エンターテイナー
幾兎 遥
エンターテイナー
消毒液が今日はやけに染みた。手を見ると真っ赤にふやけていて、ムズムズとしたかゆみが這った。元々弱い肌で洗剤を使った後はよく負けていたのだが、ついにアルコールもダメになってしまったか。そんなことをぼんやり思いつつも、同じように消毒と検温に並ぶ人の波の中じゃ泣き言も言ってられず、そのまま列に流される。
僕の職業を一言で説明するのは難しい。「演者」としてステージ、あるいは画面の向こう側に立つこともあれば「作家」として家にこもって、台本や作品をこしらえることもある。「表現者」ならおそらく間違っていないのだが、もう少し意味を絞りたい。だが「芸能人」ではいささか表に出すぎてしまう気がするし、一方「芸術家」と呼べるほど高尚なものになる責任は持てない。強いて言うなら「エンターテイナー」。人を楽しませたり喜ばせたりする人。僕の中ではこれが一番しっくりきて気にいっていた。
僕は僕に「エンターテイナー」の役を与えていた。
「検温しますね」
若い男性の看護師が、例のバーコードリーダーをスリムにしたような型の検温器を掲げられたので、前髪をかきあげて額を差し出す。はい大丈夫です、と言われ機器が離れると、次は黒人の職員が声をかけてきた。黒人、最近は病院すらも多様性を受け入れているのかなんて、珍しく政治的な感心をして、その後恥ずかしさと気色悪さを自分に覚える。その感想こそが差別なのではないか。
「テ、ショウドクシマスネ」
なぜかまた消毒をしなければならないらしい。先ほど負傷した手が、またチクリとした感じがして一瞬顔をしかめたくなるが、その看護師の柔和な、まさに黒人が浮かべそうな笑顔に絆され、赤くなった内側がなるべく見えない角度で手を差し出す。いよいよ差別の物言いだ。ただ、麻痺したのか彼のその笑顔に緩和されたのか、今度はあまり痛みを感じなかった。
新型コロナウイルスとやらが世界共通の敵となった二〇二〇年。もはや通例となった諸々の儀式を終えようやく入場だと思いきや、彫刻のえびす顔のような笑みをつくった女看護師が、腕でばってんをつくって立ちはだかってきた。
「マスクは?」
実をいうと一度目の消毒をした後には自覚していた。今日はマスクを置いて外に出てしまったと。ああ、もう何度目のマスク忘れだろう。出先で気づいて近くのコンビニに駆け込んでわざわざ金を出したこともある。今日にいたっては帰ってくるまで気づかないとは。
そんな自己嫌悪を始めながらも、ここで「忘れてしまったんです」と即答するのはなんとなくバツが悪いと、なおいつもの小狡さがはたらく。一旦入院着のポケットに手を突っ込んで、中を探る小芝居をするのである。
「あれ、あれー……」
わかっていたとおり、そもそもつけていなかったという記憶の方が正しかった。「ごめんなさい、部屋に忘れてしまってました」と苦笑いで返す。相変わらず気味の悪い笑みだ。小学生の頃ちょっとしたポカをやって皆に謝罪をしなければならなくなった時、笑いながらになってしまって、担任に「笑うな」と言われたことを思い出す。今もそうだと言えるほど好きな担任にだったから、ショックだった。中学生の時には先輩にも「笑いごとじゃないです」と引きつった笑みで言われた。反省してないわけじゃなかった。どうしても笑ってしまうのだ。不安で、自然とごまかそうとしまうのだ。
そして今日は久々に捕まってしまった。「ダメです」と看護師は笑顔を残したまま、僕の腕を掴む。苦い思い出の数々によるただの被害妄想なのかもしれないが、マスクがないという事の発端のためだけではない感じがする。どこかへ連れていかれるようだった。ぐねぐねとなかなか多めの数の角を曲がる。やがてたどり着いたのは、職員のロッカールームと思われる小さな部屋だった。
