精神世界と荒廃と動乱と

科文 芥

顛末

 2066年、日本帝国特殊法廷「8月25日午前11時2分」

 イチガヤ クニヒコは張り詰めた面持ちで被告人席に座っていた。それもその筈、彼が犯した罪はこの国で内乱罪と同等と扱われている国民扇動罪だからだ。彼は今月14日に起きた、社会主義と民主主義者の反乱、霞が関蜂起を主導した組織「人民戦線」構成員であり、国防省爆破を実行した「第一赤衛行動隊」の隊長だった。

 蜂起頓挫後はすぐに東京の検問をすり抜け、神奈川を超え山梨方面へと逃れたが公安警察の捜査の手から免れることは出来ず捕まってしまった。そして今、「特殊法廷」への出廷に至る。

 傍聴席にいる政府関係者や国防軍関係者は彼に冷たく、怒りに満ちた視線を送っている。この裁判には弁護士もいなければ、自己弁護の時間もない。更には一審で決まる即決裁判と来た。「特殊法廷」これは主に政治犯や思想犯が裁かれる裁判である。一応、裁判という体ではあるが実態は最初から刑が決まっていてそれを被告人に宣告するだけの形式上の、見かけだけの物だ。

 イチガヤは出廷する前からこの裁判の実態を知っていた。というのも人民戦線には秘密法廷に出廷し、刑を受け、再び戦線に復帰した構成員(そういう構成員は殆どが戦線での政治活動や、闘争により親族から関係を断たれ一般生活に戻れなくなった者達である。また復帰した構成員は軍や警察の足がつかないうちに全身整形と、身分の改ざんが行われる。)が幾らかおり、彼らから裁判の事を聞いていたからだ。

 しかし、イチガヤの出廷したこの裁判は何か様子がおかしい。特殊法廷を経験した彼らから聞いていた話では、裁判は一時間程度で終わるとの事だったが、この裁判はもう開廷してから4時間以上経過している。それに裁判官たちも次から次へと出入りする人間と内容は分からないが何か話している。刑は決まっているはずだ。なのに何故ここまで長引いているんだ?イチガヤはそう思いながら、裁判官の席の後ろに飾られている菊花紋章と日本帝国国旗を軽蔑するような目で見た。

 「被告人、イチガヤ クニヒコへの刑が決定した。」裁判長が口を開く。

判決が下る。国家的な大犯罪を起こした訳だ。恐らく死刑か終身刑、良くても労働収容所に暫く抑留...そうなるだろう。しかし覚悟は出来た。革命に殉死して見せようではないか。イチガヤは姿勢を正した。

「被告人イチガヤを...」イチガヤは覚悟を決めても、それでも震える手を必死に抑え下される罰を受け止めようとする。イチガヤが握りこぶしを固くしたとき、ついに裁判長は彼に与える罰の名を口にした。

 「薬物実験刑と処す。刑期は未定、満足のいく結果が出るまでが刑期だ。」イチガヤは聞いたこともない刑の名前に困惑した。

 「おい。なんだその刑は?聞いたこともないぞ。それになんだ刑期が未定とは。」イチガヤは頭に浮かぶ疑問をすべて、裁判長と軍執行官に投げかけた。

執行官が彼の疑問に返答した。「名前のそのまんまの意味だ。イチガヤ。お前はこれから薬物の実験体になってもらう、幻覚剤のな。効果が出るかはもちろん、安全性の確認も兼ねてやる。動物実験もまだやってないような薬でやるわけだから死ぬかもな。」執行官は不気味で、何処か極悪人に正義の鉄槌を下した満足感が混じった不快な笑みを浮かべた。

 イチガヤは返答の意味を理解し青ざめながら、すぐにでもへばってしまいそうな精神を奮い立たせながら反論した。「待て!この刑は明らかに憲法に違反してる!これは明らかな人権侵害だ!基本的人権を侵害してる!不当な判決だ!それに...人体を使った薬物の実験は本人の同意が必要な筈だ!さらにこれは非人道的な実験だ!ヘルシンキ宣言にも反している!」

 反論を聞き、執行官はニヤリと笑いながらイチガヤに説明した。「そうか、お前は知らないよな。イチガヤ。お前の言っているその憲法とやらはお前が逃亡してる間に改正されたんだよ。いや、厳密にいえば停止された。それに伴って本人の同意とやらは必要なくなったんだよ。我々は君を自由に扱えるわけだ。確かにお前が言う通り、国際条約やらなんやらいろいろあるらしいが、そんな物は戦争で形骸化したからな。国連本部は2048年のあの戦争で最後の欧州集中核攻撃で崩壊、各地支部も今じゃ廃墟だ。総会もここ10年以上開かれてない、国連も国際法も条約もなくなったに等しいんだよ。この国の法がお前に与える罰則では全てだ。宣言なんかを高らかに押し付けられても知ったこっちゃない。」

イチガヤは再び反論する。「だが...憲法改正、ましてや停止なんて国民投票が必要な筈だ...少なくとも憲法にはそう規定されてる筈だ...」

執行官は次は怒鳴りつけて言った。「まだお前は幻想で物事を見ているのか!良いか!2049年からこの国の主導権を握っているのは軍だ!そして武装警察だ!その二組織がこの国で政権を運営している!お前だって知ってるだろ!文民で作った政党なんてものは全部過去の遺物だ!国民主権もクーデターと内戦で消えた!憲法は今まで形だけ残っていたにすぎない!この国の全ての決定を裏付けているのは憲法では無く銃だ!」

 イチガヤはついさっきまでニヤニヤしながら説明をしていたのに、いきなり怒鳴り始めた執行官への驚きと怯え、重ねて刑罰をひっくり返せないことへの絶望感から体の力が抜け被告人席に死体のようにダラリと座りこんでしまった。

