決断
楽園を出てどれくらいの時間が経ったのだろう。真っ暗な空間を飛び出してから、雛乃には時間の感覚がわからなくなっていた。
たった今楽園を出たばかりのような気もするし、もう何年も飛び続けているような気もする。雛乃に入る情報は、光の翼の輝きと、羽ばたく音だけ。その他はなにもない。
(楽園は、どうなったんだろう。ヴィンは、大丈夫だったのかな……)
別れる時に、ヴィンはドゥードゥから力を分けてもらっていた。前に力の使いすぎで体調を崩した時も、休んだら良くなっていたから大丈夫なのだろう。
それに、別れ際にドゥードゥは、一つやれることがあるからうまく行けば楽園を救えると言っていた。彼の力が他の力を持つ鳥よりも強いことはわかったから、きっとうまくやってくれるに違いない。
そう信じたい。それなのに、胸の奥にある悪い予感めいたものがぬぐえない。
(ヴィン……)
そっと胸に手を置く。そこにはヴィンがくれた命がある。致命傷を負った雛乃を救ってくれたヴィンの命は、まだそこに残っている。周りになにも命がない空間だからこそ、それがはっきりと雛乃には感じられる。
ヴィンは一緒にいてくれている。まだ繋がっている。だからこそ胸騒ぎを無視できない。
ヴィンの命を胸に抱き、ヴィンの命の翼で飛んでいる。ヴィンには助けてもらうばかりで、なにも出来ていない。お礼だってちゃんと言えなかったし、なにより雛乃の気持ちを告げられなかった。
ヴィンはそんなことよりも雛乃が生きてくれることを望んでいた、それがわかっているだけに辛い。
「ヴィン、大丈夫なの? 無事でいるの?」
そっと背をふり返ると、羽根が一枚光の粒子になって空間に溶け込むように消えていくところだった。
この光の翼はヴィンの命。そしてヴィンたち力を持つ鳥の命は、有限だ。この翼も有限。
「嫌だよ……ヴィン、いなくならないでよ……」
この翼がないとたどり着けないとヴィンは言っていた。だから有限の命を雛乃に与えてまで帰そうとしてくれている。この翼は雛乃を届けるために消費され、どんどん少なくなっていくのだろう。そして、最後には……。
優しくほほ笑みながら手を差し伸べてくれるヴィンが脳裏に浮かんだ。最初から最後まで、そうやって見ず知らずだった雛乃を助けてくれた。
翼が力強く羽ばたく。雛乃の身体を前へ前へと押し出す。それはきっとヴィンの意思。
生きろ、無事に帰れ、帰ってくれたら嬉しい、そんなヴィンの声が聞こえるかのように羽ばたき続ける翼。自らを消費しながら、雛乃を送り届けてくれようとしている。
(わたし、これでいいの……?)
ヴィンは帰ることを望んでいた。足手まといだと怒鳴ったのも本音なのだろう。事実、雛乃はいてもなんの役にも立たないのだから。
雛乃が帰ることが、ヴィンだけではなく楽園全体にとっても最善なのは分かり切っている。それでも心が揺らいだ。
ヴィンがくれたこの翼は、片道切符だ。なにより雛乃は、楽園に戻ってもなにも出来ない。日本に帰れば生きる道があるかもしれないが、戻れば楽園が助かろうが助かるまいが、雛乃はいずれ死ぬ運命にある。
そう、だから大人しく日本へ、自分の世界へと帰るのが一番いい。雛乃が楽園に戻ったりしたら、ヴィンが与えてくれた優しさ全てを無駄にしてしまう事になる。ヴィンは悲しむだろう。
理解はしている。長く生きたわけではないが、同じ年の子よりは命に向き合う時間は多かった。だからわかっている。
ただ気持ちだけがついていかない。
(ヴィン、今どうしてるの。どこに、いるの……?)
