第41話 とんでもない悪夢

 潮凪さんと俺が、デート。


 いつの日か七瀬が『――あの潮凪葵ですよ?』と言っていたことを思い出す。まったくもってその通りだ。


 彼女とデートしたい人なんていくらでも居る。そして、俺もその一人なのだから。


 今回誘われた時は勿論浮かれたが、すぐにそんなはずはないと自らを律して今日を迎えたお陰で、俺はどうにか精神を保てていた。


 しかしこれがデートとなると、非常にまずい。


 なにか言いたいことがあって俺は呼ばれたのではなく、デートに誘われていたのだと思うと急にどうしていいか分からなくなってきた。


 ……も、もしかして潮凪さんは。

 俺が知らないだけで、他の男ともこういうことをしていたりするのだろうか。


 あの純真無垢な笑顔で、数多くの男共を手玉に取ってきたのかも……なんて。

 そんなはずはないと、俺は首を振る。


 いや、そもそも俺にはとやかく言う権利も資格もありはしないんだが……。


「そ、相馬くん? そんなにじろじろ見られると、恥ずかしいんだけど……」


 本屋の一般文芸のコーナーを眺めていた潮凪さんは、照れ臭そうにはにかむ。

 俺はどぎまぎしながら目を逸らす。


「ご、ごめん」


 カフェを出て今回の目的地である本屋にたどり着いた俺たちは、二人で適当にぶらぶらと店内を見て回っていた。


 雨のせいか、週末ではありながらも店内に人の姿はそこまで多くない。おそらく併設されている中規模のショッピングモールの方に客は吸い込まれているのだろう。


 俺は、自らを落ち着けようと深呼吸をする。


 デートという言葉に踊らされるな。今日は本を見に来ただけだ。潮凪さんも言っていただろう。純粋な気持ちでいないでどうする。


 見ろ。潮凪さんなんて全然動じていないじゃないか……と再び視線を向けると。


 彼女は手に取った本を逆さまに持って眺めていた。やばい、向こうも滅茶苦茶動揺してたわ。なんでだ。


「潮凪さん? 本、逆だけど……」

「へ? …………あ。あはは、ほんとだ……」


 彼女は気まずそうに笑みを浮かべると、本をゆるゆると棚に戻す。

 本屋に入ってからどこか潮凪さんの様子もおかしい。もう、何がなんやら分からなくなってきた。


 潮凪さんが棚に戻した本の背表紙を見ると、どうやらサスペンスもののようだ。ほんとに色んな本読むんだな、なんて思ったところで。


 ……ふと、思い当たる。

 何か話さねばと思っていた俺は、それをそのまま口に出した。


「……そういえば潮凪さんって、あれ好きじゃなかったっけ? 『いもうとの友達にこ……」


 俺が言い切るよりも早く。

 潮凪さんが、隣でいきなり吹き出した。

 彼女は何度かけほけほと咳き込んでから、俺の方を泳ぎまくった目で見上げる。


「な……お、覚えて、たの……?」


 耳まで真っ赤に染めた潮凪さんは、口をわなわなと震わせながら呟く。明らかな、動揺。

 な、なにかまずいことを言ってしまったのか……?


「お、覚えてたのっていうか。まあ、実際この目で見たから知ってるってだけで……」


 俺が頬をかきつつ答えると、潮凪さんはその大きな目を見開く。


 ――ちょうど、去年の今頃のことだ。


 俺はこの本屋で、『いもうとの友達に恋をしたら初恋の子に告白された件について』、略して『いもこく』の全巻を抱えた潮凪さんに出会っている。


 『いもこく』はアニメ化もしたライトノベルの大ヒット作品。読んだことはないのだが、その内容について俺でも知っているくらいには有名な作品だ。


 ギャグとシリアスのバランスが完璧かつ、結構エロいらしいことで有名なのだが……。


 それをあの潮凪葵が嬉しそうに全巻持っていた時のインパクトといったら……当時の俺はまあそれなりに、いや、かなり驚いた。


 そして、潮凪葵という女の子が気になり始めたのもその頃からだ。今思えば、それが始まりだったのかもしれない。



「わ、わたしたち、どこかで会ったことがあったかな……」


 目の前の潮凪さんは、俺から目を逸らしてどこか遠くを見ながら言う。まるでタイムリープでもしたみたいな口ぶりだな、おい。


「普通にここで去年会ってるけど」

「…………」


 潮凪さんはぎゅっと目を瞑って、何やら考え始める。そして諦めたようにふぅ、と小さく息を吐いた。


「……相馬くんって、私のことどう思ってるの?」


 今度は、俺が吹き出した。


 い、いきなりすぎる! 

 どう思ってるかなんて決まっている。……実は好きです、ってか? 言えるかそんなもん!