 執行官は息を整え、落ち着いて言う。

「ごだごだ言っても仕方ない、憲兵隊、こいつを執行室に運べ。刑をすぐに執行する。」執行官がそういうと、法廷の扉の両隣に立っていた四人の銃を持った憲兵がイチガヤを無理やり立たせ、外へと連れ出した。

 イチガヤは力なく一言吐き捨てた。「いかれてる。」


2066年、執行室「14時05分」

 イチガヤはベッドの上で寝かされ、拘束具を付けられている。

 白衣に身を包んだ医師がイチガヤに説明する。「君にこれから投与するのはゼネストロイドという幻覚剤だ。あと君にはこの装置を頭につけさせてもらうよ。」

そう言うと医師はイチガヤの頭に、様々な線が付いたヘッドギアのような物をかぶせた。

「映像は映ったか?」医師はガラス越しに見える別室で何かわからない装置を操作し、ブラウン管モニターを眺める技師に聞く。

「映ってます。精神階層の一段階目の典型的なものです。」技師は答えた。

 「そうか。よし、投与を始めよう。」医師はそう言うと手元のジュラルミンケースから注射器と薬品の入った瓶を手に取り、用意を始めた。

イチガヤはベッドの上で体を大きく震わせながら叫ぶ。「こんな事狂ってる!許されていいはずがない!クソ!クソ!」

 医師は彼の罵詈雑言に負けないよう声を大きく張って言う。「警備!取り押さえてくれ!」医師の一声の後、警備兵が彼の体を取り押さえ腕を医師の方向へ差し出す。医師は差し出された腕に不気味な反射光を放つ針を突き刺し、薬品を注入した。

 イチガヤは興奮のあまり、痛みを感じることは無かったが薬品がすべて体に流し込まれた後、激しい眩暈に襲われ気を失った。


 医師は処置を終えるとガラス越しの別室へと移り、技師と共にブラウン管モニターを見る。

「今はまだ第一階層ですね。しかしこれで五階層目に到達するんですか?」技師は医師に尋ねる。

「理論上はね。この薬の成分と配合なら恐らく五階層目に行けるはずだ。だが...正直分からないのが実情だ。2036年に学会でノイマンの精神五階層を提唱したノイマンが、自らを実験体にした薬物投与で行けたのは四階層までだ。それに...彼はその実験で死んだ。そのあとも世界中の学者がこぞって『理論上』五階層に達することのできる薬品を作っては試したが...どれも失敗。四階層が限界だった。」医師は緊張した顔で言う。

「ノイマンの精神五階層...確か進めば進むほどその人間の精神の深くへと入り込むんですよね。」技師は言う。

「そうだ。階層が増すにつれその人間は自分の精神に潜む何かを知るわけだ。そしてそれを我々はノイマン精神映像化機で映像としてみるが出来る。」医師は技師に向けて精神深層医学の教科書に書かれている文言をそのまま言った。医師は集中力を高めるために胸ポケットに入れていた銀色のケースからアンフェタミンを取り出し、口へと放り込む。

「一体、何が見えるんですかね...」技師は言った。

「さあね。見てからの楽しみだ。もしかしたら私たちが初めて五階層を見れるかもしれないな。研修開け初の仕事で世界初の五階層目を見れたら一生記憶に残る体験だ。」医師はアンフェタミンを飲み込み、技師の方へ微笑みながら言った。


年不明、場所不明「日時不明」

 イチガヤは目を覚ますと執行室とは別の何処かにいて、目の前に三つの門があることと、さっきまでつけられていた拘束具が無いことに気づいた。「なんだこは...」

 三つの門は一番左が木製の洋風建築に見られる扉、真ん中の物が和風建築に見られるふすまで、一番右の物が無機質な鉄製の扉だった。

 彼は恐る恐る、それぞれの扉に近づきくまなく見ると一番右の鉄製の扉を開け、中に入る。鉄製の扉の先には一本の、途方もなく長い道路があった。彼はその道路を見た後引き返そうと思い、後ろを向いたが扉は消えていた。

「どういう事なんだ...扉が消えたぞ、戻れないのか!」彼は非現実的な状況に混乱しながら一度叫んだ。

 その時上からポトリと、ルーズリーフの切れ端が落ちてきた。切れ端にはブラックブルーのインクで書かれたメッセージがあった。『恐れることは無い。進みなさい。最後までたどり着けば元の場所へ戻れる。』彼はそのメッセージを見るとなぜだか落ち着きを取り戻し、地平線まで見える長い道路を歩き始めた。


2066年、執行室「14時53分」

 「現在は第二階層、ルーズリーフも道もほかの被験者と同じ。今のところ目立った変化はありません。脈拍、血圧も正常です。」技師は安堵した顔つきで医師に報告した。

「分かった。今後も観察を続けよう。」医師は何処か上の空で答え、アンフェタミンを入れているピルケースを揺らす。音はしなかった。ため息をつきながら彼は配給品の煙草に火をつけユラユラと宙を舞う紫煙を目の虹彩の内側にある黒い空洞で眺めていた。


 ノイマンの精神五階層。人間の精神は五階層に分けられ、最下層にはすべての人間の精神の原動力、根幹があるとする学説。

 これが提唱された2036年、国家研究計画部はこの説を気にも留めていなかった。 

 その中、世界大戦後の2049年に軍と武装警察が国家の全権を掌握し、独裁政権を運営していくとプロパガンダやマインドコントロールでは人の全てを操る事は困難であり、別のアプローチを試みなくてはならないと考えた。当初政府は大々的なプロパガンダや政権讃美の報道を行い、教育から国民生活まであらゆる所にマインドコントロールを組み込んでいた。