「どうしたの」
看護師の第一声が全く脈絡の見えないもので「は」と言いたくなる。どうしたもこうしたも、忘れた、それ以外に説明のしようがあろうか。自分の間抜けが一番悪いのに、ついつい苛立ってしまう。
「だから部屋に忘れてしまったんです。ごめんなさい」
謝罪は忘れない。弁明というのはそれまでがセットだ。何か一言言うにつけ「ごめんなさい」をくっつけるのが、僕の経験則上手っ取り早く相手の怒りを鎮められる。もっとやりたいのなら頭にもつけてサンドイッチにするのもいい。その点、ついカッとなって「だから」と口走ってしまったのはまずかったと少々後悔する。
だが、今回もこのテクニックは十分に効能を発揮した。
「それなら……仕方ないけれど」
予備のマスクがあるのなら買わせてください、ともダメ押ししてもいいと企んでいたのだが。思った以上にこの看護師も簡単に引いてくれた。ちょろいもんだ、と途端に脳内で相手を見下してしまう。また、悪い癖。僕の嫌悪は再び僕の方へと向く。まるでめちゃくちゃな磁場に狂わされたコンパスだ。
そいつはもうずっと昔に、悪い感情を向けられるところにしか針を動かせなくなってしまった。
看護師は自分のものであろう手元のバッグを漁っていた。マスクを探しているのだろう。
「すみません」
本当はこの看護師は僕を怒っているのではない。叱っているのだ。だけど僕にとってそれは大した違いではない。何であれ、人に詰め寄られるのが辛かった。非難のことだけではない。批評すらも全て否定としていた。「ちょっと違うんじゃない?」という一言だけで、僕は簡単に相手との関係について絶望できた。
何にせよ早めに謝罪の手を打っておけば、相手方もこれ以上何か言うのは可哀想だと諦めてくれる。僕はそれで聞き分けのいい人間のふりをして、逃げてきた。
「はい」
マスクを手渡される。深紅と山吹色の糸が織り込まれた、変わった生地の手製だった。
「すみません。ありがとうございます」
この謝罪と謝意もセットの構文である。まるで英文法を教えているような気分になるが、まさにそれなのだ。両手で受け取ることも忘れない。親や先生、大人から教わった、あるいはやりとりで盗んだマナーだけはバカみたいに覚えている。
「いいけど……大丈夫なの?」
もらったマスクを急いで(これも半分、誠意を見せつけるための芝居である)つけていると、急に看護師は私をじっと見つめてきた。エセ占い師のような目。そういえばこの女は何度か病室に来たことのある、僕のことをちょっと知ってる女であったというのを思い出す。
「何がですか?」
笑顔で聞き返す。
「いや……ね……」
口ごもられる。
「大丈夫です。本当に、すみません」
目を合わせないように深々と頭を下げる。
「でも……」
食い下がられる。
ああ。
知ってるよ、その哀れみを滲みまくらせたような表情。「大丈夫?」の時点で見えていた。お決まりの流れだ。知ってる、知ってるよ。でも。
そのタイプの詰め寄りはほんとにキツイんだ。
目頭が熱くなってくる。苦しいのとは少し違う。怒りがこみ上げてくるのだ。何もわかりゃしないくせに。一時的で酔いどれの慈善のくせに。ずけずけと入り込むな。下手な演技で悪かったよ、でも演じさせてくれよ。その方が、お互い幸せでいられるんだよ。
「大丈夫ですから。すみません」
上げた顔を今度は横に背けて、強めのまばたきをする。ずっとそうしてるわけにもいかないのですぐに顔を戻したが、まだ目の赤が抜けた気はしない。当然女の怪訝な顔は一瞬さらに濃くなる。だがこれでいい。その顔は終戦の合図でもある。アナタは言うのだ。「いいのね」と。
「……いいのね?」
「はい」
