィンが応え、二人が混じり合う。
こんな時なのに、雛乃の全身が歓喜で震えた。
そして、光が弾けた––––––––。
◆ ◇ ◆
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