 だが、いくら政府が力を入れても人民戦線や国民連合、民主同盟のような反政府組織がゲリラ闘争を続け、戦前の自由を望む国民から支持を受けていた。このような状況を受け、政府は人間の精神奥深くに干渉し、根底から完全に人間を操る方法を模索。政府は国民全員への薬物投与や食料への薬物混入で薬物依存による衆愚化や新生児を全て国が管理し、幼児の頃から徹底的な洗脳教育を行い国家に従順な新しい国民を作り出そうとする計画まで、様々な案が出し、局地的な実証実験が数多く行なったがどれも失敗に終わった。そのような中、帝都科学大学の研究チームは以前に提唱されていた学説、ノイマンの精神五階層に目を付け国家研究計画部に資金援助と人員援助を要請。そして2060年、政府と国家研究計画部はノイマンの精神五階層を国家重点開発目標に指定し、帝都科学大学を中心に国内の学者を集め急速に研究を進めた。その研究の成果が今回の実験である。これを成功させれば今後の生活も、名誉も全てが約束される。彼がこの実験にかける情熱は国がかけているもの以上だった。


 医師は煙草を吸い終えると、再びノイマン精神映像化機のブラウン管モニターに目を向けた。サイケデリックな図形が映っている。第二階層から第三階層へ移行する時の典型的な様子だ。医師は画面から目を離し、ガラスの向こうに見える目を閉じたイチガヤの様子に注視した。


年不明、場所不明「日時不明」

 一瞬、視界がサイケデリックな景色に支配され、視界が晴れる。視界が明瞭としてくると、先ほどまで長い道路を歩いていたのにも関わらず、近代ヨーロッパのような街並みの場所にいた。イチガヤは困惑する。

 「なんなんだ...」ぼそりと呟くと、彼の視線の先からモクモクと灰色の煙を出す車がやってきて、彼の前で停車した。運転席から白いひげを生やし、紙巻きたばこを咥えた男が出てくる。手元にはドイツ語で書かれたと思われる新聞と何故か、中国の占い易経で使われる道具を持っていた。

 男が車から出てくると突然、イチガヤと男の間に台が出現し、男はそのうえで易経を始めた。『カラカラ』『ジャラジャラ』と棒と棒が当たる音がする。

 易経を終えるとと男は一言、言った。「この先を進みなさい。どうやら、まだ進むべきだと易経は言っている。この車を使いなさい。」男はそう言うとイチガヤに質問をさせるまもなく立ち去ってしまった。

 イチガヤは頭の整理が追い付いていなかったが、ルーズリーフの『最後の場所まで進めば帰れる』という言葉を信じて男に言われた通り車に乗り込んだ。

 車に乗り込むと、街並みが崩れた。いや、倒れたといった方が正しい。町の家々や店は全てベニヤ板に書かれた絵だったのだ。街並みが倒れるとそこは荒野で、一本の、長い道だけがある場所だった。彼は車を走らせ先へと進む。


2066年、執行室「15時30分」

 「第三段階はどうだ?ここら辺から大筋は同じであれど、見えるものに個人差が出るだろう。」医師は問う。

「街並みは1890年代のヨーロッパ、降りてきたのは髭を生やした老人、移動手段は自動車、手にしていたものは新聞と紙巻きたばこ、それと占いの道具は易経でした。」技師は言った。

医師は、神妙な顔もちで言う。「移動手段が自動車...これ自体はよくあるのだが、占いの道具、これが易経なのは私の経験とみてきたものの中だと初めてだな...ほかの被験者の多くではタロットカードか手相占いが用いられるのだが...気がかりだな。もしかしたら、結果がだいぶ変わるかもしれない。注視しよう。」

「分かりました。」技師は画面から目を離さずに答えた。画面は再びサイケデリックな図形に変わる。


年不明、場所不明「日時不明」

 イチガヤは車を走らせていると再び視界がサイケデリックな図形に支配された。視界が晴れる。

 目の前の光景は先程の荒野とは変わり、モンゴルや中国の北を思い起こさせる草原が広がっていた。その地平線の向こうから青みがかった、無機質な軍服を着た二人の男が向かってくる。確かあの制服は...歴史の授業で見たことがある。八路軍(日中戦争時に華北で活躍していた中国共産党軍の通称)の制服だ。

 彼らはイチガヤの前まで来ると、無言でイチガヤの腕を掴み、何処かへと連れて行こうとした。すると二人は突然体が溶けはじめ、地面でスライムのようなどろどろとした液体となり融合した。単一の物体となったスライムは段々と固形物となり、一つのヒトガタになった。形成されたヒトガタはさっきまでいた八路軍の制服を着た男ではなく、古代中国の官吏を思わせる服装に身を包んだ男だった。

 イチガヤが唖然としていると男は口を開いた。「二人の男は死んだ。そなたを止めようとしたようでな...孔子の怒りを買ったんだ。孔子はそなたにまだ進むべきだとおっしゃった。まあ...この歪な世界を進むのは相当な苦労だが...もし運よく終着点まで行ければ...得れるものがあるかもな。」

 そう言うと男はゆっくりと姿が薄くなっていき、消えた。男の消えた後には一頭の馬が残った。どうやら、これを使えという事らしい。イチガヤは馬にまたがり先へと進んだ。


2066年、執行室「15時59分」

 「第四階層への移行確認しました!精神映像化機の記録は、今までの実験結果とは異なります!軍人も官吏も孔子もいかなる状態でも出た記録がありません!ここを超えれば成功ですよ!」技師はノイマン精神五階層実験の過去の資料を片手に、顔を赤くして興奮しながら話す。

「よし!でかした!映像化機の録画容量はまだあるか!?」医師は声に黄色い喜びを混ぜながら言った。

「録画容量は大丈夫です!あと688ペタはあります!」技師が答える。

「よし、なら大丈夫だ!良いか俺たちはこれから歴史的な瞬間を見るかもしれない、よく目に焼き付けて置くんだぞ。」医師は技師の肩にがっしりと手を置いて話した。画面はサイケデリックな図形では無く、どこなのか分からない海岸の静止画になっていた。

 

年不明、場所不明「時間不明」

 イチガヤは馬に乗り、草原を走っていた。騎乗の経験など無いはずだ。しかし驚くほどうまく馬を操れた。何故かはわからないが何か壮大で畏怖すべき存在が、自分をこの先へと推し進めているのでは無いかと思った。