そうだ、踏み込むな。どうせ他人の事情への干渉なんて、せいぜい家庭訪問が限界なのだ。玄関口にお茶を出されたのなら、それは上がり口に腰掛けろという暗黙の通告だ。特に僕は客人の「いやいやいや」は苦手だし、それに。上がってきてほしくたって親の了承を得られない子どもだっているのだ。
「そう……何かあったらいつでも言ってね」
「わかりました。ありがとうございます」
「快活に」と音楽の発想記号のような文字を頭の中に浮かべて、それをイメージした笑顔を返す。
「それじゃ、すみませんでした。失礼します」
もう一度頭を下げて、さっさと踵を返した。歩き出すが、道がわからないことに気づく。少し戻ってさっきの看護師に「すみませーん」と明るく手を振る。さっきまでの会話をなかったものにするように、あえて。
「そのー、こっから病室への行き方って……」
今度は参ったなぁ、みたいな笑顔を浮かべてみせる。するとやはりこの看護師もこちらの雰囲気に呑まれるのである。
「ああ、えっとね……」
道を説明してもらい、礼をした後には「行ける?」と特に含みもなさそうな表情を彼女は返してきた。
わかってる、これも。自分に対してもそうしているとはいえ、この癖は許されるものじゃない。
「はい、それじゃ」
最初から最後まで、僕はこの看護師を見下していた。
ロビーまでは戻れたが、使ったことのない出入り口から来たために方向感覚が狂って、あたりの階段を手当たり次第登り降りする羽目になる。幸いバレなかったが、途中で職員以外立ち入り禁止と思われる場所にも足を踏み入れてしまった。何度もロビーを行き来したため、検問にいた職員に声をかけられたら恥ずかしいと不安だった。さっき連れていかれた件について聞かれたら嫌だったから。そういうわけで、彼らにもう一度道を尋ねるという選択も取りたくなかった。結局、数分をこそこそと無駄な時間に費やしてしまった。
さて、実をいうと今の僕には、もう一つ困っていることがあった。鍵がないのだ。先程ポケットを探ったとき、鍵の感触もそういえばないなとなった。開けたまま出ていったのだろうか。それはそれで馬鹿な話になってしまうが、そうであると信じるしかない。ああ。僕は。
階段を登っていると、唐突に疑問が浮かんできた。そういえば僕は、なぜ病院にいるのだろうか。
事故に遭った記憶や、医者に何らかの病気を宣告された記憶が思い返してみるとなかった。そもそも今まで大きな怪我も病気もない人生を送ってきた。心は、並みよりは傷ついてきたと負の自信があるのだが、身体に現れることもなかったのに。
そういえば、いつのまにやら僕は入院している。
まあいいや。それに関してはむしろ嬉しさを抱いていた。身体にサインが出ないのも案外辛いのだ。
現に僕はここに来る前から既に、現実から逃げ出していた。
一旦階段が終わり、今度は廊下を歩く。途中、楽器を運ぶ学生たちとすれ違った。慰問だろうか。気まずい。いや、関わり合いなんて全くない団体のはずなのに。音楽は僕が逃げた世界の一つだった。もっともひどい、裏切りの形を取った失踪だった。
足早にその場を離れる。しばらく進むと、左の壁一面がガラス張りになった。晴天の青が差しこんでくる。その清々しさが今の自分の感情とはあまりにも不釣合いで気後れしていると、向こうから人影が近づいてくる。目を凝らしてみる。思えばこれは悪手であった。今の僕が堂々と出会える人間なんていないのだから。一か八か素早く横を抜けるのを図った方がまだ賢かった。案の定、そいつは同僚で、僕が直近で行方をくらました世界の住人だった。
「□□じゃん」
「……おう」
先ほどの看護師とのやり取りよりずっと歯切れが悪い。仕事ではよく見るがプライベートでは交流がない程度の中途半端な知り合いというのは、全くの他人を相手するよりも厄介なもので。
