第40話 関係ないもん
「――お、お待たせっ」
週末の土曜日はあいにくの天気。
しとしとと降り続く雨の中、約束通りの十三時半に潮凪さんは待ち合わせ場所に現れた。
ぱたぱたとこちらに駆け寄って来る彼女は、濃いグレーのワンピースを着ていた。襟元と袖口が白いタイプ。靴は艶のある黒のローファー。
大人びた雰囲気の中に、どこか可愛らしさを感じさせる。
というか、めちゃくちゃ可愛い。やばい。俺の語彙力が一番やばい。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いや、ぜんぜん」
潮凪さんが指定した待ち合わせ場所は、俺の家の最寄駅。わざわざこちらに来てもらうのは悪いと話したのだが、『近くにある本屋さんに行きたいから』とのことだった。
その本屋は俺がよく行く場所であり……そして、なぜか潮凪さんも訪れる場所だということを俺は知っている。
「……じゃあ、行こ? 相馬くん」
「あ、うん」
俺と潮凪さんは傘を開き、横並びで歩く。
雨粒が傘をぽんぽんと鳴らし、道沿いを走る車が水飛沫を散らして進んでゆく。
潮凪さんのワンピース姿を見て、俺が道路側を歩いていてよかった、なんてことを思った。
「――いい天気だね」
潮凪さんは傘の下から顔を覗かせ、こちらを見ながらにこりと微笑む。
「そうだね……そうだろうか?」
降り続ける雨の中、どんよりと灰色に染まる空を見上げる。潮凪さんの言うことなのでつい無意識のうちに肯定してしまったが、どう見てもいい天気ではない。
「私、雨の日好きなんだ」
「……珍しいね」
「そう? こういう雨の日にね、おうちとか、カフェで本を読んでると、なんだか守られてる気持ちになって落ち着かない?」
「それは、雨から守ってくれてる家とカフェが好きなんじゃないかな」
「……なるほど、そういう考え方もあるか」
ふむ、と顎に手を当てる潮凪さん。
というか絶対そうなのでは……。
「でも今、こうして相馬くんと歩いてるのも楽しいよ?」
へへ、と彼女は無邪気に笑う。
俺も楽しいよ、なんて言葉を自然と返せるはずもなく。
「……それは、どうも」
もし、本当にそう思っているのなら。
彼女はきっと、雨の日が好きなのだろう。
***
「ホットのカフェラテをください」
「アイスコーヒーを」
最初に訪れたのは、駅からほど近い場所にあるカフェだった。てっきりすぐに本屋に向かうものだと思っていたのだが。
「潮凪さん、ホットなんだ?」
六月に入り、気温も上がってきている。俺がなんとなく訊ねると、彼女はまた顎に手を当ててううん、としばし悩んでから答える。
「ほら、夏に食べるお鍋は美味しいみたいな!」
「分かるような、分からないような」
潮凪さんの柔らかい雰囲気に、自然と笑みが溢れる。絶対癒やし効果あるよな、潮凪さん。
……しかし、俺にはまだ分からない。
彼女がなぜ、今日俺を誘ったのか。
理由もなく誘うはずもなく。俺が一人悩んだ末に出した答えは『先週の七瀬のことについて聞かれでもするのだろう』だった。
それにしても、どうも落ち着かない。
この場所は、このカフェは。……俺が潮凪さんを、意識し始めた場所だからだ。
きっと彼女の方は、ここで俺と何度か会っていることなんて覚えていないのだろうが……。
目の前の潮凪さんを見る。整った顔と白く澄んだ肌。雨の日だというのに、乱れることのない流れるような艶のある髪。
窓の外を眺めるその姿さえ、やけに様になっている。
「ねえ相馬く……」
潮凪さんと目が合う。彼女は誰かに話をするとき、いつだってこんな風に優しく笑うのだ。
「え、と……な、なにかな……?」
「あ、いや、なんでも!」
困ったように首を傾げる潮凪さんから、俺は慌てて目を逸らす。
まずいな。吸い寄せられるように視線が潮凪さんの方へ向いてしまう。良くない。良くないぞこれは。
俺は誤魔化すように訊ねる。
「し、潮凪さんは、よくここ来るの?」
「え、えーっと。た、たまに……かな」
「そ、そうなんだ」
「……相馬くんも、来たりするの?」
おずおずとこちらを見ながら訊ねてくる潮凪さんに、目を奪われそうになりつつも。
「……たまに、来るかな」
「そ、そっかあ」
去年から俺は定期的にここに通っている。
潮凪さんを知るより前から。彼女のことを知ってから。彼女のことを、好きになってから。