 視界が海岸の静止画に変わる。イチガヤは馬にしがみつき、落ちないよう必死になった。

 視界が晴れると、そこは東京だった。しかし何処か違和感がある。彼がいつも見ている東京とは異なる。何故だろうか。

 そんな事を考えていると後ろから声が聞こえた。「さっきは私の使者が失礼をして悪かった。少し暴走したようでな...孔子が別の使者に始末させたが...申し訳ない。」

 イチガヤは声の方向を振り向く、そこには毛沢東と瓜二つの男が立っていた。イチガヤはこの奇妙な世界に訪れてから元の世界で見たことのある格好の人間は見ても、顔を知っている人間には出会わなかった。しかしここで初めてイチガヤは自分が知っている人物にあった。直接見たことは勿論ないが。

 イチガヤは驚きのあまり声を上げた。「毛同志ですか!?何故ここに...」

イチガヤの声のさきにいる男は答える。「いや、私は毛同志、君の精神深層から読み取るに『毛沢東』と言う名前のその人物ではない。彼の姿を依り代にしてるだけだ。」男は言った。

「そうですか...」イチガヤは残念そうな声で言った。

「君の期待していた人間でなくてすまない...本当なら2や3の表層の者達のように自由に姿を変えたかたかったが、この階層に来ると君の精神に影響を及ぼした者の姿しか選べなくてな...使者の姿があの形だったのもそういう事だ...」男は淡々とそう話した。

 男は再び口を開いた。「ついてきなさい。主の待つ場所まで案内する。」そういうと男は歩き出した。

イチガヤは問う「主とは誰ですか?私の心の奥にいる存在ですか?」

「それは分からない。主が何者なのか。それは主か主に出会った人間だにしか分からない。」男は答えた。

「主とあったことのある人はいるんですか。」

「過去に数人いた。しかしここ数百年はいない。君が久しぶりの来訪者だ。」

「主とはどのような姿をしていてどの様な人物ですか?」

「主の姿はその領域に達した人間だけが見ることが出来る。だから私は知らない。私はあくまで主の使者だから主の姿を見たことは無い。」

 二人はこの会話のあと、プツリと黙りこんで先へと進んだ。


2066年、執行室「16時44分」

 「でかしたぞ!これで第五階層が分かるぞ!」医師はそう叫ぶと、技師の肩を固く掴んだ。「え、ええ!やりましたよ!やりましたよ!」技師は医師の叫びにそう返し、満面の笑みで医師の方を振り向いた。

 医師は感無量の表情を浮かべた後、ハッとなり近くの警備兵に言った。「すぐに首相に映話を繋いでくれ!」警備兵は指示を受けると、2030年代後半まで使用されていたスマートホンくらいの大きさの、ステンレス製でタッチスクリーンと幾つかのボタンが付いた機械を持ってきて医師に手渡した。

医師は装置を手に取ると慣れた手つきでボタンを打鍵していき、タッチスクリーンに映った『特別回線連絡』の表示をタッチした。ザーーーーーーーーーッという砂嵐のような音が数秒響くと、ぼんやりと目の前に軍服姿の男を映しだしたホログラムが現れた。

 ホログラムの男は話し出す。「結果はどうだ?進展はあったか」

「ええ!首相!勿論ありました!初です!初の快挙です!第五階層に突入しました!」医師は声を黄色くして答えた。

「何?本当か?」首相が短く返す。

「はい!本当です!今被検体は第五階層で意識を彷徨わせてます。これから全てが明らかになります!」

「分かった。よくやった。被検体をどうするかはこちらで決める、実験終了後は拘束しておいてくれ。国研計画部(国家研究計画部)所長にはこっちから話しておく。」首相は冷静に言葉を返した。映話機のホログラムは背景に溶け、空気の中へと消えた。

 医師は映話機を警備兵に返し、再び精神映像化機へと歩み寄り技師の肩に手を添え言った。「この先を見よう。」


年不明、場所不明「時間不明」

 どれくらい歩いただろうか?少なくとも3時間程度歩いた気がする。イチガヤはそんな事を考えながら、前を歩いている男の後ろをついていった。

 「とまれ。到着だ」男は突然声を上げると立ち止まり、イチガヤの方へ向いた。

「扉も何もないですが...ここに本当に主がいるんですか?」イチガヤは聞く。

「なに、待っていなさい。主はすぐに現れる。さて...私はここで離れないといけない、私はあくまで案内人だ。」男はそう言うとイチガヤの横を通ってもと、来た道を帰って行く。

「そうですか...案内ありがとうございます。」イチガヤは謝礼の言葉を述べながら、上半身を30度ほど前へ倒し礼をした。

「主が何を話されるかは分からないが、恐らく君が表層へと帰った後にも役立つことを話してくれるだろう。楽しめと言うと語弊があるが...とにかく貴重な体験だ。一言一言を大事にするように。私も数百年ぶりの客人を案内できて満足だ。こちらこそありがとう。」そう男は言うと、10メートルほど道を歩き、徐々に姿が消えたちまち見えなくなった。

 イチガヤは男が消えたのを見送ると、前を向き変化が出るのを待った。すると

『ブウウウウウン....ブウウウウウン』というボンボン時計から鳴るような音が鳴り響いた。

 音が鳴りやむとたちまち変化が起き始めた。

まず空に浮かぶ太陽が急速に沈み、そして月が一瞬のうちに現れる。それを繰り返し始め、地面は割れ、地面が割れたところから水が出てきた。水はイチガヤのくるぶし、膝、腰、首までと...水位を上げついには口に水が入り始めた。

不味い、溺れる...イチガヤは激変する環境に唖然としたが、危機感から必死に泳いだ。水位はまだ上がる。星に近づいているような気さえしてきた。何とか陸地を探そうと必死に足と腕を動かすが、疲れで満足に動かなくなってきた。