深淵の闇を飛びながら、ヴィンを思い浮かべる。胸の奥にあるヴィンのぬくもりに意識を集中する。
まだヴィンと繋がっているなら、どうか。
––––––––タス、ケテ……。
「ヴィン⁉︎」
音として聞こえたわけではない。それでもはっきりと助けを求める声が聞こえた。それは、間違いなくヴィンの声。
苦しそうに、息も絶え絶えなその声が、雛乃の全身を逆立たせた。
––––––––助けてくれ……。
すぐに良くなると言ったドゥードゥの言葉とは全く違う、苦しそうな声。それに記憶が揺さぶられる。
こんなことが前もあった気がした。どこからか助けを呼ぶ声がしたのだ。それは雛乃に助けを求めているような気がして、そちらを目指して……。
「ごめん、わたし帰れないや……」
絶対に帰るから待っていて。そう約束したのに。雛乃を待っていてくれるかもしれないのに。
雛乃が帰らなければ、父も母も、友達もみんな悲しむだろう。彼だって。それでも。
羽ばたき続ける翼に意識を集中させる。それは雛乃の背で躊躇うようにびくりと震え、動きを止めた。雛乃の身体も同時に前進をやめて静止する。
ふり返った。肉眼で見えているわけではない。それなのに、はるか遠くに光が見えている。それは雛乃とともにあるヴィンの命がある場所だ。
「そこにいるのね」
この翼は片道切符。それでも目指す場所はあそこだ。
助けになんてなるのかわからない。足手まといなだけかもしれない。きっと歓迎はされないだろう。
それでもいい。この命を使うなら、ヴィンの側に行きたい。最後まで一緒にいて、足手まといになって、嫌われるかもしれないけれどその手をにぎっていたい。
そもそも病気で長くは生きられないと言われた身だ。いつも調子が悪くてなにもできずベッドで苦しんでいたことを思えば、この命を自由に使うことに躊躇いもない。
ただ、日本で待っているだろうたくさんの顔を思い浮かべると、胸が苦しい。
(でも、わたしが今やりたいことは、ヴィンの側に行くことなの。ごめんなさい)
約束を守れなかった雛乃のことを、いつか忘れてくれたらいい。そうして幸せに生きてくれたら。
ヴィンの声が雛乃の名を呼んだ気がした。ぎゅっと唇を噛み、翼を広げる。
自分の意思で、楽園に戻る。ヴィンのくれた片道切符とともに。そして今度こそその手を離さない。雛乃がどうなろうとも、ヴィンに自分の気持ちを伝える。ナギがそうしていたように、真っ直ぐに。
力強く羽ばたいた翼は、光を目指して進み出す。雛乃の意思で。
「ヴィン……‼︎」
胸になんとも言えない感情が翼から流れ込んでくる。雛乃の意思で動いているその翼は、それでも雛乃に帰れと言っているかのようだ。
これが正解だとは思わない。確実にヴィンを悲しませ、雛乃のために飛んでくれたドゥードゥたちの助力もそれによって犠牲になった命も無駄になる。
間違っている、だけどその間違いを選びたい。ヴィンにちゃんと気持ちを伝えて後悔なく最期まで生きたい。
それに、今ヴィンは苦しんでいるのだ。なんの助けにもならなくても、その声を無視するなど雛乃には到底出来なかった。ヴィンのことが、好きなのだから。
「待ってて」
背中に違和感を感じた瞬間に、また一枚の羽根が光の粒子になって暗闇に消えた。それにも構わず、雛乃に見えている光を目指す。雛乃の中にあるヴィンの命が、そしてこの翼が教えてくれる場所へ。
ヴィンはきっと、雛乃と一緒にいた時も苦しんでいたのに違いない。それなのに助けてくれた。手を繋いでいてくれた。
自分もそうしよう。最期まで手を繋いでいよう。なにも出来なくても。
一枚、そしてまた一枚と、飛ぶ距離とともに羽根が消えていく。おそらくもう、雛乃は日本には帰れない。
やがて暗闇の中に、細長い線が見えてくる。それはみるみる大きくなり、空間に空いた亀裂なのが目視できるようになる。
あの向こう側が楽園だ。背中の翼は、三分の一ほどがなくなり大きさが一回り小さくなっていた。それでもまだ翼はある。なにかヴィンの力になれるかもしれない。
裂け目の前で一度止まる。向こう側には、出た時よりも暗さの増した楽園の空と、そこに浮かぶ島々。
「今行くね、ヴィン」
そっと手を差し出す。その手はなんの抵抗もなく向こう側に出た。楽園に再び入ることが出来そうだ。
腕をぐっと伸ばす。そのまま身体を出そうとするより早く、腕が何者かに荒々しくつかまれた。悲鳴を上げる間もなく楽園へと引きずり出される。
ひんやりとした手が雛乃の腕をつかんでいる。灰色の羽毛。
「––––––––ナツ‼︎」
ひゅっとのどが詰まった。
そこにいたのはナツだった。雛乃を見る表情は、なんの色も浮かべていない。しかし、それとは裏腹に雛乃をつかむ手には痛いほどの力が込められている。その手の爪が皮膚に食い込んで鋭い痛みをもたらした。
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