第49話 走れ

 自分のことを真っ直ぐで正しい人間だと思ったことなど一度も無い。俺は時々嘘をつく。何かを誤魔化すことだってある。


 これまでだって、そうしてきたじゃないか。

 むしろ俺と彼女は、出会ってたった二ヶ月程度で、何度も何度もお互い嘘をついてきた。


 だから俺は、笑って適当に誤魔化せるはず。

 彼女を傷つけないために、嘘をつけるはず。

 先延ばしにするだけでもいい。今すぐに答えを出さなくたっていい。


 なのに、なんで、どうして。

 一番嘘をつかなければならない今この時に。

 俺はそんな簡単なことが、出来ない?


「…………せんぱい」 


 七瀬の声に、びくりと反応してしまう。


 何故出来ないかなんて、分かりきっていた。

 彼女のことが、もう俺の中で大切なものになっているから。


 七瀬の気持ちにはうっすらと気づいていた。

 ……気づかないわけ、ないだろ。

 その気持ちが嬉しくないはず、ないだろう。


 でも。なんで、俺なんだ。

 偶然、出会っただけじゃないか。時々一緒に晩ごはんを食べて。ろくでもない話をして。

 ただの先輩と後輩、それだけじゃないか。


 俺には好きな人が居て。

 けれど今、好きになってくれた人がいて。

 じゃあ好きな人は諦めて、なんて。


 そんな簡単に割り切れるものではないと、俺はそんな器用な人間ではないことを。

 誰よりも自分が知っていたはずなのに。

 

「……せんぱい?」


 七瀬の顔が、見れない。


 いつもみたいに、言ってくれ。

 からかうように、なに騙されてるんですかせんぱいって、言ってくれよ。潮凪さんと千歳だってきっと笑ってくれるさ。


 俺もやりやがったなって笑って、ふざけんなよって言い返すから。

 そんな風に俺をからかって笑っている七瀬が、きっと俺は好きなんだ。


 美味しそうに俺のごはんを食べてくれる所が好きだ。

 時々見せる子供みたいな笑顔が好きだ。

 きっと怖がりで寂しがり屋のくせに、強くあろうとするその姿が好きだ。


 俺を睨むときも、呆れた顔の時も、つまらなそうな時も、悪だくみをしているときも、いつだって綺麗に透き通ったその瞳が。


 ああ、そうだ。

 初めて見た時から、好きだ。



 でも。俺が一番好きなのは、七瀬じゃない。


「…………七瀬、俺は」 


 顔を上げ、言いかけた俺は思わず息をのむ。

 目に涙をいっぱいに浮かべた七瀬が、そこにいたからだ。


「…………せんぱい。なんで、そんなに悲しそうな顔をしてるんですか」


 震える声で言った彼女は、ふわりと笑った。

 閉じられた目尻から溢れた涙は、彼女の白い頬をつたって音もなく床へと落ちる。


「それ、は。こっちの……セリフだろ」


 そんな言葉だけが俺の口から漏れた。

 俺はまた、この子を……。

 

「…………あーあ。どうやら、勘違いしてたのは私の方だったみたいですね」


 彼女は何事もなかったように伸びをする。

 いつもとなにひとつ変わらない口調だった。

 ぽろぽろと落ちる、その涙以外は。


「大体、せんぱいが悪いんですよ? こんな可愛い後輩が勇気を出したって言うのに、そんなお腹壊したみたいな顔して」


 はあ、とため息をついた七瀬は続ける。

 段々と声が鼻声になっていく彼女を、俺はただただ見つめることしか出来なかった。


「分かってましたよ? 先輩に好きな人がいることくらい。そ、それくらいわかってました。わ、わかってたもん。わかってたのに」


「――なんで、言っちゃったんだろう」


 ぐしゃりと顔をゆがめた七瀬は、目元をぐいっと黒のワンピースの袖で拭うと、勢いよく立ち上がって玄関の方へと駆けて行く。


 その言葉だけは。

 絶対に俺が、彼女に言わせてはならないものだったはずだ。


 追いかけなければと思うのに、掛ける言葉も引き止める理由も、何もかも俺は持ち合わせていないことに気づいて、声が出ない。


 踏み出さなければならない足が、動かない。


「――は、ハルちゃん!」


 潮凪さんが遅れて立ち上がり、彼女の後を追う。七瀬によってがちゃん、と勢いよく閉められた玄関のドアの音が、ずしんと俺の奥深くに残って消えてくれない。


「…………は? せん、ぱい。なに、してるんですか? じょ、冗談ですよね? ね? 先輩。……先輩!!」


 シャツの袖を掴み叫んだ千歳の声に、俺の身体はようやく動く。


 ふらふらと立ち上がった所で、気づく。

 俺を睨みつける千歳の目も赤くなっていて、目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「……すまん」


 俺は何に謝ったのかも分からないまま、七瀬の後を追うようにして玄関へと向かう。


 ローファーを履いた潮凪さんがこちらを振り返り、俺を見る。その表情は怒りにも、悲しみのようにも見えて。


「相馬くんは、なんのために追いかけるの」


 なんの、ためなのだろうか。


「……ハルちゃんを追いかけて、何を言うの? 何が、言えるの?」


 その辛そうに響く声に、俺は奥歯を噛み締める。


 分かってる。

 俺が七瀬を追いかけた所で、この答えが変わらない以上は彼女に掛ける言葉なんて無い。


 潮凪さんも、俺に愛想を尽かしただろうか。

 妹のように可愛がっている子を傷付けた男のことなんて、嫌になっても仕方ないよな。


 ……なんて。

 この期に及んで自分自身のことを考えている自分に気づいて、吐き気がした。

 

 俺は、一体何がしたいのだろう。


 七瀬を、傷つけて。

 潮凪さんに、想いを伝えられるでもなく。

 目の前の彼女にこんな表情を、そして、千歳にもあんな顔をさせてしまって。


 俺がしたかったのは、こんなことではなかったはずなのに。


 あの素直じゃなくて、可愛くない後輩は。

 俺の弱みを握って。人のことをからかって。一緒に晩ごはんを食べてくれて。不満そうな顔をしながら、俺なんかのそばに居てくれて。


 俺のことを、好きだと言ってくれたのに。

 

「……俺はまだ、七瀬に何も」


 気づけば、勝手にそんな言葉が漏れていた。

 

 ……そうだ、俺は。

 このたった二ヶ月で沢山のものをくれた後輩に。好きだと言ってくれた彼女に。


「まだ、何も返せていないから」


 潮凪さんをもう一度見る。

 彼女は、一文字に結んだ口をゆるゆると開いて。俺には聞こえない声で、なにかを小さくつぶやいた。


 そうして、いつものようにやさしく笑って。


「……ハルちゃんのこと、泣かせないでね」


 そっと、ドアを開けてぽつりと言った。

 俺はその言葉に何を返すでもなく、靴を履いて彼女の脇を通り抜け、外へ出る。


 広がった外の景色は別世界のようで。

 俺のことを嘲笑うかのように、どこまでも澄みきった星空がそこにはあった。


 ただ、走れと。

 自らに言い聞かせて俺は、足を踏み出した。



 ***



 がちゃんと冷たい音を立てて閉まった扉を見つめていた私は、彼の足音が聞こえなくなるのを待って、息を吐く。


 どくどくとうるさいくらいに鳴る心臓を落ち着けようと息を吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。そして。


 苦しくなるばっかりの胸から零れ落ちたのは、知りたくなかった自分の気持ちだった。


「…………行かないでよ。相馬くん」


 私は自らの声にぞっとする。

 その声は、言葉は。きっと誰にも届かない。

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