足と腕が動かせなくなった。イチガヤは沈みゆく中考える。嗚呼...ここまでか...主なんてものは嘘だったのだ...実験刑はおそらく俺の頭を好きなだけ捏ね繰り回して、玩具のようにもてあそんでからこうやって、非現実で殺す為のものだったんだ...彼は朦朧とする意識の中、前頭葉を憎しみと悔しさの感情に一杯にさせ沈もうとしていた。

 その時だった。突如波が収まり、イチガヤの目の前にロープがたらされた。 イチガヤはロープの垂れてきた方向へと目線を上げる。そこには一隻の船があり、甲板から何者かがロープをたらしている。イチガヤはそのロープを掴もうと思い切り手を伸ばし、掴んだ。ロープがイチガヤの体と一緒に甲板へと上がっていく。

 『ドテッ』イチガヤは鈍い音と共に甲板へと引き上げられる。ゆっくりと起き上がる。

「苦労があっただろうがよくここまで来た。」イチガヤが上半身を前に大きく曲げ、手を膝に置き、『ゼエゼエ』と息をしていると頭の斜め上から声が聞こえた。

頭を上げる。目の前には古代ギリシア風の格好をし、白い髭を蓄え、頭には特徴的な真っ黒で長いくせ毛を持ち、顔には深いしわ、体は少し細く、目は年からか弛んだ瞼で小さく見える物も、バイカル湖を思わせるほど美しく、そして聡明な雰囲気を感じさせる蒼眼を持った老人が立っていた。

「貴方は...主ですか?」イチガヤは息を整えてから老人に問う。

「ああ、そうだ。私がそなたが探し続けていた。いや、厳密には私が呼び出したといった方が良いだろう。とにかく私がそなたの言う『主』そのものだ。」老人は答える。

「そうですか...なるほど...貴方が主なのですね。しかし呼び出したとはどういうことですか?そして私が探したとはどういう事ですか?私はあくまで、幻覚剤でここに来ただけですよ?」イチガヤが怪訝な顔をした。

老人は表情を変えずにイチガヤに言った「幻覚剤はあくまで入口に案内しただけだ。それも第二層や、第三層そあたりまで。第四層からはそなたは私とその他の、この精神世界の住民の助け、そして何よりもそなたの持つ力がここに立つための動力となったのだ。その最たる例は先程の洪水だ。そなたはどうやら、薬によって殺される過程だと考えたそうだが、それは違う。そなたに訪れた最後の試練だ。そしてそなたは試練を超え、自らの内面の『答え』を探す為にここに立っている。」

「ではあの洪水や、ここに来るまでの奇妙な体験は貴方が...しかし答えとは何ですか?これに関しては理解できません。」イチガヤは理解と疑問を口にした。

老人が答える。「そなたが何をすべきだったか。端的に言えばそういう事だ。」

「それはおかしい。それなら答えなら私は見つけている筈だ。」イチガヤは冷静だが力を込めながら反論する。「私は間違った方向を行く祖国を救い、そして祖国によって束縛されているプロレタリアを解放する。このために銃を持っているんだ。これが答えだ。」

 老人は難しい顔をしながら話す「変革、維持、求道、無価値。これの意味がそなたは分かるか?」

「...いや、分からない...」イチガヤは数秒顔を下に向けたあと答えた。

「これは人の、人間の存在価値の種類だ。変革は優れた知性、文化性を持ち人類社会に発展や変化をもたらす。維持は変革程ではないが高い知性や、文化や技術の保護に対する才覚をもち、変革の作った秩序を守る。求道は哲学や宗教的思考を用いて道徳や生き方を自問自答し、時には大衆に精神的安寧を与える。そして無価値、これは名前のとおり何の役割も持たずただただ変革や維持、求道のもたらした余慶を貪りつくすことしか出来ない者だ。人は全てこの四つの価値、種類に分けられる。」老人はイチガヤに答えを与えた。

 「では、どれほどの人がこの四つにどれほど分類されているのですか?」イチガヤは老人に聞く。

「無価値が9割だ。そして0.6割が維持、0.3割が求道、0.1割が変革だ。」老人は淡泊に述べた。

「では、私は...私は何処に分けられているのですか..?」イチガヤは緊張した面持ちで問うた。

「無価値だ。9割の中の一人だ。」

「...」イチガヤは老人からなんの躊躇いもなく、あっさりと伝えられた真実を前に沈黙した。

 「私が何故そなたをここに呼び出したかわかるか?そなたは変革ではない、無価値なのだ。私には表層にどれほどの人間が現状生きているかは分からないが太平の世も乱世も常に変革、維持、求道、無価値の割合は変わらないのだ。そしてどの世でもそなたの様な思いあがった無価値や逆に自らの使命や本当の価値が分からない者がいた。そんな輩が現れるたびに様々な形でここに呼んだ。そなたは9割の中の一人なのだ。そなたは思いあがったのだ。そして戻る事の出来ない所まで来てしまった。」

「じゃあ...じゃあ私は何をしてきてたんですか...?プロレタリアの為の革命を謳って、軍人や警官を殺したのも、反動的で前世代的な思想を持ったブルジョワ的な同志を殺したのも、国防省を爆破したのも、全て無駄だったと言うのですか...?それは余りにも...」イチガヤは肩を落とし、真っ青な顔で語ると全てを口に出す前に老人が言葉を挟んだ「そうだ。無駄だ。無駄だったと言う事だ。そなたの周りにいる者、それらも皆、思想と自己に溺れ革命論を謳い、血を流した。本来、世に変化をもたらす集団と言うのは変革に導かれ無価値であろうが求道であろうが維持であろうがそれら全てが世の改造に携わらる巨大な集合体となる。だが、そなたらには導く者はいなかった。そしてそれに気づこうともしなかった。挙句の果てには選択を誤った。恐らくこれからそなたと同じ志を持っている者は表層で姿を消していくだろう。それも変革だろうが無価値だろうが見境なくだ。そなたとその周りの者が遺したのはこれなのだよ。この結果だ。そなたは八路軍や、初期の中国共産党に憧れ彼らを目指したようだが、諸君らにそのような高潔さも賢さもなかったのだよ。」