「何してたんだよ」
「……ちょっと体調崩してて」
「ふうん、大丈夫なの?」
「……まあ」
言い訳はいつもこれだった。会社にすらほとんどこのぼんやりした言葉しか残していない。誰の目にも見える、納得してもらえるような理由が僕だって欲しかったけど、現れてはくれなかった。本当に、僕はどこが悪いのだろう。
突然、
「ちょいと失礼」
と彼に詰め寄られた。いや、彼じゃない。あろうことか、別の男に変貌している。高校の時の、これまた微妙な関係の友人となっていた。
友人は僕の顔の前に手を伸ばす。そしてその手をそのまま、何の躊躇もなく僕の口に突っ込んできた。生理的に呻き声を上げようとするが、それができないほど口内を大きな体積で占領されてしまう。中で指先が動くのを感じた。左頬の裏側あたりを探られ、やがて一番奥の下の歯をつままれる。直後鈍い痛みが生じるが、喉に届きそうなほど手を突っ込まれた時の苦しさよりは弱く。そのため、自分が何をされたのかにすら気づけなかった。
「虫歯」
そいつが得意げな笑顔で、僕の黒ずんだ歯を見せてくるまで。
自分ですら見えなくなっていた自分の一部を引き摺り出されて、笑われているようだった。
気づけば僕は、そいつの脇を抜けて走り去っていた。
廊下の終わりまで走りきる。その先の階段を一度睨んでから、最初の一段へと足を踏み出す。登るのと呼吸を整えるのを同時に行ないながら、僕は昔のことを思い出していた。
僕が物心つく前からずっと、両親は喧嘩ばかりしていた。当然痴話喧嘩とかかわいいやつの話じゃなくて、罵り合い。父と母との間には豪雨が来れば川でもつくれそうなほどの深い溝があって、僕たち兄妹は常にその窪地にいた。
当時中学生だったある日の夜も、何らかの原因で一触即発の緊張感が張り詰めていたリビングを後にして、僕は風呂に向かった。
シャワーを浴びながら鼻歌を歌う。僕にとっては別に珍しいことじゃなく、元から学校で習った曲や最近聞いた曲を知らず知らずのうちに口ずさんでいることはそこそこあったのだが、その日はどこか「鼻歌を歌おう」という意識があった。険悪な雰囲気を和らげることができるのではないか、と。いつもよりも明るく、僕は鼻歌を歌った。すると風呂から上がった後、母のいぬ間に父に上機嫌に囁かれたのだ。
「□□が楽しそうに鼻歌を歌っていたから。あいつにキレたかったけど、お前が気の毒になると思ってやめた」
ふうん、と思った。実際に返した相槌も「ふうん」だったし、そう発した自分の声もしばらく頭の中でこだましていた。ふうん、ふうん……ふうん。
そうか、これが正しいのか。
それからというもの、僕の鼻歌は高揚感から出てくるものではなくなっていった。高揚するために、楽しくするために出てくるものとなった。
僕が演じてきたエンターテイメントは、鼻歌のようなものだった。
僕は鼻歌の他にもいろいろな人と自分を明るくさせる芸を覚えた。そしてそうなってから、僕は周りに格段に好かれるようになった。多くはなかったが、学校の休み時間に友達が集まるのはほぼ必ず僕の席になった。相談事もよくされるようになった。家でも頼られるというか、心の拠りどころみたくなった。小さい頃は取っ組み合いの喧嘩ばかりしていたはずの妹も、僕を慕うようになった。最初は悪い気は全くしなかったし、むしろ嬉しかった。頼られること、一緒にいて楽しいと思ってもらえることに、生きがいを感じていた。
だから僕は、大人になってもそういう役割の人でありたいと思うようになった。
かなり上の階にある病室で、階段を登るのが大変だった。自分の病室の階へ続く階段の最後の段に、鍵が落ちていた。円柱をしたクリアグリーンのアクリルチャームに部屋番号が刻まれた鍵。こんなところに落とすなんて。恥ずかしい。拾われないでよかった。見つかってよかったという安心より、誰にも痴態を知られないでよかったという安心の方が勝る。