「ええと、それは、どういう……」


 俺はおそるおそる訊ねると。


「た、たとえばその。……私が『いもこく』読んでたりすることについて、だよ」


 ぼそぼそと答える潮凪さん。


 そ、そういうことか……。安心した。

 しかしいくらなんでも紛らわしすぎるだろ。

 悩むことなく、俺は答える。


「いいと思うけど。……むしろ、貸してほしい」


 本心からの、言葉だった。

 そりゃあ俺だって、大声で叫びづらい本を読むことくらいある。だから、どうした。


 誰かの好きなものを否定するつもりないし、それが自らの好きな人の好きなものなら、出来ることなら俺も知りたいと思ってしまう。


 ……それにしてもいきなり貸してくれだなんて、気持ち悪がられたかな、なんて思いつつ顔を上げると。


 両手で顔を隠した潮凪さんが、そこには立っていた。

 彼女は、手の隙間からぼそぼそと声を漏らす。


「……あ、ありがとう。貸す。貸すね。わたし、ずっとそのこと、気になってたから……」


 ……そのこと?

 俺が首を傾げると、潮凪さんはゆっくりと両手を下ろす。その向こうには、どこか泣きそうな、でも嬉しそうな彼女の笑顔があった。


「――私も相馬くんにここで会ったこと、覚えてたんだよ?」


 その言葉に、俺は息を呑む。

 そんなはずは無いと思っていたけれど、少しだけ期待している自分もいた。

 

 だからもし、本当にそうなら……。


「そ、そっか」


 俺は思わず口元を手で隠して、顔を背ける。

 ……にやけてしまうのが、バレないように。


 普通に嬉しくて死にそうだ。

 好きな人が、一年前にただ会っただけの自分のことを覚えていてくれたのだから。


「それとね? ずっと相馬くんに言いたいことがあって」

「……言いたいこと?」


 心臓が、高鳴る。

 潮凪さんはさらさらとした髪をゆっくりとした動作で耳にかけると、どこかからかうように呟いた。


「――相馬くん、怖い顔で本見すぎ」


 ……辛くて、死にそうだ。

 俺はがっくりとうなだれる。久しぶりに言われた気がするけれど、やっぱそうなのかなあ……泣いていい?


「あ、で、でも! いまはちがうからっ!」

「一年前と、同じ顔なんだけどなあ……」

「うう……それは、そうかもしれないけど」

「そこは同意するんかい」


 ぐぬぬ、と困り顔を浮かべる潮凪さんに、俺は肩を落としつつ冗談ぽく返す。


 ちょうどそのタイミングで俺たちのすぐ後ろを眼鏡をかけた男の人が通り、慌てて二人で謝りながら道をあける。


 そして二人顔を見合わせて、小さく笑った。

 

 お互いに一年前から知っていたことを、偶然言い合っただけのただそれだけのことだ。

 けれどそれは、まるで二人だけの秘密を共有するみたいで。


 俺はまたひとつ彼女について知って。

 また少しだけ、仲良くなれた気がした。


 潮凪さんは「ねえ、相馬くん」と前置きしてから、俺の横を歩いて通り過ぎていく。つられるようにして彼女の方を振り向いた。


「今まで、お互いひとつ隠してたことを話した記念として……」


 と、そこまで言ってこちらを見ると、彼女はまた黙り込む。襟元の白がやけに眩しくて、その澄んだ瞳が俺を捉える。


「……潮凪、さん?」

「――それ」

「え?」


 ぴっ、と彼女の細く白い指が向けられた。


「その『さん』呼び、やめてほしいな」

「え、でも……」

「潮凪さんって呼び方、よそよそしいと思うんだ」

 

 ……それは、まあそうかもしれないけれど。


「じゃあ、俺はなんて呼べば」

「わたしは知らないもん」


 子供みたいに言うと、潮凪さんは楽しそうに微笑んでわくわくした目をこちらに向ける。

 どうやら呼ばないわけにはいかなそうだ。


 少し考えてみる。

 ……いつもの俺なら『潮凪』とでも呼ぶのだろうが、今なら少しくらいふざけてもいいのかもしれない。『葵ちゃん』は七瀬が呼んでいるから、それは無しだとすると……。


 俺は高鳴る心臓を押さえつつ、彼女へ向けて口を開いた。


「――あれ? 葵ちゃん?」

「――あ、葵………………え?」


 言い切った俺の声と重なるようにして。

 

 その声は、響いた。

 潮凪さんの方から。

 ……いいや違う。彼女の、さらに後ろから。


 ぽわんと赤く染まった頬のまま、潮凪さんはぎこちなくその声の方へと振り返る。

 

 そして彼女の向こう側から、ひょこ、ひょこと二人の女の子の姿がこちらを覗き込むようにして現れた。


 俺はその女の子を、女の子達を知っていた。

 驚いたように見開かれたその目は、いつしか蔑むようなものへと形を変えていく。


「………………へえ」


 地獄の底から湧き出たような声。

 凍てつくような、冷え切った温度のない瞳。

 そしてそれらをより引き立たせるように、丈の短めな黒のシャツワンピースを着たその女の子は。


 黄色いステッチの入ったホールブーツから伸びる白い足を、俺の方へ大きく踏み出すと。


「――こそこそ隠れて何をしているのかと思えば……いったい、いつから下の名前呼びになったんですかね? ?」


 こんなことが、前にもあった様な気がする。

 ……これはきっと、とんでもない悪夢だ。

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