嫉妬

 どれくらいそうしていただろう。そう長い時間ではなかったはずだ。雛乃は日本での暮らしを話した。まず国という概念からヴィンは理解できていなかったが、縄張りみたいなものか? という理解をしてくれた。

 地球ではたくさんの飛べない人間がいて、その人間たちは国に別れて暮らしていること。雛乃は学生で、まだ若いうちは集団で学習するために学校に通うこと。

 そして、白血病で倒れてからは病院のベッドの上で過ごしていたこと。

 病院のベッドの上で雛乃を励ましてくれたのは、大好きだったオープンワールドのオンラインゲーム。そしてそこで出会った彼のことを思い出すと、ヴィンに感じるのとは違う痛みを覚えた。

 今頃、気がついているのだろうか。治療のスケジュールをとうに過ぎても連絡もなく、ゲームにログインもしない雛乃のことに。気がついてなお、待っているのだろうか。それとも。


「帰っても、元気になれるかはわからないよ」

「なれるさ」


 確信したようにそう言われると、本当にそんな気がしてきてしまう。

 でも、元気になっても日本に、それどころか地球にヴィンはいないのだ。そんな毎日は、本当に寂しく色褪せて見える。


「もしね、もし楽園が助かったらさ、わたし帰らなくてもいいかな?」

「待っている人がいるんだろう?」

「いや、うん、そうなんだけど……」

「それなら帰る方がいい」


 そう言われるだろうとは思っていたが、少し気持ちがしぼんだ。


「だが、寂しくはなるだろうな」

「え、ほんとに?」


 耳を疑ったが、聞き間違いではないらしい。ヴィンは口角を上げながら本当だと答える。その瞬間、雛乃の胸が熱くなった。

 どうしようもなく嬉しいという気持ちがわき上がる。

 ヴィンが空を見上げた。その喉から、綺麗な鳥の鳴き声が出る。誰かと連絡を取っているのだろう。しばらく鳴いたあと、ヴィンが頷いて雛乃へと視線を向けた。


「ナツが来る」

「そうなんだ」


 二人だけの時間が惜しい気もしたが、それは雛乃のわがままというものだろう。そう考えて、笑顔で頷く。

 やがて舞い降りてきたナツは、雛乃が地面に並べていた木の実を真っ先に見つけたようだった。


「二人とも食事してたのか、ちょうど良かった。その木の実、余ってるなら俺にもくれないか?」


 少しおどけた調子でそう言ってきたナツに、思わず笑みがこぼれる。相変わらず寝そべったままのヴィンがにやりとした。


「余ってないと言ったら?」

「ヴィンには食事を我慢してもらうしかないね」


 そう言ったかと思うと、ナツの手が伸び木の実を一個つかむ。

 立ったまま木の実をかじってにっこりしたナツは、軽く肩をすくめた。その様子にヴィンが小さく鼻白む。

 ヴィンと雛乃で二個ずつ、ナツが一つ食べ残りは三つだ。量としては十分だろう。


「この辺はどうだ?」

「多くはなってきたよね。今朝から今まででも三つの島にいた」

「そうか」


 鳥喰草が、だ。まだみつけていないだけで、この島にもいるのかもしれない。


(こんなに綺麗で、心が落ち着く景色なのに……)


 もうどの島へ降りても鳥喰草がいるような場所まで来てしまったのだ。その事がしみじみと身にしみた。

 ナツの手が木の実を口へと運んだ。少し硬そうな質感の唇が、木の実に被さる。


「いや、こういうのもいいね。いつも必要だからさっと食べてただけだったけど」

「ああ」

「楽園が助かったら、こうやって景色でも見ながら一緒に食事していいかもね」


 未来の明るい話を清々しそうに話すナツ。その瞳が紅葉を眺め、和んだように目尻を下げた。それに少しだけ寂しい気持ちがわき上がる。

 おそらくその未来に、雛乃はいない。楽園が助かるのなら、雛乃が残る理由もない。


「あまり意識したことなかったけど、なんだかいつもより美味しく感じるな」

「俺もそう思う」


 ピクニックを二人が喜んでくれている様子なのは素直に嬉しくなる。わざわざ場所を変えてまでのんびり食事をしているなど、今の楽園の状況を考えれば怒られてもおかしくない事だという自覚は雛乃にもあったからだ。