そう言ってしまえれば、楽なのだけれど。
そんな勇気も自信も、俺にはまだ無い。
「――お待たせしました」
俺の目の前に、少し丸みを帯びたグラスに注がれたアイスコーヒーが置かれる。
例の小鳥遊珈琲店のコーヒーも好きだが、ここのコーヒーの味と香りが一番好みだ。
「おいしい」
こくん、と向かいの席で一口カフェラテを飲んだ潮凪さんがつぶやいた。
幸せそうな顔がまぶしい。
「ここ、アイスコーヒーもうまいよ」
俺が言うと。
「わ、そうなの? じゃあ、ひとくち……」
髪を耳にかけた潮凪さんは、俺の方へと身を乗り出して来るように立ち上がり……。
はっ、と何かに気づいたように固まった。
彼女の、潤った薄桃色の唇が目に映る。
「…………あ。え、えっと。ちょっと間違えた」
潮凪さんはそう言って、恥ずかしそうにゆるゆると席に戻ってうつむいた。
――ほ、本当に飲むのかと思った。
俺は自らのグラスに刺さる青のストローを見る。きっと彼女は友達だとか、それこそ七瀬とでも居る感覚で動いてしまったのだろう。
「……今度、来た時飲んでみたらいいよ」
高鳴る心臓をおさえつつ、出来るだけ冷静に俺は話しかける。
「そ、そうだね。そうする」
潮凪さんはこくこく頷くと、両手でカップを抱えてまたカフェラテに口をつける。
カップの向こうの頬は、ほんのり赤い。
……このままでは、俺は潮凪さんとデートでもしている気分になってどうにかなりそうだ。
早いところ、彼女に本題に入ってもらおう。
最も可能性の高い七瀬のことについて聞かれた場合のことを想定しつつ、俺は訊ねる。
「それで、潮凪さん。今日はなんで俺を?」
「ふぇっ!?」
潮凪さんは驚いたようにがつんとカップをソーサーに置いた。
どうしよう、思った以上に驚かれた。俺はなにか変なことを聞いてしまっただろうか……。
「な、な、なんでって……」
「ほら、急だったし何かあったのかなって」
「べ、別に。ただ相馬くんに、おすすめの本教えてもらおうかなって。じゅ、純粋な気持ちでね?」
「そ、そっか」
純粋じゃない気持ちってなんだろう。
俺は動揺する潮凪さんに同調するように動揺しつつ、おそるおそる口を開く。
「いや、俺はてっきりこないだのこと怒ってるのかなと」
「……こないだの、こと?」
訝しげにこちらを見る潮凪さんに、言葉が詰まる。
ち、違うのか? 可愛い私のいとこに手を出すなだとか、下心見せるなだとか言われるのかと思っていた。
しかしそうでもなければ俺を誘う理由なんて……。
「……七瀬の件について、とか」
「…………」
潮凪さんは一瞬考え込むように首を傾げると、すぐにこちらをじと、と見つめる。
その表情はどこか七瀬を思い出させて、俺はどきりとする。
「……今、ハルちゃんは関係ないもん」
むっとした潮凪さんは、ぽつりとぼやいた。
七瀬の、件じゃない?
それならなんで、俺は呼ばれたんだ?
潮凪さんと俺の繋がりなんて、それ以外には……。
「き、今日は私と、その……でで、デートしてるんだから。ハルちゃんは、関係ないでしょ」
ぷい、と彼女の顔が背けられる。
…………でえと?
今、潮凪さんは。デートと言ったのか?
俺は思わず太ももをつねる。くそ痛かった。
「……それとも相馬くんは、あるのかな? ハルちゃんと、デートしたこと」
「い、いや。ないけど」
「ほ、他の人とは、あるのかな」
「…………デートの、定義による」
「女の子と二人で約束して、お出かけとか」
「……あんまない、かも」
「そ、そうなんだ」
あんまりとは見栄を張って言ったものの、全く記憶にない。七瀬と千歳については、あれはデートなんて呼べるシロモノでは無いだろう。
俺はどうにか答えると、ストローに口をつける。いつの間にか、グラスは空になっていた。
潮凪さんはほんのり赤みがかった顔に、蠱惑的な笑みをたたえたまま、こちらを真っ直ぐに見て言った。
「――じゃあ、私がいちばんだね」
「…………」
まずい。
潮凪さんの話している声は聞こえるのに、思考が追いつかない。俺と潮凪さんが、デート?
俺はちら、と壁の時計に視線を向ける。
まだ十四時になってすらいない。
……今日、俺の心臓は持つのだろうか。
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