第51話 もっと吹いてくれ

 聞こえるのは電車のがたんごとんと揺れる音だけ。隣に座ってはいるけれど、お互いに口を開くことはない。


 学校や潮凪さんの家とは逆、ほとんど乗ることのない方へと向かう電車に俺たちは揺られている。


 流れていく窓の外の景色をただぼんやりと眺める。がらんとした車内なのに、すぐそばに座った七瀬はわざとらしく座り直すと、俺との距離を詰める。


 ごおっ、という音がしてトンネルに入る。

 ガラスに反射した自らの姿が目に映り、続けてガラス越しに七瀬と目が合った気がした。


 彼女との距離が近すぎる気がして、俺も誤魔化すように座り直す。七瀬はずい、と身体を俺にくっつけるようにしてさらに身を寄せる。


 ……走り回って汗をかいたから、近付かないで欲しい。そして、七瀬からいつもと違う甘い香りがふわんと漂ってきてるからやっぱり離れて欲しい。


 ――俺は黙ったまま路線図を睨みつけ、飛ばしてくれ運転士さん、と心の中で願った。



***



 最寄駅から二十分程度揺られて、ようやく辿り着いた小さな駅で電車を降りる。


 駅の外に出ると、すぐに波の音と潮の香りを感じた。ここに来るのは、いつぶりだろうか。


 街灯も少ない海沿いの道を進んでいく。七瀬も後を大人しくついてくる。穏やかな波の音と水平線の向こうに広がる街の明かりが、ゆらゆら揺れてきらめいていた。


「あの。私は今から襲われたりしませんか」


 後ろで七瀬が大変失礼なことをつぶやく。

 確かに明かりも多くはないし、人の姿も無いがそれだけは無いだろう。俺は何も答えず、黙って付いてこいと視線だけを後ろへ向ける。


 と、シャツの裾が掴まれた。

 振り返ると、月明かりで照らされた七瀬の瞳が俺を見上げている。


「……せんぱいが迷子になると、いけないので」


 七瀬は困ったように目を逸らしつつ、言う。

 いやなるわけないだろとは思いながらも。


「……ありがとよ」


 俺は適当に答えて、先程よりも少しだけゆっくりと歩き出す。


 防波堤の間にある階段から、砂浜へと下りていく。砂浜自体はそこまで広くはないが、白くきめの細かい砂がぼんやりと照らされていた。


 夜の海は不気味という気もするが、ここはそんな雰囲気とは少し違う。

 遠く海の先に輝く明かりと、天気の良い日は月明かりで視界自体は悪くない。風も穏やかで、寄せる波の音が心地よい。


 階段を降り切った七瀬に俺は言う。


「じゃあ七瀬、脱げ」

「な……や、やっぱり! 私の身体が……砂浜でなんてこのっ、変た――」


 七瀬は俺から距離を取ると、自らの身体を両手で抱えるようにして俺を睨みつける。

 なに言ってるんだこいつは。


「靴を」

「…………ん。く、靴ですか」


 気まずそうに下を向いた七瀬は、大人しくしゃがんでホールブーツの紐をほどいていく。

 俺も同じようにスニーカーと靴下を脱いで、裸足で砂浜をふみしめる。ひんやりでさらさらとした砂が心地よい。


「か、肩。貸してください」


 ブーツを脱ごうとふらふらしている七瀬に仕方なく手を差し出す。彼女はそれを、掴もうとして――。


「きゃっ」


 俺の胸に、身体ごとぽふりと倒れ込んだ。

 支えた彼女の両肩は俺が思っていたよりもずっと華奢で、柔らかくて、あたたかかった。


 胸元に押し付けられた顔がゆっくりとこちらを見上げる。月明かりでも分かるほどに真っ赤に染まった七瀬の顔を直視出来ず、俺は上を向いたまま言う。


「な、なにやってんだよ。……ほら、支えといてやるから早く」

「す、すみませ……」


 ばくばくと鳴る心臓に気づかないフリをしながら、俺は彼女を胸から引き剥がそうとして。

 胸元から、小さく声が聞こえた。


「――いい、よね」


 瞬間。七瀬の両手が俺をとん、と押した。

 続けて、彼女の体重が俺へと掛かる。体勢を崩した俺はたたらを踏んで、背中から――。


 真っ暗な夜空に浮かんだ星々が見えて。

 あ、あれって夏の大三角だっけ。なんて思った所で、俺の視界はふわっとひっくり返る。


 背中に、鈍い衝撃が走った。

 砂がクッションになったおかげで痛みはそこまで無い。俺はなにが起きたのかと、閉じていた目をゆっくりと開いた。


 星空の中、俺に覆い被さるようにした七瀬の顔がそこにはあった。こちらに向けて垂れた彼女の髪の毛が、潮風にさらさらと踊る。


 ざああ、と波の音がして。


「…………せんぱいの話なんて、聞きたくないです」

「な、なにを」


 七瀬の覚悟を決めたような声。

 真っ直ぐにこちらへ向けて落とされた視線は爛々と輝いていて、俺の目元から少しだけ下へと向かう。


「……どうせ、振られるくらいなら」

「待て七瀬」


 小さく彼女がぺろ、と上唇を舐めて。

 そして。


「――最後にこれくらい、いいですよね」


 はにかむように笑って、七瀬の目が閉じられる。目尻がまだ赤い。綺麗な肌だな、なんてことをふいに思って。


 ……ゆっくりと近づく彼女の顔を、俺は右手でどうにか掴んだ。正しくは、頭を。


「…………な、七瀬? 落ち着こう? な?」


 声が震える。七瀬はゆっくりと目を見開くと、頭ごと俺の右手をぐいぐいと押してくる。

 やけくそだ。こいつ、やけになっている。


「これが、落ち着いていられますか……。せ、せんぱいなんかに告白して、気持ちがバレて、挙げ句の果てに振られるなんて……」


 ぎりぎりと悔しそうに歯を噛み締めつつ、七瀬は俺の頭の両側に手を置いてさらに体重をかけてくる。


「な……なにしようとしてんだよ!」

「き、既成事実を作ってしまえば……あの押しに弱いせんぱいのことですから……責任取ってくださいと言えば……!」


 こいつ、本気だ! 目がガチだ!