イチガヤは老人の言葉を辛うじて膝を落とした状態で聞いていたが、最後まで聞くと床に頭を伏せ数分、頭を掻きむしったあと発狂した。甲高い叫びと低い叫び。これが不定期で交互に響く。ところどころに単語の塊のように聞こえるものや文のように聞こえるものがあったが、何を言っているのかは判別がつかない。満員の超弩級戦艦でも響くほどの叫び声が二人しかいない船の甲板に響く。

 老人はうずくまりながら発狂するイチガヤをシベリアの青い氷のようでマリアナ海溝のように深い思慮に富んだ目で冷淡に見つめた。暫くすると老人は口を開いた。「これがお前の罪だ。罰だ。これが自らを過信し、思いあがった者の受ける罰だ。」

イチガヤは発狂し続ける。

「懺悔をしろ。罰を受け入れよ。」

 イチガヤは自己否定と自らが行った残虐行為に対しての罪悪感、また『これから同じ志の者が表層から姿を消す』という言葉から、同志と己の行く先を察し、絶望感に襲われた。それらの感情が1000度に熱した鎌となり、脳髄を切り裂いた。熱さと鋭い痛みにイチガヤは悶え苦しむしかなかった。イチガヤは絶え間ない苦しみに意識が遠のき、気を失った。刹那、イチガヤは自らに今まで芽生えた事の無い反省の念を抱いた。同志に対する念と、今まで同じ人とすら思っていなかった軍人や武装警官に対しても感じる念だった。


年不明、場所不明、「時間不明」

 イチガヤは目を覚ました。気を失う前と違い落ち着き払っていた。先程の甲板上とは異なり、明治時代や大正時代の建築を思わせる、天井がドーム型になったレンガ、大理石で壁と床の作られた大きな広間の様な場所にいた。

 立ち上がり、部屋をグルリと見回す。だだっ広い広間に幾らか家具や絵画があるのを見つけた。イチガヤからみて右側にはギロチンで首を刎ねられた上流階級とその首を高々と大衆の方へ掲げる処刑人の書かれた絵があった。恐らくフランス革命の様子を描いた物だろう。左側にはゲルニカが飾られている。フランス革命の絵画側の席には、黒壇だろうか、重々しい雰囲気の漂う木材で作られた椅子と、鉄板と鉄パイプを溶接しただけのぞんざいな作りの机がある。ゲルニカ側には玉座だろうか、高貴な身分の者が座る様な荘厳な装飾がされた椅子と、雰囲気が重々しい、一部に本棚がついている机がある。イチガヤは本棚に目を凝らす。本の装丁や題名はイチガヤ側にも見えるがどれも日本語ではなく、アラビア語等で綴られている為、何の本か検討もつかない。席の他に正面にはイギリス議会の下院に在るものとよく似た木製のドアがあった。イチガヤはフランス革命側の席へと座った。

『ギイ...』ドアが開く音がする。老人がいた。

老人はイチガヤがフランス革命の席に座っているのを見ると、ゲルニカの席に進み、腰を下ろした。「そなたにはこれから表層に帰ってもらう。そなたを捕えているものと、行く末を決める者の精神を覗いてきてな...しかるべき罰を下そうとしているだ。」老人は本を手元に寄せながらいった。

「罰とは?罰とは何ですか?」

「死だ。」二人の間に微妙な間隔が生じる。

「それは...そうですか。分かりました。」イチガヤは一度、動揺を見せながらも老人の投げかけた、自らに降りかかる二度目の刑を受け入れる返答をした。

「もう喚かないのだな。」

「ええ、仕方の無い事です。『答え』の選択を誤ったのです。そして、同じ人間であるにも関わらず、役職や立場だけで相手が人である事を否定して...殺した。それなりの罰を受けます。」イチガヤは言う。

老人は快晴の空のように青い目をイチガヤにしっかり向けて言う。「これから表層に案内する。ついてこい。」老人とイチガヤは歩き出した。

 二人は重厚な扉を開き、長い廊下を歩く。両壁はモルタルづくりで、怪しい光を放つ赤色灯が等間隔に設置されている。床は木製だ。その廊下をコツコツと足音をたて、無言で進む。500メートル進んだ頃だろうか、鉄扉があった。

 老人が言う。「この先に、帰るための物を用意しておいた。」

「はい。では...これで失礼します。」イチガヤは難しい表情を浮かべて答えた。

「戻る事に迷いがあるな?死は恐れる物だ。仕方ない。自らすんなりと死地へ足をすすめようとする者はいないだろう。それに、同じ志を持った者も『多く』が消えるからな...だが...思想が息絶えることは無い。そなたは愚行を犯し、それが原因でそなたの信仰する理念は打撃を負う。だがそれは全てが滅ぶ訳では無い。賢き者が...信仰を続ける、始めるかもしれない。そうとだけ言っておこう。さあ帰れ。」老人は別れを告げると鉄扉を開き、イチガヤを優しく押し出した。

『ギイッ...』鉄扉は軋む音を立てると消え去った。

 目の前には草原が広がる。その中にぽつんと九試単座戦闘機がある。イチガヤはコックピットに乗り込む。発動機の起こし方も、操縦も何もわからなかったが突然、機体は動き始めた。そしてコックピットの中央に、元の機体にはないはずのスピーカーから音声が流れ始めた。「イチガヤさん。初めまして。今からあなたの帰宅を手伝います。」機械から流れているとは思えない、温かみのある女性の声だ。

