ヴィンとヒナ

 あっという間に近づく緑。上空から緑の塊として見えていたそれが、どんどん大きく迫ってくる。

 その様子は、テレビで見たドローンの空撮映像そのもの。肉眼で見ている分、むしろ迫力がある。

 迫る緑がが木の葉だとはっきり認識できるようになったと思うと、さらに速度が落ちた。ゆっくりと木立を通り過ぎ、その先に広がる草原へとふわりと着地する。


「きゃ」


 空を飛んでいた反動か、一度地面に立ったもののよろけてしまう。しかし、素早く鳥人の腕が伸び、横から抱きとめられた。

 たくましく太い腕の感触が肩を抱いている。それは否応なく異性を感じさせた。

 そのことに動揺して、急激に全身が火照った。身体が硬直してしまう。

 鳥人とは言っても、特に上半身はほぼ人間と同じなのだ。男だと意識しない方が無理というもの。


(ど、どうしよ……)


 胸がどうしようもなく早鐘を打っていて息苦しい。そんな雛乃の様子に気が付いたのか、鳥人がそっと腕をゆるめた。雛乃の体を解放したかと思うと、その両手が雛乃のほおを包んだ。

 少しだけその手に力が入り、上向かせられる。そこにあったのは、真っ直ぐに雛乃を見つめる猛禽類の瞳。


「あっ、あの、あ……」


 声がどうしようもなく上ずる。ますます熱くなるのを止められない。なにを言いたいのかもわからず、かすれた声しか出てこない。

 ごつごつした大きな手の感触。その部分の熱は、どちらのものなのか。


「どうした、具合が悪いのか。まさか命が足りないか?」

「ち、ちが……」


 違うとは言い切れない。命がどうとかいうのは、雛乃にはわからない。

 それでも、今この鳥人に心配されている状況は、雛乃の命のせいではないというのはわかる。


(緊張するッ)


 これまでの人生、こんなに男性に触れられたことなんてない。友達に彼氏が出来たという報告も、病院のベッドの中で聞いた。

 雛乃の青春は、楽しいはずの高校生活は突然終わったのだ。

 入院中に心を支えてくれたのは、世界を自由に歩き回れるオープンワールドのゲーム世界だけ。

 あの場所でなら自由に動き回れた。走っても苦しくない。

 色々な国の人と友達になった。その中で一番親しかった友達は、同い年の男の子だった。しかし、それはゲームの世界での話。現実世界では会ったこともない。


「それならいいんだが」

「う、うん。あの、大丈夫だから」


 そっと鳥人の手を押し戻す。彼は一度頷いて、手を離した。そのことに心から安堵する。

 ゲームの世界でなら、男の子と触れ合うことだって平気だった。平気というか、それはそれで少し思うところもあったが、こんなに緊張したりはしなかった。

 これはゲームじゃない、その現実味が雛乃の胸に広がる。


「顔が赤いようだが」

「いや、いやこれは違うの本当に大丈夫だからッ‼︎」

「そうか」


 鳥人は不思議そうな顔をしていて、それが雛乃にはほんの少しだけ悔しく思えてしまう。

 顔が赤いのは断じて具合が悪いせいではない。しかしそれを主張することもできず、うつむいてごまかす。

 これは一体誰のせいだというのか。


「あ、あの、そんなことよりあなたの名前はッ⁉︎」


 心中をごまかすように、とっさに口を動かす。

 そう言えば、鳥人は命を与えてくれたあの時、雛乃の名を呼んだ。名前を知っているということは、彼はなにか知っているのかもしれない。


「ヴィンだ」


 途端に、一人の人物が脳裏をよぎった。

 絶対に帰ってくるから待っていて。そう約束した人。彼の……。


「お前には名前はあるのか」

「え? 知ってたんじゃ……」

「そんなわけないだろう」


 雛乃の名前を知らない?