結果、僕が演じるべきだと信じた僕というのは、それを命じた僕に似合うものではなかった。向いてないとは言えないのかもしれない。悪い仕事じゃなかった。もちろん最初から順調に行ったわけではない。でも広告の術を覚えたり、芸風を試行錯誤したりするうちに、自分が収まるべき枠というのが見えるようになった。その額縁の中で格好をつけるようになってからは、二、三年で僕の名前はそこそこ知られるものになった。多くの人に受け入れられ、愛された。時に詐欺師みたいに笑いたくなるほどだった。SNSでちょっとへこんだ話をツイートすれば、数分のうちに気遣ってくれる声や「これ見て元気出してください」という画像付きのメッセージで返信が埋まる。少し表舞台に顔を出す間隔が開いただけで、体調を崩されてるんじゃ、とかお体を大切に、とか心配される。ありがたいという気持ちと同じくらいに、面倒臭さを感じることもある。
だけどそれだけ、成功していた。かつそれなりに上手く維持できていたと思う。表舞台で活動する者の努力というのにも、複雑な難しさがあるのだ。片足を踏み出す程度の冒険は面白がられても、基本的には自分が当てはめられた枠から逸脱した働きをすると転かされる。そして枠通りの立ち回りを取り続けていたって、飽きたら忘れられる。例えば「ガヤ芸人」なんか、本当にすごいんだ。番組のスパイスや潤滑油となるように、常に展開や周りの言動にアンテナを張って。しかし多すぎると「進行を妨げるな」「邪魔だ」と叩かれ。彼らは心地よいウザさというのを演出し続けているのだ。
表舞台というのは、そうやって自分の役割を自覚し、それが汚れだったとしても進んで演じる技量と覚悟と、運を持ち合わせた人が生き残る世界だった。僕はそのうちの二つに適性があったから、どうにか居場所を確立することはできていた。
だから僕の言った「似合わない」とは多分、上手下手の話とはまた別の話だ。問題があったのは残りの一つ、覚悟。
キツくなってしまったのだ。彼は僕とあまりにかけ離れた存在だったから。
僕は彼みたいに人を支えられるほどちゃんとした人間じゃなかった。このご時世になってもう半年以上経っても未だにマスクを忘れるし、消毒液で手を荒らす。自分の部屋に帰ることもできないし、それを素直に認めて案内してもらうことすらできない。虫歯の黒さと痛みにも気づけない。そして何より悪いことに、僕はどうしようもなく暗かった。その乖離に気づくたびに、無理だと何もかも放り出してしまうくらいに。
いろんなものから逃げた。苦手な教科を克服することから逃げた。同級生との付き合いから逃げた。音楽から逃げた。自由のために親とぶつかることから逃げた。そうやって消去法で取った道に結局意味を見出せなくて、学ぶことから逃げた。友人も先生も、仕事場でも、知り合うヤツのほとんどが言ってくる。「□□は真面目だな」と。その度に胸の底がぐじゃぐじゃとした。そんなんじゃないんだ。だけどそれを訴えることからも逃げた。
全部、誰に命じられたわけでもない。僕が取った、選択のはずだった。でも、願われてはいたんだ、たくさん。応えたかった。僕だってその僕の方が、カッコいい、と思ったから。演じて、いたかった。自業自得なんだ。なのに。
果てに僕は、みんなと僕の憧れすらも放棄してしまったのだ。
やっと部屋に戻ってきたけれど、最後に誰かが待ち構えているのではないかという不安が残っていた。こうして腐りきって以降、元々過敏なところがあった僕はいっそう人の気配に怯えるようになった。誰かが強引に尋ねてきて、僕の嘘を引きずりだそうとするのではないかと。だけど僕は同時にそれを……