「私の事が分かるのか?私の言葉に返答は出来るか?」イチガヤは動揺しながらスピーカーに語りかける。

「ええ!勿論!しっかり認識していますし返答できますよ。帰宅までは暫く時間がかかりますが何かお話でもしますか?」スピーカーはイチガヤの問いかけに黄色い声で返す。

「ああ、最後の旅だからな。ゆっくり話でもしたいよ。それにしても個人を認識して、会話まで出来るとは驚いた。まるでラシュモア効果だな。」

「ラシュモア効果ですか!確かににてますね。それにしてもラシュモア効果なんて言葉、久しぶりに聞きましたよ。イチガヤさんは英米のSFが好きなようですね?私もSF文学、ディストピア文学が好きです。」

「英米SF...大好きだよ。しかしラシュモア効果がSFを語るのか。面白いな。フィリップKディックの話でもしようか。」イチガヤは微笑を浮かべながら、ラシュモア効果と話をつづけた。


九試単座戦闘機は翼を銀色に輝かせ、『二人』の声を響かせながら空を駆けていった。


「蛇足」

2129年現在、我々は偉大なる同志と、連帯から二次大戦後から三次大戦までの中間期で享受したのとほぼ同様の安定を与えられている。この様な現状は祝福すべき物であり、維持すべき物だ。

 しかし、内戦、戦争、政治的混乱を忘れてはならない。安定の維持のためには記憶と思考が必要なのだ。

 今日こんにち歴史資料や過去の軍事機密、政府機密は連帯の学識豊かな同志と、各地の人民大学の研究者の手によって白日の下に晒され、自由な歴史、政治考察が可能となった。

 私はここでこれらの資料と、また過去の勇気ある人々が残した手記や一次資料をもとに、三次大戦と我が国が今に至るまでの経緯を書き記していく。

 第三次世界大戦は静かに蓋が切られた。2042年、東シナ海と南シナ海で紛争が勃発、日本海では日本国防軍海軍と中国人民解放軍海軍の間で散発的な戦闘が起き、インドやベトナムなどでは陸戦、韓国、北朝鮮では朝鮮戦争の再熱、台湾では海戦と陸戦が起きた。

 この戦いは両陣営の戦力が拮抗していた為、戦線が膠着。そして2045年、米中両国は核兵器を使用した。先制攻撃したのは中国だった。中国は立場を明らかにせず、極東で動員を進めるロシアへの警戒、不信感と複雑な国内状況により継戦が困難な状況にあり、戦況の好転の為に先制核攻撃を行った。核攻撃により、インド、東南アジアの前線、韓国の青瓦台や釜山港、日本の主要都市や国防軍施設、アメリカやヨーロッパの主要都市は甚大な被害を受けた。その後は核の応酬と人道を失くした戦いが世界を覆った。結果、東京は一部を残し焼野原に、ニューヨークの国連本部はコンクリート片になった。2048年、欧州集中核攻撃が実行。ベルギーのEU本部も、各国の政府施設もジュネーヴ臨時国連本部も消滅。その後、アメリカの報復攻撃により北京、上海など中国の主要都市も焼け果てた。この攻撃のあと、両陣営は長い沈黙に入る。翌年2049年1月05日、人民解放軍海軍空母「遼寧」の甲板上で太平洋平和条約が締結。講和内容は領土不割譲、不賠償金、戦闘行為の終了と...白紙講和であった。この戦争は多くの文化、人命、技術、更には国連と言う国家間の調整機関すらも火にくべてしまった。

 日本が動乱を極めるのは戦後からである。戦時中、日本政府は国内に戒厳令を特例として施行。軍部と、軍の直属機関として組織された武装警察は、戦争で多大な権力を得ていた。

 軍、とりわけ陸軍は戦争終結後に権力を手放す事を嫌がっていた。また、海軍や空軍の兵士は講和の内容に反発、中国への徹底抗戦を求めた。

 これらの権力欲と徹底抗戦と言う狂気が結びついた結果、2049年2月26日、軍事クーデターが発生。陸海空軍と武装警察は東京から関東へ関東から東北、中部、近畿、北海道、四国、九州、沖縄と進軍し、短期間で制圧。3月01日には正式に軍事政権の発足と日本帝国の成立が国会、後の軍事翼賛議会で宣言された。

 これに対し国民は武器を取り反抗、日本内戦の始まりである。この戦いは二か月にわたり続いたが軍事政権側が勝利、独裁体制がより一層盤石な物となった。

 内戦後、各地で民主主義勢力、社会主義勢力、が反政府組織を小規模ながら結成、2052年には国民連合、2054年には民主同盟、2059年には人民戦線が発足した。

 そして2066年に霞が関蜂起が人民戦線主導で発生。これは失敗し、政府が「軍事翼賛議会指令A‐23(思想浄化作戦)」を発令するきっかけを作ってしまった。指令発令後、おおくの思想家が処刑されたり、非常に少ないが出ていた国際便で亡命する者が続出した。

 また国内でも政府の監視をくぐり抜けたり、検挙を免れた社会主義思想家や、民主主義者は思想を自らの胸の内に潜め、政府に感づかれないよう、一般的、または模範的な国民を装った。

 海外では日本の動向を警戒する国もあったが、ほとんどの国は国際情勢より、国内の復興に気を取られており、むしろ日本の強制収容所で製造された(名目上は政府直営の技術者養成学校で作られたとされた)安価な機械部品は重宝され、日本で起きている非人道的、非民主主義的行為は無視された。

 霞が関蜂起のあと、国防省爆破を実行した第一赤衛行動隊、隊長のイチガヤと言う人物が逮捕された。

 彼は「ゼネストロイド」と言う薬物の実験体にされた。

これは政府がマインドコントロール、プロパガンダより強力な国民に対する洗脳の手段を探求するための薬物として考案されたものである。現代精神医学や職業適性診断の基礎とされているノイマンの精神五階層研究の過程で生まれたものだ。