「わたしのこと、ヒナって呼んだ」

「ひな鳥かと思った」

「ひな鳥……あ、あぁ、そういう……」


 雛乃のことを知っているわけではないのだ。それがわかって、ヴィンに罪はないとわかっていても落胆してしまう。

 なにか手がかりを知っているかもしれないと思ったのに。


「ヒナがお前の名前だったのか」

「うん」


 ため息がもれた。ここはなんなのだろう。雛乃を見てひな鳥だと思うということは、ここにはこういう鳥人しかいないのだろうか。

 本当に、ここはどこなのだろう。自分は日本で、こんなファンタジックさとは無縁の世界で生きていたのに。


「ねえ、ここはなんなの?」

「ここは楽園だ。崩壊しつつあるがな」


 何のことを言っているのだろう。そんな雛乃の疑問が素直に顔に出てしまう。

 ここは、崩壊しつつある楽園だとヴィンは言うが、どこが崩壊していると言うのだろう。

 一面、息を飲むほどの絶景なのに。


「お前、鳥喰草に喰われそうになっていただろう」

「あ、あれ」


 鳥喰草というのは初めて聞いたものの、あの食虫植物みたいなもののことを言っているのだとすぐに合点がいった。この世界では、虫ではなく鳥を食べる植物なのか。

 それはそれで背筋が寒くなるものがある。


「あれは楽園のものではない。どこかから入り込んで来たんだ。お前みたいに 」

「そう、なんだ……」


 お前みたいに。その言葉が雛乃の耳に残る。

 この楽園にとって、自分の存在は許されるのだろうか。鳥喰草のように禍をもたらすと思われたら……。


「鳥喰草はずいぶん昔に現れたが、小さかったし大人しかった。だが最近急激に繁殖し、巨大化したと思ったら鳥も植物も全て喰い島を壊すようになったんだ。最初に見つけた時に排除しておくべきだった」

「そう、なんだ……」

「あれを取り除く術を俺たちはまだ見つけられていない」


 なんと言ったらいいのかわからない。

 楽園は、鳥喰草のせいで崩壊しようとしている。そんな場所になぜ自分は来てしまったのか。ヴィンだって、雛乃にかまっている時間などないだろうに。


「やつのせいで何十という島が崩壊した。このままなら確実に全部なくなる。そうなれば俺たちも……」


 楽園が崩壊してしまえば、彼らも無事とは行かないだろう。


「だから、お前は元の場所に帰れるなら早く帰った方がいい」

「帰れるの、かな……」


 どうやってここへ来たのかもわからない。自分が生きているのか、それとも死んでここへ来てしまったのかもわからない。

 もしもう死んでいるのなら、帰るなんて望めない。もしかしたら、死んだからこそここへ来たのかもしれないのだから。


「来たんだから帰れるはずだ。どこかから入り込んだにしても、楽園の果ての方からだろう。果てに近いほど鳥喰草に侵食されているから、あいつらもおそらく」

「果てがあるの?」

「当然だ」


 なにを言っているのかという目でヴィンが頷く。

 楽園の果て。そこから入って来たのだろうか。どうやって?

 必死に記憶を巻き戻そうとしても、ヴィンに助けられたあの時以前の記憶はまだ病院のベッドの中だ。

 ここへ来た時の記憶はない。


「そこから帰れるのかな」

「さぁな。帰れないかもしれないが、帰れるかもしれない。行くなら連れて行く」

「いいの?」


 楽園だって、ヴィンだって今は大変な状況なのだろう。それなのに雛乃に付き合っていていいのだろうか。そうは思ったが、それを口には出せずに飲み込む。

 もし帰れたら、楽園が崩壊していくことも雛乃には関係がなくなる。そんな汚い保身の感情を、誤魔化すように首を縦にふる。

 そうだ、ヴィンだってお荷物を早く片付けた方が、楽園のために動けるはずだ。だからこれはヴィンのためでもあるのだ。


「果ての方は鳥喰草のるつぼだ。危険が伴う。お前はかすり傷程度ならいいが、怪我をすればそのまま死ぬかもしれないぞ」


 存在が希薄。そう言っていたヴィンの声が頭の中でくり返される。

 今自分が生きているのかはわからない。ただ、病院のベッドの中で弱りきっていたのだ。それを存在が希薄だったと言うなら、当てはまる。

 体力も、抵抗力もなく衰弱していた自分。

 ただ、限られた時間をゲームに費やして、そこで元気に走り回るアバターを眺め、フレンドと交流する。ゲームの中でなら元気でいられる、それだけが慰めだった日々。


「いいよ。それでも行ってみたい」


 まだ帰れるかもしれない。そのかすかな希望が急激に大きくなる。どちらかわからないのなら、望む方向へ向かうしかない。その方法がわからなくても。

 絶対に帰ると約束したのだから。


「わたし、帰りたい」

「わかった、手伝おう。お前が帰る方法がわかったら、鳥喰草を楽園から取り除く方法も見つかるかもしれないしな」

「ありがとう」

「いや、いいんだ」


 少し目を細めるようにして、ヴィンがかすかにほほ笑む。その不意打ちのような表情に、ひゅっと息が詰まった。さらに大きな手が雛乃の頭を意外なほど優しくなで、さらに胸が締め付けられるように疼いた。

 それは、わけもわからず楽園で命が終わりそうだった雛乃をすくい上げてくれた手だ。

 猛禽類のような鋭さがあるだけに、余計にその優しさが苦しい。自分さえ助かればあとは関係ないと思った自分の小ささがいたたまれない。


「ありがとう、ヴィン」


 ◆ ◇ ◆



 

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