 美味しいなと言いながらナツが残りの木の実を口に運ぼうとしたとき、上空から羽音が降ってきた。

 真っ黒な羽毛が数枚降ってくる。


「ナギ‼︎」

「ヴィン‼︎ 会いたかった––––––––‼︎」


 降りてきたのは間違いようもない、漆黒の翼を三枚広げたナギだった。ヴィンのすぐ横に舞い降りたかと思うと、笑顔でその胸の中に飛び込む。

 突然の衝撃にバランスを崩したヴィンが後方へ倒れて、まるでナギに押し倒されたような構図になった。


「ちょ、ちょっと……‼︎」


 だが、特にヴィンがそれを邪険にする様子もない。その様子に理不尽だとわかっていながら苛立った。

 長年をかけて培われた二人の仲に雛乃が嫉妬するなんて、それこそ馬鹿げている。図々しいにも程があるというものだ。

 それでも、そうわかってはいても嫉妬を感じずにはいられない。

 ヴィンに手を引かれて、一緒に眠ってもらって、それは自分が楽園を出るまでの期間限定だ。それなのに、その時間すら邪魔してくるなんて。


(ううん、ちがう)


 わき上がった思いは、悔しさ。

 自分だってヴィンと手を繋いでいたいのに。それなのになにも言えず、毎回ナギにあんなことを許してしまう自分が嫌だった。悔しくてたまらなかった。

 ちらっとこちらをふり向いたナギが、瞳を細めて雛乃を嗤う。その口が音を立てずに、ヴィンはあたしのものよ、と動いた。

 頭に血がのぼる。そんなことをわざわざ雛乃に言う意味があるだろうか。どういうつもりでそれを言ってくるのだろう。

 それとも、ヴィンも同じ気持ちなのだろうか。


「倒れたヴィンも素敵よ、そそるわね」


 上機嫌でそう言ってナギがヴィンのほおに口づけを落とす。その光景は、二人が美男美女なだけに美しい一枚絵のように映えるものだった。紅葉も二人を引き立てる背景でしかない。

 やめて、心はそう思うのに声を出すことができない。


「離れろ」

「えー、やだぁ」

「重い」

「そんなわけないでしょー。嘘は良くないわよヴィン」


 ぷうとほおを膨らませたナギは、雛乃でも可愛いなと思ってしまうほどだ。どこを取っても雛乃が勝てる要素など一つもない。

 思わずうつむき、目に入った青白くて貧相な自分の体にますます気持ちが沈んだ。白血病に苦しんでいた体は、あまりにもナギとは違う。まるで枯れ枝のようではないか。


「ナギ、離れてくれ」

「もう少し。これからどんどん危険になるんだもの、もしかしてこれが最後かもしれないでしょ」


 そのナギの声に、また雛乃の中で罪悪感が頭をもたげる。急激に怒りが冷えた。

 ナギはしなくていい危険を冒してまで、雛乃を元の世界に帰そうと協力してくれている。それは、おそらくナツも。

 ナギの言う通り、自分やヴィンの身が無事でいられる保証はないのだ。


「ナギなら大丈夫だと思うが」

「わからないわよ」


 力を持つ鳥は、圧倒的な力を持っているように雛乃には見える。鳥喰草だって、上空から攻撃する分には危険はないだろう。

 それでも襲われている鳥を助けようとしたり、寝込みを襲われたりした場合は危険なのだ。それくらい雛乃にもわかる。


「あたし、ヴィンとなら繁殖してもいいと思ってるのよ」


 ナギの言葉にはじかれたように身体が反応した。見たくないのに、ナギに押し倒されたままのヴィンへと視線が向く。

 繁殖、それの意味することは雛乃にだってわかる。彼らが地球と同じ繁殖方法なのかはわからないが、同じだとしたら––––––––。


「残念だが他に当たってくれ」

「あたしはヴィンがいいの」


 うっとりするような声でそう言ったナギを、ヴィンが無理矢理押しのけて身体を起こした。ゆっくりと立ち上がる。

 ナギがチラリと雛乃を見た。視線が交わる。

 ナギはなにも言わず、形のいい唇を上へ向けた。勝ち誇ったような笑みを浮かべ、すぐにヴィンの方へと向き直る。

 ナギから離れようと距離を取ったヴィンに、すぐにナギが駆け寄り抱きつく。そして二度目のキス。


(なにあれ、感じ悪い……ッ)


 雛乃がなにも言い出せないのをわかっていて、ナギはわざとやっているのだ。そのことに、冷えたはずの苛立ちがまた頭をもたげた。ナツはともかく、ナギにはあまり来て欲しくなかったと思うくらいは許されるだろう。

 さすがに少し眉をひそめてなにか言ったヴィンがナギから離れ、それをナギが追って二人は雛乃から離れていく。それもおそらくナギの狙い通りで、そのことにまた腹が立った。

 悔しい、しかしなにも言えない。雛乃はナギに助けてもらっている側なのだ。

 それに、ストレートにヴィンに好意を伝えるナギに、そんなことやめてなど言えるだろうか。雛乃の方が後から来たお邪魔虫なのに。


(わたし、ヴィンのこと……ううん、やめよう)


 ヴィンへの気持ちを深く考えては駄目だ。しょせん、雛乃は楽園の住人ではない。それにそう、これはただの吊り橋効果だ。

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