楽園

 胸がどくどくとうるさく鳴った。とたんに、そんなところに目を向け勝手に焦っている自分に恥ずかしさが込み上げてくる。ほおが再び熱を帯びた。

 全裸とは言っても、羽毛で特になにも見えない。だから、そう、これは服を着ているのとなんら変わらないのだ。雛乃はそう言い聞かせて、大きく息を吸う。

 落ち着かなければ。


「どうした」

「あ、いや、なんでもない、です……」


 自分がなにを考えていたかなど彼にはわかるはずもない。それでも、鳥人の方を向くことができず、かわりに眼下を見下ろす。

 そして、その光景に息をのんだ。


「わぁ……きれい……‼︎」


 そこに広がっていたのは、どこまでも続く青空。そして、その青空の中に大小さまざまの島が浮かんでいる。

 真っ白な雲は、それらを彩るようにあちこちに浮かんでいた。

 上を見上げると、そこにも同じような光景が広がっている。

 鳥人が大きく羽ばたき、小さな島の脇を通り過ぎた。

 緑の大地が近づき、あっという間に後方へと流れていく。

 それは、こんな状況でも雛乃の心を揺さぶるには十分なほど輝いて見えた。そう、それはまるで————。


「夢みたい」


 前方に大きな緑の大陸。緑の中に何本もの水の流れが走り、その川の周囲を色とりどりの鳥が飛び交っているのが見えてくる。

 さらに近づくと、美しい鳥の鳴き声が聞こえた。

 知らず雛乃のほおがゆるみ、目移りする美しい風景に歓声を上げる。こんなわけのわからない状況でも、胸が高鳴るのが抑えられない。

 それは、雛乃が愛したあの世界によく似ていたから。


「見て、あの鳥! おっきい! それに綺麗なピンク色してる! まるでフラミンゴみたい」

「フラミンゴ?」

「鳥よ。あんなふうなピンク色の綺麗な鳥なの。でも、形が全然違うわね。それにあんなに大きな鳥は見たことないわ」


 人が二人乗れるくらい大きなピンク色の鳥。

 その横を、四枚の羽で優雅に飛ぶ白い鳥の群れが追い越していく。


「ねぇあの鳥の翼、四枚もある!」

「あれはそういう鳥だ」

「わたし初めて見たよ! ここでは珍しくないの? あんな鳥が現実にいるなんてここって本当に……」


 その続きを言おうとして、はっとする。

 無邪気に喜んでいた気持ちが、一気にしぼんだ。笑顔を作っていた頬がひきつったように固まる。

 そうだ、これはまるで。


「まるで天国みたいね」


 その声が、やけに冷たく自分の耳へと届く。

 自分は今まで、病院のベッドにいたはずだ。そして、命をかけた治療を開始したところだった。

 急性骨髄性白血病。それが雛乃の病名だ。

 最初はやたらすぐに疲れるなと感じたのが始まりだった。風邪を引いてなかなか治らず、疲労感は増すばかり。食欲もなくなり、ベッドから動けなくなるまであっという間だった。

 化学療法では期待が持てないというのが検査の結果。生きるために、雛乃は同種造血幹細胞移植を選択し、その前処置が始まったところまでは覚えている。苦しくて苦しくて、死んだ方が楽だと思うほど辛くて。

 失敗したのだろうか。そして、死んで天国へ来てしまった?


「天国? というのはなんだ」

「死んだ後に行くところよ。ここは、そうじゃないの?」

「なんだそれは。よくわからないが、死んだ後に来るところではないな」


 天国では、ない……? では、ここはなんだというのだろう。

 気がついたらあそこにいた。その前の記憶は、病院のベッドの上だ。

 毎日窓から空を見上げて、元気になりたい、普通の生活がしたいと思っていた。学校帰りに寄り道したり、休日に友達と出かけたり、そういう普通の生活がまたしたかった。そのためになら、命をかけて治療をしようと思えたのだ。

 絶対に帰ってくるから待っていて。元気になったら、あなたのお気に入りの場所へ連れて行ってね。絶対よ。そう約束したのに。

 眼下を大地が通り過ぎた。再び青空が広がる。

 夢のような景色。鳥人は天国ではないと言った。

 彼にとっては天国でなくても、これはやはり自分たちの言う天国なのではないだろうか。三途の川ではないからわからなかっただけで。

 それとも、最後は食虫植物もどきに食べられるという地獄?


「天国がなにかはわからないが、お前は自分は死んだと思うくらいの危険に合ったのか?」

「そう、ね。わたしは病気で……」


 治療しなければ生きられない。でも、治療が失敗しても生きられない。

 成功するかは賭けのようなものだった。失敗して命を落とす人はそれこそ大勢いる。一旦は成功かと思われたのに、急変して亡くなる人もいる。でも、そんな賭けをするしか方法がなかった。


「そうか」


 鳥人が雛乃に視線を向ける。その目は鋭い。その口がなにかを伝えようと開いていく。

 怖い、そんな思いが浮かび上がる。その目になにが見えているのか、聞かされるのが怖い。

 しかし、彼の言葉を遮ることもまたできない。


「お前の存在はかなり希薄だった。あのまま噛みつかれていたら、死んでただろうな」

「————……」

「俺の命でお前の存在を楽園に定着させたから、今は多少怪我をしても耐えれるだろうが」

「え、それどういう……」


 天国ではなく楽園? 鳥人の命で存在を定着させた?

 言われていることがよく理解できない。

 存在が希薄とはどういうことなのだろう。彼の命を分けてもらって、少し強くなったということだろうか。

 それにしても、命を分けてもいいものなのか。そもそも、命を分けるという発想が雛乃の中にはない。そんなのはファンタジーとか、ゲームの中の話だ。


「だが、時間の問題ではあるな。お前は楽園の鳥ではなさそうだ」


 鳥人の大きな翼に目が吸い寄せられる。

 楽園の鳥。鳥にある翼。それがない自分は異質な存在なのだ。

 わかっている。なぜなら自分はなんにもできない日本の女子高生なんだから。


「元の場所へ帰れなければ、やがて死を迎えるだろうな」

「帰れるの⁉︎」

「さぁな。来たんだから帰れるはずだが。本当に覚えていないのか?」

「覚えてないよそんなの……」


 目に涙が浮かぶ。美しい景色が、たちまち歪んだ。

 どうしてこんなところに来てしまったのだろう。パパやママは、今どうしてるのだろう。もしわたしがもう死んでいたとしたら、どんなに悲しんでるか。

 それに、絶対に帰ってくるからと約束したのに、彼に別れも言えない。彼はずっとわたしの帰りを待って、待って、待って……そしていつか忘れてしまうかもしれない。

 嫌だ、そんなのは嫌だ。もし帰れるのなら帰りたい。


「帰りたい……」


 喉から絞り出すように出した声は、嗚咽でまともな言葉にはなっていなかった。風の音が大きくて、鳥人の耳に言葉として届いたのかどうか。

 それでも、鳥人の瞳に少しの同情の色が浮かんだ気がしたのは、気のせいではなかっただろう。

 まぶたを乗り越えてあふれ出した涙が風にさらわれていく。


「降りるぞ」


 一言だけそう告げると、何度か翼がひらめいた。途端に足が下を向き、そのままゆっくりと羽ばたきながら下降していく。

 ちょうど二人の下に位置している浮島に降りるつもりのようだ。

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