第52話
波打ち際を、ただ歩いていく。
七瀬は緊張したように俺の半歩後ろをついてきていた。
ぱちゃぱちゃと寄せる波が音を立て、遠く街の明かりと月明かりで水面はきらきらと揺れている。
砂は湿り気を帯びて、歩くたびにさく、さくと静かに鳴る。振り返ると、俺の足跡に並ぶようにして七瀬の小さな足跡が伸びていた。
「足、小さいな」
「……はい」
「俺、夜の海って好きなんだ」
「……そ、そうなんですね」
そわそわそわと視線を彷徨わせながら、心ここにあらずといった様子で返事をする七瀬。
……なんだか、こっちまで緊張してくるからやめてほしい。
俺はふう、と息を吐いて。
本題に入る。
「それで、七瀬が俺のことをその……。そういうふうに思ってくれてたってのは、薄々気づいてたんだが」
七瀬から返事はない。俺は照れ臭さを誤魔化すように続ける。
「でもそんなはずないだろって、ずっと自分に言い聞かせてた。だって俺と七瀬はあんな風に出会って、俺は弱みを握られてて、お互いに弱みを見せないように、ってこれまでやってきたんだから」
七瀬はこちらを見ることなく、屈んで貝殻か何かを拾う。それをぽい、と投げるのが見えた。遅れてぽちゃんと音がする。
こいつ、ちゃんと聞いてるんだろうな?
「……だから七瀬が俺のことを好きって言ってくれた時は驚いたし……嬉しかった。それと同時に、俺はやっぱり潮凪さんが好きだって、そう思った」
七瀬がぴた、と足を止める。
見ると、両手を耳に当てて俺の方をじとりと睨んでいた。それでも俺は、話すのを止めるわけにはいかない。
「でもな、気づいたこともあった。俺がずっと自分のことばかりを考えていた間、七瀬は俺のことを考えててくれて。俺に好きだということをずっと伝えてくれてたんだって」
「それは、自意識過剰もいいところです。別に私は……」
そこまで言って、七瀬は口籠もる。
「……聞こえてるのかよ」
言い返すと、七瀬はぷいとそっぽを向いた。
そして今度は俺を置いて歩き始める。慌てて彼女の背中を追って、横に並ぶ。
「……ありがとな。あと、わ、悪かった。俺は見ての通りろくに恋愛経験も無ければ、そういうことに聡い訳でもない。七瀬から見ればイライラしたと思う」
彼女はなにも答えない。
俺に届くのは、寄せては返す波の音だけ。
「七瀬を追いかけている間、俺はずっと考えてたんだ」
そこまで言って、今度は俺の方が口籠もる。
思うのは簡単で。言葉にするのはこれほどまでに難しい。それはきっと、恥ずかしさや想いの強さ、不安や恐怖心なんかの色々なものが入り混じった結果なのだろう。
けれど俺は、言わなければ。
彼女がきちんと言葉にしてくれたように。
「――俺は、七瀬が嬉しそうに晩ごはんを食べてる姿が好きだ」
「…………っ」
七瀬の顔が羞恥に染まる。
俺は奥歯を噛み締めて、覚悟を決める。
「七瀬の、目が好きだ。笑顔も好きだ。あと今更だけど、納得いかないけれど、全然素直じゃないところも、むしろ好きなのかもしれない」
間髪入れずに俺は言う。
「でも俺は、潮凪さんがずっと好きで」
俯いた七瀬の顔が強張るのが分かった。
今日という一日を過ごして、潮凪さんへの思いはさらに強くなったのは事実だ。それは確かなことで。
「だから七瀬、俺は――」
俺が言葉を紡ぐよりも早く、七瀬はまた耳を手のひらで塞ぐ。なにかを堪えるように唇を噛んで、きらきらと星空のように輝く、俺が好きなその瞳で俺を捉えたまま。
「――聞きたくありません」
「……聞けよ」
「嫌です」
「…………そうか」
それなら、それでいい。
俺はもう引き下がれない。後はもう、勝手に言いたいことを言わせてもらう。
「……じゃあ絶対、聞くなよ」
七瀬は耳に手を当てたまま、あーだかうーだか言いながら波打ち際を先々進んでいく。
……本当に聞かないつもりだな? まあいい。これは、自分自身へのけじめみたいなものだから。
「だからな、七瀬。俺は」
小さな背中へ向けて、言う。
「……俺は、本当に驚いたんだ」
七瀬に返すべき言葉と共に、自らの中に浮かんだそれに気づいたとき。ぶわりと湧き上がったそれに気づいたとき。
俺は自分でも信じられないくらい自然に、彼女を海へと、この場所へと誘っていた。
「俺が七瀬の告白を断って。……そうしたら、ああ、七瀬と晩ごはんを食べることはもう無くなるんだな、って思った時に」
「俺はそれを……嫌だと思った」
七瀬の足は止まらない。
俺の言葉も、止まらなかった。
「おかしいよな。これまで俺は、仕方なく七瀬に晩ごはんをご馳走して。嫌々だったはずなのに。それが無くなってしまうのが嫌だなんて」
自らの『好き』と同時に浮かんだのは。
『嫌い』ではなく。
『嫌だ』という、そんな感情だった。
「……まだあるぞ。七瀬がいつか、これから先誰かと付き合って、楽しそうに笑う姿を想像して。俺は死ぬほど嫌な気持ちになった」
どうしようもなく、嫌だった。
これは間違っていると思う。『好き』ではなく、『嫌』の積み重ねだなんて、絶対に間違っている。
……はずなのに。言葉は止まらない。
「一番はだな、七瀬が他のやつと、あの笑顔で一緒に晩ごはんを食べているところを……俺は絶対に見たくない。想像するだけで嫌だ」
おかしい。
俺はなんの話をするつもりだった? そうだ、好きなことの話だ。そうだった。
「だから、その……」
俺が一番好きなのは、潮凪さんで。
…………俺が一番嫌なのは。七瀬が他の誰かと嬉しそうに晩ごはんを食べることだ。
「俺は……もし本当に、七瀬の言うように潮凪さんが俺のことを好きなのだとしても」
やっぱり、おかしい。
おかしいのに。
自分の中で、答えはもう出ていた。
「潮凪さんを好きな気持ちよりも、その、嫌な気持ちの方が大きい。……いや、だから、つまり」
ただ、その想いを言葉にする。
「俺は、七瀬には。ずっと一緒に、俺の作った晩ごはんを食べて欲しいんだ」
風の音も。波の音も。
全てが止んだ、気がした。
…………嘘だろ。
俺は足を止め、自らに問う。
砂浜を濡らす波に向けて問う。
「――俺は、七瀬のことが、好きなのか?」
ざぱん、と大きな波が打ち寄せて。
ふと、顔を上げた。
ゆっくりと両手を下ろして振り返った七瀬はまた泣いていて。
「嘘じゃ、ないですよね」
いつの日かと同じ。
彼女の後ろには、きらきらと遠く街の明かりがきらめいていて。
「……嘘じゃ、ないから。頼むから、もう泣くなよ」
「………ちゃんと、言ってほしいです」
たった二ヶ月だ。だから、なんだ。
ああ、七瀬はこんな気持ちだったんだな。
苦しくて。怖くて声が震えそうになる。
でも、俺は。言わずにはいられない。
「――七瀬のことが、好きだ」
こちらに向けて駆け出した七瀬が、俺の胸に飛び込んで。
そして。風が吹いて。
「――100点、あげます」
潮の、香りがした。
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