 頭を支える俺の手と、彼女の手がぶるぶると震える。逆の体勢なら絶対に負けることはないが……これは、まずい!


「ほら、諦めて大人しくしてください……! やさしくしますから」

「そのセリフ、絶対に逆だ!」


 俺は言い返す。すぐそばにある七瀬の顔。長い睫毛。ぱっちりとした瞳。控えめな唇は艶やかで、今はぷるぷると力が入って震えている。

 彼女はめちゃくちゃ可愛い。そんなこと、俺は最初から知っている。


「七瀬、俺はな、七瀬に言わないといけないことがあるんだ」


 どうにか彼女を説得しようと、俺は顔を逸らして声を絞り出す。


「これが、終わったら、聞きますっ」

「今、聞いて、欲しいんだよ」

「ちから、抜いてください」

「いいから、聞けって!」

「――聞きたくないって言ってるじゃないですか!」


 叫ぶと同時、頬にぱたたっ、と何かが当たった。七瀬の力が緩んで、彼女はゆるゆると身体を起こす。


 俺は荒れた息を整えつつ、起き上がって彼女を見る。唇を噛んでぼろぼろと涙を流す七瀬は、俺の方を見つめたまま、すずっ、と鼻を鳴らした。


「なんで、せんぱいなんですか」

 

 俺はただ、七瀬の言葉を聞くしか出来なかった。


「なんでもっと早く、気づかなかったんだろう」


 彼女はぐしぐしと袖で目元を拭う。悔しそうにも、悲しそうにも見えたその表情に思わず手を伸ばしそうになる。けれど、俺は彼女を抱きしめてやることは出来ない。


「……せんぱいは、葵ちゃんが好き。そんなこと分かってました。でも、葵ちゃんがせんぱいを好きじゃないんなら、私にだってチャンスがあったのに」

「…………七瀬?」


 俺は七瀬のその言葉に違和感を覚える。


「でもっ、葵ちゃんがせんぱいを……好きなら! それなら私のこの、ちっぽけな想いは。最初から、こうなるしかなかったじゃないですか!」


 なに、言ってるんだよ。

 嘘だろ?

 ……潮凪さんが、俺を?


「だから私は、せんぱいが気づく前に。葵ちゃんが、言ってしまう前に。なによりも早く、一番に言ったらもしかしたら……なんて」

「七瀬」

「……さ、最低、ですよね。私はやっぱりずるくて、独り占めしたくて、誰にもせんぱいを渡したくなくて」

「七瀬!」


 俺が名前を呼ぶと、七瀬はびくりと肩を揺らした。俺は服についた砂を払いつつ、立ち上がる。


 七瀬のこと。そして、今彼女が言った潮凪さんのこと。考えなければいけないことがたくさんある。でも今の俺は、目の前にいる彼女に伝えないといけないことがある。

 

「……ほら」


 俺は座り込んだままの七瀬に手を差し出す。

 七瀬はその手を掴むことなく、俺のことをただ見つめている。


 ああ、せっかくの服が砂だらけだぞ。

 ブーツだって脱げかけで、赤い靴下がのぞいている。今日本屋で七瀬を見たときから、ずっと思っていたことがある。


 俺はこれまで、彼女になにも言っていなかった。自分の思いも、何もかもだ。言っても気持ち悪がられるだけだろうし、嫌な気持ちにさせるだろうと。


 でも七瀬は全てを話してくれた。俺なんかにそれを言うのは相当勇気が必要で、たくさん悩んでくれたんだろう。


 それなら俺も、話してやるさ。気持ち悪がられようが、なんだろうが。俺の思っていることを全部、全部伝えてやる。


 俺はひとつ咳払いをして。


「……あー。今日の七瀬の服、可愛いよな」

「…………………………は?」


 ぐしゃぐしゃになった顔のまま、七瀬はこてりと首を傾げる。その目はまるで、未確認生物でも見つけたような。


「正直、好みだ」

「…………ち、ちょっと」

「あとな。さっき俺に覆い被さった時。襲ってやろうかと思った。まじで」

「……せ、せんぱい?」


 俺は彼女の方へと距離を詰める。

 七瀬は何が起きているのか分からないといった様子で後ずさる。俺が容赦なく彼女を見下ろすと、七瀬は身を縮こまらせて目をつむる。


 俺はゆっくりと七瀬の後ろにまわると、変な所を触ってしまわないように気をつけながら脇のあたりに手を入れ、彼女を抱きかかえて立ち上がらせる。


「ひゃああああ!」

「よし、歩くぞ」


 俺は七瀬を置いてさっさと歩き出す。

 ……見られて、ないよな?


 遠くの夜空を、凪いだ海を見ながら思う。

 頼む、涼しい風よ。もっと吹いてくれ。

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