強ばった体で引き戸を開けて、中を覗く。いなかった。ほっとしたのも束の間、部屋を出た時にはなかったはずの物が増えていることに気づく。家族のだ。
言い知れない恐怖が、押し寄せてきた。
冷静に考えてみれば、家族が尋ねてきたがあいにく散歩か買い物にでも出られたのか、そういう思考をする以外に得られる情報はあまりない出来事のはずだった。だが、見覚えだってあった彼らの荷物が、その時はなぜだか得体のしれない生物の抜け殻に見えて、その異様な不気味さが僕の脳裏に最近見た夢のことをよぎらせたのだ。父が車を暴走させて、一家心中する夢。僕のことか親同士のことか。とうとう何かが決定的な引き金となったから、迎えにきたのではないか。死ぬんじゃないにしても、これまでで一番凄惨な崩壊が今から僕の家族の中で始まるのだという、確信めいた予感が僕の体内で渦巻いていた。
気づけば僕は、ケータイの位置情報アプリを開いていた。使ったことはなくて、家族のものさえ登録しているかも記憶にないのだが。逃げろという、もはや脳味噌中に侵食していた臆病が身体に命じたのだろう。
しかし、破滅の予感に焦る司令塔は、片隅でついに本当の僕がニヒルに笑い出すのを見た。
ノズルを装着した掃除機に吸い取られるような感覚とともに、自分の目が開く。右半身が柔らかに沈んでいる感触と見慣れた暗闇。僕は自宅のベッドの上にいた。夢、また夢だった。僕は夢の判別ができないのだ。一家心中。突然姿を変えながら、ないはずの虫歯を引き抜いてくる友人。理由も知らないで病院にいる自分。どんなに滑稽な展開が繰り広げられていたとしても、それを本気で現実と受け入れてしまう。あの中で唯一の、一番あって欲しくなかった事実は、僕の正体だけ。ウイルスよりも死よりも何よりも、忌み嫌っているモノ。
そう。これこそ僕が夢と現実の区別をつけられない理由の重大な一つ。
僕はどこかで、この胸糞悪い夢たちに安堵しているのだ。やっと、解放されるのだと。
仰向けになって、一度瞼をきつく閉じる。手のひらですり潰すように拭う。より深い暗黒に踏まれた目は、元の暗がりにチカッとした。
僕はそれで、夢の中で見たニヒルな笑顔が、現実に持ち帰られていることを確認する。あとは、覚悟。もう一度だけ、仲間を思った。僕が描いていた絵を、エンジンで満たして動かしてくれた人たち。僕らの続きを待ってくれている人もいる。彼らの願いに背を向けるのは、心苦しい。だけどここで降りなければ、せっかく今捕まえている醜い笑顔の子が、今度こそ溶けてまた胸の中に滲んでしまうような気がした。そうなれば僕は、憧れという名の役の長い演技を再開するほかなくなる。
テレビだったかラジオだったか、いつか僕は「僕の素は、人に見せている僕の中には存在しない」と言ったことがあった。目の前で聞いていた相棒は、微笑みながら「そっか」と返してくれた。そうやって僕のいろんな姿や思考を肯定してくれる、やさしいヤツだった。だから僕が、代わりに僕に言おう。
それは、ちょっと違うだろ。
家族といるときの僕も、旧友といるときの僕も。安心できる仕事仲間といるときのも、苦手な仕事相手といるときのも。相棒といるときの僕も。確かに全部異なる顔色をしていたけれど、その何だって演じようとする僕は充分に素の自分だよ。僕が抱きとめているのも、僕を包み込んでいるのも、どちらも本当の僕だ。
僕は、本当の僕に変革を起こすのだ。
○月×日 □□□□ 芸能活動からの引退のお知らせ──
エンターテイナー 幾兎 遥 @ikutoharuK
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