第三章

3-1

「わぁ……このカフェラテ、すっごく美味しいです!」


 淡いブルーのストローから、ゆっくりとした動作で淡いピンクの唇を離した千波さんは、キラキラした瞳と表情でそう口にした。そんな心癒されるシーンを心の中のフィルムにしっかりと焼き付けながら、濃い琥珀色に染められたグラスを手に取り、ストローに口をつける。


「うん、アイスコーヒーも凄く美味い。香りが良くて、苦味も程よい感じ」


 別段、コーヒーにうるさい方でもなんでもないのだけど、それでもこのコーヒーは特に美味しいと思った。そりゃあまぁ、眠気覚ましのためだけに一人でテキトーに飲む缶コーヒーよりも、こうして可愛い女の子と飲むコーヒーの方が美味しいに決まってるじゃんと言われたそれまでなのだけど。


 夏休み一発目の夏課外を終えた後、俺は映画デートをドタキャンした時の約束を果たすべく、千波さんと一緒に学校近くのカフェに来ていた。店内は最近オープンしたというだけあってとても清潔で、内装の所々に使われている木材からはほんのりと木の香りがした。表の通りから少し入ったところにあるからかお客さんの数もそれほど多くなく、二人がけのソファを一人でゆったりと使うという、なんとも言えない贅沢を堪能していた。対面のソファにちょこんと座る千波さんの楽しそうな顔と、耳当たりの良い音量で流れるジャズが、夏課外の英単語テストでやられた俺の頭に極上の癒やしを与えてくれた。


「コーヒー、美味しいです? あんまり苦くないですか?」

「うん、美味しいよ。んー……そうだね、あんまり苦くない方、なのかな?」

「本当ですか? 私、ちょっと飲んでみたいです!」

「えっ」

「だめですかー……?」


 そんな、子供みたいな目で見つめられましても。


「えっと……苦くない方とは言ったけれど、苦いは苦いよ? それに――」


 ――これって間接キスだよな? 再び。清藤さんの件と言い、やはり今どきの若者は間接キスだのなんだのって気にしないのだろうか。俺も年齢的にはまだまだ若者にカテゴライズされるはずなのだけれど、なんだか自信がなくなってきた。


「あっ! もちろん、私のカフェラテも一口飲んでいいので!」


 そう言って千波さんはカフェラテが入ったグラスを俺の方へとスライドさせる。


 ……いや、別にそういうことじゃないんだけどな。つーか、これじゃあ無駄に間接的接触の回数が増えただけなんじゃ?

 カフェラテのグラスが戻されなかったことを交渉成立と捉えたのか、お次は俺のアイスコーヒーのグラスが千波さんの手によって彼女の元へとスライドされていく。


「なんだか、今日はブラックでも飲めるような気がするんです!」


 そう言って千波さんはアイスコーヒーのグラスをほんの少しだけ持ち上げる。からりと氷が音を立て、グラスの表面に付いていた水滴が一滴、音を立てずにテーブルへと落ちる。そして、先程俺が口にした淡いブルーのストローに、千波さんの小さくて可愛い唇が――ゆっくりと触れた。淡いブルーが、ゆっくりと濃い琥珀色に染められていく。心音がばくばくと五月蝿く鳴り響いてどうにかなってしまいそうだと言うのに、俺はその光景から目を離せない。


 そうやって、アイスコーヒーをほんの一口飲み終えた千波さんはゆっくりとグラスを机に戻した。そして一言。



「……苦いです。ぜんぜん、美味しくないです……」



 目の前には涙目になった千波さんがいた。思わず、苦笑いが溢れる。なんだこの小動物。可愛すぎるだろ。


「えぇー……。まぁ、なんとなくこうなりそうだなとは思ったけど……。はい、お口直しにカフェラテをどうぞ」


 俺は千波さんから差し出されたカフェラテに口をつけないまま、それをさり気なく差し戻す。アイスコーヒーに関しては千波さんが飲んでみたかったというから仕方ないけれど、俺は別にカフェラテを欲していない。……別に、間接キスするのが恥ずかしいからなるべくその回数を減らしたいだとか、にじみ出る童貞力とか、そういった類のものは一切関係ないので悪しからず。


「……あれ? 関くん、まだカフェラテ飲んでないですよね?」


 ……ばれてたか。我ながら完璧なタイミングで差し戻せたと思ったんだけどな。


「えっと、俺は大丈夫。それよりもほら、千波さんは早く飲んだ方が良いよ」


 とりあえず、笑って誤魔化す。もちろん、そんな誤魔化しは彼女に通用しない。


「……ダメです。関くんもちゃんと飲んでください。そうしないと、この契約はいつまでも完了しないじゃないですか」


 そう言いながら、千波さんはカフェラテのグラスを再びこちらにスライドする。氷がからりと涼し気な音を立てる。テーブルの上には、結露した水がまるでグラスの足跡のように引かれていた。


「契約って、そんな大袈裟な……」

「うー、早く飲んでください。口の中苦くて、死んじゃいそうです……」


 余程苦かったのか、未だに千波さんは涙目のままだ。それなら早くカフェラテを飲めばいいのにと思うけれど、千波さんは優しいからな。きっと、自分だけが貰うという行為が嫌なのだろう。このまま押し問答を続けても千波さんは折れないだろうし、涙目の千波さんは確かにとても可愛くて、俺の中にある嗜虐的な何かが唆られるけれど、そろそろそれ以上の罪悪感に押し潰されそうになってきた。


「わ、わかった。じゃあ、一口だけ頂こうかな……」


 カフェラテのグラスを手に取る。指先に水滴が纏わり付く。亜麻色の液体に突き刺された淡いブルーのストローの先端が少しだけ濡れているように見えて、心音を刻むテンポがまた一つ早くなった気がした。涙目の千波さんは、そんな俺をじっと見つめる。どんな羞恥プレイなんだよと心の中でツッコミを入れて一人お道化てみたけれど、胸のドキドキは鳴り止まなかった。


 唾をごくりと飲み込み、覚悟を決める。淡いブルーのストロー越しに、カフェラテを一口だけ口に含む。その瞬間、冷えたミルクと仄かなコーヒーの香りが口の中に広がり、それは徐々に火照った顔に冷たく染み渡っていった。


「……美味しい」


 純粋にこの店のカフェラテが美味しいのか、それとも千波さんの飲みかけだから美味しく感じたのか解らなかったけど、後者だとしたら変態的過ぎて我ながら素直に自分のことをキモいと思ってしまった。


「ですよね! あ、あの、頂いてもいいでしょうか……そろそろ、口の中が限界で……」

「あ、ごめん! ……どうぞ」


 慌ててカフェラテのグラスを千波さんの元へと返す。千波さんはそれを受け取るや否や、勢いよくストローを咥え、グラスに入っていたカフェラテの半分以上飲み干した。


「……ふぅ。死ぬかと思いました。やっぱり、私にブラックはまだ早いみたいです」


 えへへ。と頭を掻きながら照れたように笑う千波さんの頬は、ほんのりと赤く染められていて。

 俺はそれを、心の中のフィルムに焼き付けるだけでは飽き足らず――そのまま、この瞬間を閉じ込めたいと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏草揺れる線路の先、君が見た夢の果て 別府孝 @vephigh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