第50話 好き
俺はただ、走る。
七瀬が向かった場所。自信はかけらもないけれど、彼女がそこにいるような気がして。
いつもの駅へと向かう道を、途中で折れる。
夏になれば祭りが行われる神社の近くの道を抜ける。ぽつぽつと光る街灯が、視界の端をかすめていく。足りない酸素を求めて上がった視線の先には、年に数回あるかないかの嘘みたいな星空。
七瀬を探して走るのは、何度目だろうか。
ふと、そんなことを思った。
本当に世話の焼ける後輩だ。……全ては、俺のせいなのだけれど。
高台の公園へ繋がる道に出る。
ここからは坂道だ。俺は一度立ち止まり、膝に手をついたまま何度か深呼吸をして息を整え、そしてまた走り出す。
「――それでもせんぱいは、晩ごはんを作りすぎちゃって。私と一緒に晩ごはんを、食べてくれるのかな」
追い越していく風とともに、どうしてか七瀬の言葉と彼女の後ろ姿が脳裏に蘇る。
俺はその言葉に、何かを返せただろうか?
「――だ、だから覚悟してくださいね? せんぱい?」
俺は何も、返せていない。
「――そ、その後輩は……おすすめですよ?」
きっと七瀬が、その小さな身体で精一杯振り絞った勇気のひとつひとつに対して俺は。
「――私、せんぱいのことが好きです」
ただひとつの言葉すら。返せていないのだ。
溢れ出しそうな感情をどうにか抑えつつ、俺はそれをただ走る力へと変えていく。涼やかな夜風に包まれながら、自分だけが熱を持っているような感覚。
俺は、七瀬を追いかけて。
……追いかけて、一体どんな言葉を掛けるのだろうか。俺が彼女に今言えることなんて、なにも無いように思えてしまう。
けれど今、足を止めるわけにはいかない。
止まってしまったら、きっと俺は。
もう走り出せないような気がする。
そうして長く続く折り返しの坂道を駆け抜けた俺は、彼女と出会った公園へと辿り着く。
……おかしい。いくらなんでも、これだけ走って追いつかないことがあるか?
俺はかすかな公園の明かりを頼りに辺りを見回す。当然だが、七瀬の姿はない。
つまりは。
「……いないんだよな、いつも」
俺は自嘲気味にぼやく。そして、ため息と共に元来た坂をまたゆっくりと駆け降りていく。息があがる。足が思うように動かない。
けれど、走ることだけはやめない。
最初に出会った時からそうだ。七瀬が俺の思っていた通りに動いたことも、お互いの考えが一致したことも一度も無い。
間違えて、すれ違って、掛け違えたボタンのように俺と彼女はここまできたのだから。
俺はまだ、彼女がこんな時にどこへ向かうのかさえ、知らない。
***
「…………見つけた」
俺は棒のようになった足を交互に動かしながら、小さく呟く。乾いた喉の奥から血みたいな味がした。
七瀬が居たのは見慣れた駅の外、目の前の広場の端に位置する円状のベンチだった。駅の明かりに反して、うっすらと暗い。
そこに座る彼女を見て、俺はひとまず安心して息を吐く。
ぼうっと七瀬は俯いたまま、時折目元を袖で拭う。いつにも増して白い肌に、赤い目元。その姿を見て、どうしようもない息苦しさを感じる。
……七瀬は、電車に乗ろうとしたのか?
こんな時間から? 一体どこへ?
いや、それならなぜこんなところに座ったままで……。
――声を、掛けなければ。
俺は七瀬の方へと足を踏み出そうとする。
けれど、その一歩が出ない。彼女に、一体どんな言葉を掛けていいのかがわからない。
ただ、時間だけが流れていく。
何度目かの人の流れを見送って。
俺はそっと、その場所を離れた。
そして、彼女の隣に腰掛ける。
七瀬がびくっと震えて、驚いた目でこちらを見たのが分かった。だらだらと嫌な汗が流れる。俺は彼女のことをまともに見ることが出来ない。
「……なんの、つもりですか」
乾いた声が、小さく聞こえた。
なんのつもりなんだろうな。でも、ここで逃げてしまったらきっと俺は、自分のことをもっと嫌いになってしまう。
何も答えられない俺を見て、七瀬はきゅっ、と唇を噛む。なにか言わなければと向けた視線の先の彼女の瞳に、じわりと涙が滲んだ。
「きらいです。……せんぱいなんて、嫌いです。……きらい」
俯いた七瀬が握りしめた手の甲に、ぱたぱたと雫が落ちる。
ぎゅっと握り締められた手とその涙を見て、胸が締め付けられる。呼吸が出来ない。
苦しいのは、俺じゃないはずなのに。
俺はただ、逃げているだけじゃないか。
「……わたし、せんぱいがなにを考えているのか、全然わからないです」
七瀬の言葉に俺は思わず目を見開く。
……なに、言ってんだ。
それは、俺の…………。
……そうだ。
七瀬のことばかり、考えていたんだ。
彼女はどうしたいのか、何がしたいのか、なにを考えているのか。七瀬がやりたいことはなんだ。なにが好きなんだ。そんなことばかり。
好きな食べ物。好きなこと。好きなもの。
弱みを握られているのだから、俺は彼女が求めることをしなければいけないのだと。
勝手にそう、どこかで思い込んでいた。
そんなことは、ありはしないのに。
七瀬は俺に、時に素直に、時に不恰好に、生意気に、下手くそなままに俺に教えてくれていたじゃないか。
七瀬は好きなものを。彼女の『好き』を、俺にくれていたのだ。
間違えていたのは俺の方で、すれ違っていたのは俺のせいで。掛け違えたボタンを見てみぬふりしていたのは、俺だった。
ならば。
ありがとうは、違う。
ごめんも、違う。
俺が今、七瀬に返すべき言葉は。
「――海、行くか?」
俺の口から出たのは、そんなバカみたいな言葉だった。
自ら発した言葉をもう一度頭の中で繰り返して、頬がぶわりと熱を持つのを感じた。
七瀬が垂れた髪の毛の間から俺の方を見る。赤らんだ目元に浮かぶのは、疑問の色。なにを言い出すんだこいつは、そんな顔だ。
……そうなるよな。わかるよ。
でもな、俺、夜の海が好きなんだよ。
他にも好きなもの、たくさんあるぞ。今までなにも、言ってなかったけれど。
七瀬の好きなもの、俺はたくさんじゃないけれど知っていた。きっと七瀬は俺に、教えてくれていたんだよな。
だから、俺が七瀬に返すべきものは。
「俺、夜の海が好きなんだ」
七瀬はぽかんと口を開けて。
彼女の頬を、勝手に涙が滑り落ちて。
がたごとと、遠くから電車の音が聞こえて。
「……いきたいです。せんぱいの、好きな海」
そう言った。
「だから電車賃、ください」
泣き止む前の、子供みたいな笑顔で。
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