楽園の夜

 一面の青空が、かすかに赤みを帯びた。それはあっという間に広がり、空を飛んでいた雛乃とヴィンを飲み込むように楽園を茜色に染め上げた。

 この世界にも夕焼けというものがあるのかと思うと不思議な気持ちになる。上も下も右も左も青空の世界なのに、雛乃は太陽らしきものを目にしてないからだ。別段意識はしていなかったが、こうして夕焼けが広がると、そういえば太陽ってあったかなと首を傾げざるを得ない。


「今日はここまでにしよう。疲れただろう」

「うん」


 楽園の果てに行く。そのために、あれから何度か休憩を挟みながら飛んでいた。飛んでいるのはヴィンで、雛乃は手を引かれているだけでなにもしていない。それでも、このわけの分からない状況に混乱しているのは事実だ。疲れていないというのは嘘になる。

 ヴィンが風を受け止めるように一度大きく羽ばたくと、足を下へ向けた。そのまま、眼下に見える島へと下降していく。

 上から見ていると小さく見えていた島も、近づくにつれて思いの外広いことがうかがえた。

 森の上空を通り過ぎて、島の端に位置する少し開けた野原へと降り立つ。その頃には、全てが燃えるように真っ赤に染まっていた。それと同時に、少しだけひんやりした空気を感じるようになる。

 繋いだ手の平だけが、熱い。


「あの、手……」

「なんだ」

「あ、もう、離してもらっても」


 しかし、手は離れない。そのままヴィンは歩き出す。


「え、ちょ、ちょっと」


 ヴィンの行動の真意がつかめないまま、それでも心臓が高鳴るのを感じた。空を飛べない雛乃のために、空では手を繋いでなければならない。でも、今はその必要などないのに。

 かといって、振りほどくのもなんだか気まずい。


(か、彼氏もいたことないのにッ……‼︎)


 男性と手を繋ぐ、それすらほぼ初めてと言っていいくらいだ。しかも、その相手は美貌と言って差し支えない、この世のものとは思えない容姿をしている。しかも、中性的な美しさではなく、男性としての完成された美のようなところがある。

 大きな手、たくましい身体。しかも、羽毛で覆われているとはいえ全裸だ。これで意識するなという方が無理だ。

 手を繋いだまま、さらに島の端の方へと向かう。もうあと10メートルほどで端というところで、やっとヴィンは止まった。

 燃えるようだった空は、今度は紫へと色を変えつつあった。藍が混ざって、これから夜になるのだろう。


「ヴィン、あの、手離して……」

「なぜだ」

「え、えっと、えっ」


 真っ直ぐに雛乃を見下ろすヴィンの瞳はいたって普通に見えた。そこには、雛乃が感じているような感情は見受けられない。

 それに少しだけがっかりした自分を自覚して、雛乃は頭をふった。そうだ、ヴィンにとって自分は別に意識するような相手ではないのだ。


(一人で興奮しちゃって、恥ずかしい)


 そもそも釣り合いなど取れるはずもない。初対面の雛乃に優しくしてくれるから、変に意識してしまっただけだ。

 男性に免疫がないのだから、仕方がないこと。そう自分に言い聞かせる。


「その、手を繋いだままだとその、ちょっと恥ずかしいし」

「恥ずかしい?」


 その感情が心底わからない。そんな顔をしたものの、ヴィンはようやっと手を離した。そのことに安堵するとともに、手のひらが熱を失ったことに戸惑う。なぜだか急に不安が押し寄せた。

 置いていかれたらどうしよう。ヴィンの気は変わらないだろうか。そんなどうしようもないことを瞬時に思い浮かべて、苦笑する。

 手を繋いでいる間は、そんなことなど思わなかった。恥ずかしいのと同時に、雛乃を置いて行かないという安心感も与えられていたのだと気づく。

 繋がっていないから、どうにかして繋がっていなくては。そんな焦りが口を開かせる。


「これから、夜になるの?」

「そうだ」


 ヴィンの答えは簡潔だ。

 それ以上なにも言うことが見つからず、うつむく。世界は急激に色を失い、光が隠れて行こうとしていた。周囲の温度が下がっていくのが肌でわかる。

 日本のように電気があるわけでもない。夜になれば、なにも見えなくなる。隣にいると思っているヴィンの姿も。

 彼は夜になって、雛乃の姿が見えなくなってもそこにいるだろうか。

 置いて行ってしまわないだろうか。

 心細い。


 それは無意識だった。薄暗くなった景色にかろうじて見えているヴィンの影。そこへと手を伸ばす。

 二度空ぶり、三度目でヴィンの手のひらを捕まえる。

 ぎゅっとつかむと、軽く握り返してくれる感触。そして、低く笑う声。


「恥ずかしいんじゃないのか」

「そうだけど、でも、怖い」


 闇が深くなる。

 ヴィンの姿も見えない。ただ、繋がった手のひらの熱と、再び暴れ出した心臓がそこに彼がいることを伝えていた。


「そうか。そうだな。安心しろ、ここなら鳥喰草が近づいてきてもすぐにわかる。邪魔するものもないから、飛べば逃げられるしな」

「そっか」


 それでヴィンは野原に降りたのかと合点がいく。野原なら、頭上に障害物がないから、逃げる時もスムーズだ。

 特に夜なら、なにも見えなくても上に飛べば逃げられるというのは重要だろう。


「夜になるの、あっという間なんだね」

「お前がいたところは、こうじゃないのか?」


 不思議そうなヴィンの声だけが聞こえる。

 彼にとって夜になるというのはこれが当たり前。日本、いや地球とはなにもかもが違うことに暗い気持ちになる。地球ですらないのなら、この楽園は一体どこだと言うのだろう。


「そう。もっとゆっくり夜になるの」


 昼間は空を飛んでいても寒さなど感じず、とても快適だった。それが一転し、冷たい空気が雛乃の肌をなでている。ワンピースしか着ていない雛乃には、肌寒く感じられるほどだ。

 体温を感じるのは、繋いだ手のひらだけ。


「それに、なにもかも違うよ。ヴィンみたいな翼の生えた人なんていないし」

「空は飛ぶのか?」

「飛ばないよ。わたしみたいな、飛べない人しかいないの」

「そうか。不便だな」


 素直にそう感想を述べたヴィンの声に、思わず笑ってしまう。笑っているはずなのに、涙がこぼれた。

 地球とも日本ともまるで共通点がない。そのことが雛乃の胸を締め付ける。

 帰りたい。でも、もう帰れないかもしれない。ヴィンは違うと言うが、ここが天国じゃない確証なんてないではないか。むしろ、天国だと思った方が辻褄が合う。

 ヴィンはきっと天使で、死んだ雛乃の魂を迎えに来てくれただけなのだ。そしてこれから鳥喰草がはびこっている果てへと向かう。

 もしそこが地獄だったら。ヴィンはそこへ連れていくために嘘をついているのだとしたら。

 そんなどうしようもない考えが頭を巡る。

 抑えなければと思うほどに、雛乃の喉を嗚咽が何度も駆け上がる。

 空いた手で涙を拭うが次から次へとあふれて止められない。

 頭の中がぐらぐらと揺れているような錯覚に陥りしゃがみ込む。それでも、ヴィンは手を離さない。

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