 結論、ゼネストロイドは史上初めて五階層目の探索成功と言う偉業を成し遂げたが、完全なものではなかった。だがこの結果から得れた成果は大きく、後にゼネストロイドの完成品と称される「デキスロン」のもとになり、また現代の「国民精神階級別居住地職業決定検査」制定に多大な影響を与えた。

 なお、イチガヤ氏はこの実験後、脳の解剖の為に処刑された。結局この実験は洗脳方法につながる答えを出すことは出来ず、国民への完全な洗脳と言う計画は失敗に終わった。

 日本帝国と独裁政権は2084年に崩壊することとなる。崩壊の発端は2078年に軍事翼賛議会で海軍、空軍派閥が要職を占めたことから始まる。海軍と空軍は49年の政権発足後から中国再侵攻を訴えていた。だが陸軍と武装警察は対中戦は困難である事と、国内情勢安定化の優先を主張し、海空軍の意見をはねのけ、政権の要職から海空軍を締め出し、対中戦争を防いで来た。

 だが2078年、武装警察長官と国防大臣兼軍事翼賛議会議長(首相)が建設中の地下都市「新東京」の視察に行った際、ホバーカーが運搬中だった形状記憶セラミック板の落下により死亡。また日米露三国同盟締結でアメリカに赴いていた外務大臣が真空地下鉄の事故で死亡。そのほかの陸軍、武装警察系政府要人が相次いで死亡した。(後の調査でこの政府要人の連続怪死は海軍が創設した、中国大連を拠点とし、大陸を監視している諜報機関「大連機関」によって行われた犯行だと発覚した。)その後、政府の全権は海空軍の手に渡り新政府が編成された。

 政府は四ヵ年計画を発表し戦時体制へと進んだ。陸軍と武装警察は戦争阻止に奮闘したが、大連機関や空軍憲兵によって組織的行動を封じられてしまった。

 2082年4月02日に日本帝国は中国に宣戦布告、海軍と空軍は総力を出し日本海の制海権確保に乗り出した。

 日本帝国はロシア、アメリカに参戦要請、だが米露は大戦勃発を危惧し、参戦要請拒否、そして人民解放軍海軍の激しい抵抗により、日本海の制海権確保は失敗。戦況は劣勢となった。

 2082年9月には沖縄が陥落、11月には空挺部隊が北海道に上陸、12月には人民解放軍本軍が上陸、北海道全土が占領された。

 軍は人民解放軍が本州に上陸することを恐れ、青函トンネルを市民が避難中であるにも関わらず爆破、この様な行為や、戦争の劣勢、長年にわたって沸々と溜まった独裁体制への不満が爆発、全国で暴動と、下火になっていた革命運動が息を吹き返した。暴動勃発と同時期、国外に亡命していた思想家が日本への一斉帰国(密入国)を開始した。思想家達は全国各地の革命組織の顧問として活動に参加。また一部では帰国者が新たに組織を結成したり、過去の組織を復活するなどした。

 2084年9月02日、東京で活動していた帰国者組織「東京同志同盟」が全国の革命組織に秘密回線で呼びかけ、三次大戦で荒廃した東京千代田に建てられたスラムビル、「千代田城塞」で「日本連帯」が結成した。連帯は民主主義勢力と社会主義勢力が、軍事政権打倒を掲げ結束した組織である。

 連帯は優れた統率力と海外仕込みのゲリラ戦術で、政府機関庁舎を占拠、翼賛議会議長と外務大臣以外の政府要人を殺害した。

 2084年12月25日、連帯は新政府を発足、日本帝国の国号を「日本国」へを改称した。

 新政府は中国と終戦交渉を行い、中国からの沖縄割譲、九州の租借と言った要件を呑み講和した。戦争終結により連帯政権による内政が始まる。

 連帯政権は2085年、軍事政権下で停止されていた憲法を復活。2090年には半世紀以上行われてこなかった民主選挙を実施した。ここに日本民主主義は復活した。

 また2093年には憲法を改正、戦時中から空位となっていた君主の座を廃し、共和制へ移行、国号が「日本共和国」に変わった。

 2094年には日本の歴史上初の大統領が誕生、大統領は『安定と秩序』をスローガンに政治改革を実行、憲法で規定された「両院で8割の賛同を議決で得れれば、大統領は6か月間、国家の全権を隷属下に置くことが可能である」と言う条項に基づき、国家権力を掌握、当時、議会の9割が連帯の議席で占められていたのだ。

大統領は秩序を乱しかねない政治団体をテロ組織と指定し一掃、野党は消失。議会は連帯が議席を100%占める事になり、迅速な決定と揺るがない秩序が実現され、さらなる安定化がもたらされた。

 この安定と秩序の為の取り組みを、一部の者は非難したが大半の国民は体制に賛同し、2095年12月の憲法改正を問う国民投票では「大統領と連帯の絶対的権力」の条項追加案に90%の賛成票が投じられた。

 また大統領は連帯内の腐敗を指摘、連帯結成時から構成員の多くを占めた民主派が造反を計画している事が発覚、民主派の風紀的な乱れも連帯上層部から指摘され、民主派は組織内から一掃された。

 これらの安定化、秩序回復の努力により、現在の理想的社会が形成された。

 2084年以後も、日本は反体制派、反革命による謀略が渦巻いてきた。しかし、政府はその度に確固たる姿勢で闘い、打ち勝ってきた。

 また2091年には国際連合の後継機関「世界連合」に加盟、2101年には常任理事国に任命、2116年には中国との交渉で九州租界が返還された。この様に、我が国を取り巻く状況は徐々に良好な物となっている。

 現状を手に入れるまで、我々は度重なる間違いと苦労を重ねた。それらの記憶をここに記した。そして我らは今、『正解』へとたどり着いた。我らは偉大なる同志と連帯と共に、これからも前進し前衛的であり続ける!


”共和国に栄光あれ!”

”偉大なる同志と連帯に幸あれ!”

”偉大なる同志は我らを見ている!”

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精神世界と荒廃と動乱と 科文 芥 @Flip1984

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