第42話 ドーナツ
大体幸せな時には碌でもないことが起こる。
そう思ってしまうのは、その碌でもないことが脳裏に強く印象づいているからだ。
そして俺はいつの日か、ああそんなこともあったなと、今日という日を思い出すのだろう。
――本屋のある棟の、反対側の棟。
中規模のショッピングモールの、二階の奥まった位置にあるチェーン店のドーナツ屋。
そこに俺は、無理矢理連れてこられていた。
目の前の席には七瀬小春。その右隣に潮凪さん。俺の隣には千歳憂。
もはやどの配置になっても、地獄。
今まで俺は、男が女の子に囲まれるだなんて、現実には起こり得ない絵空事だと思っていた。だが今なら信じる。こういう感じね。
……全然嬉しくない。
目の前に座る七瀬ががぶりと、その小さな口でドーナツにかじりつく。
視線を隣へとずらすと、潮凪さんは困ったようにドーナツを眺めていた。
「……葵ちゃん? どうかしたの?」
不思議に思ったのか、七瀬が訊ねる。
潮凪さんははっとしたように背筋を伸ばすと、少し照れ臭そうに微笑んだ。
「ど、どこから食べようかなって」
くっ……可愛すぎるだろ。
俺が一人高鳴る心臓を押さえていると。
目の前のやつと、隣の席のやつがドーナツをくるくると回して眺め始めた。千歳に至っては「なるほど……」なんてぼやいている。
いやもう遅いから。君たちのドーナツ、もうどこから食べるとかそういう次元にないから。
俺の視線に気づいたのか、七瀬は咳払いをする。向けられた視線は、やけに冷たかった。
「……で、せんぱい。今日は他の女の子ですか」
俺は飲んでいた緑茶を吹き出しかけて、なんとか堪える。今日は潮凪さんもいるんだ。やましいことはなんてない。クールにいこうぜ。
「なんのことだか、分からないな」
「毎週のように部屋に女の子を連れ込んでるみたいですね。今週の月曜日も」
「なにをばかな…………ま、まさか」
否定しかけて俺は口ごもる。
月曜日は、七瀬が俺の家に来た日じゃないか。毎週のように家に来ているのも七瀬。こいつ、自分のことをまるで他人のように……。
しかも連れ込んだというかむしろ押し入られた感じだが、そこに触れれば全てを認めることになってしまう。
「心当たりが、あるみたいですね」
「そ、それは……」
七瀬はにやりと口角を上げる。
潮凪さんはその声にぴく、と反応したかと思うと、ドーナツをもぐもぐしながら俺に疑うような目を向けた。……悔しいが、かわいい。
俺の隣から「クズが」と言う声が聞こえた。
あの、すみません。隣の子だけ口悪すぎませんか?
「まあその事実については置いておいて」
「お、置くな。誤解を解け」
「二人は一体いつから……下の名前で呼び合うような関係になったのかな」
後半部分は、絞り出すような声だった。
呼び合ってはいないと否定しようとするが、その問いは俺ではなく、七瀬の隣に座る潮凪さんへと向けられていた。
「わ、私は別に。相馬くんに本を選んでもらいに来ただけだよ?」
「へえ、本を。不思議ですね、本を一緒に選ぶと名前呼びするようになるんですか? せんぱい?」
なんでこっちに振るんだよ。
しかし、やましいことは何もない。
「あれはまあ、ほんの冗談だから」
「そうですか、面白い冗談ですね。じゃあ私とちーちゃんにもやって見せてくださいよ」
「なんでだよ!」
「出来ないんですか?」
「い、いや……それは、まあ。出来るけど」
俺は言い切ると、隣を見る。千歳の目元の泣きぼくろが目に映った。そして彼女は、なぜか任せなさいとでも言わんばかりに、胸のあたりをぽんと叩く。
……くそ。何故乗り気なのかは全くわからないが、やるしかないのか。
俺は小さく息を吸って、言った。
「――憂」
「は? 名前で呼ばないでください」
俺だって呼びたかねえわこんちくしょう!
……なんて言い返せたらどんなにいいか。
しかしこれは、先程の潮凪さんへの名前呼びに深い意味はないと証明するためなのだと、自分に言い聞かせる。
「ほら、あと一人残ってますよ」
七瀬がため息をついてぼやく。
見てろよ……。こんなもの、いつも七瀬を呼ぶのと同じことだ。名前呼びに特に意味などないし、何も恥ずかしくない。
ない、はずなのに。
……どうしてこんなに、口が渇くのだろう。
俺はじっと七瀬を見る。
七瀬がこちらを睨み返したところで。
「……こ、小春?」
「…………は、はい。……じゃなかった違うから違いますから。は? な、名前で呼ばないでくださいほんとやめてもらえますか?」
何故か顔を真っ赤にして動揺する七瀬の様子を見て、俺は慌てて緑茶を飲み干す。隣に座る潮凪さんからの視線が痛い……気がする。
隣で呆れたように千歳がドーナツを口に放り込んで。
「……あっま」
なんて、呟くのが聞こえた。
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