第39話 本

 余計なことと、慣れないことは言わない方がいいと改めて実感した。

 七瀬がにやにやと嬉しそうに俺の部屋を出ていった昨日から一夜が明けて。


「……貸してくれるの? あ、ありがとう」


 俺が手渡した本を、潮凪さんは嬉しそうに微笑んで受け取った。やわらかく温かな日差しのような笑み。


 『――相馬くんのオススメの本、読んでみたいな』


 昨日のことだ。


 潮凪さんに急にそんなことを言われたものだから、俺は家の本棚やそこらに積んであった本を全てひっくり返し、悩みに悩み抜いて選んだ本を今朝彼女に手渡した。


 七瀬のせいで、不安定な気分で選ぶことになり無駄に時間を要したが……まあいい。


「潮凪さんに満足してもらえるかは、分からないんだけど」

「ううん。相馬くんが選んでくれたんだもん。……ふふ、楽しみだなあ」


 潮凪さんはとても大切な宝物みたいにその本を抱える。俺も読書はする方だが、彼女はきっと俺よりもずっと多くの、色々な本を読んでいる。


 満足してもらえると、良いのだが。

 そんなことを思いつつ彼女の笑顔を見ていると、なぜかいつかの本屋でのことを思い出す。


 あの時は…………。


「――くん。……相馬くん?」


 潮凪さんの声で、我に帰る。


「あ、ああ。ごめん。なんだっけ?」

「もう。またぼーっとしてるよ? ……あ、また変なこと考えてて昨日眠れなかったんだ?」

「い、いや。そんなんじゃないって」

「……もしかして、ハルちゃんのこととか?」


 その囁くような声に、思わず俺は咳き込む。


「え? そ、相馬くん? 大丈夫?」

「いや、そうじゃなくて! 昨日はただ七瀬と……」

「…………ハルちゃんと? な、なにかな?」


 ……墓穴を掘った。昨日から俺は一体どうしたのだろう。温泉でも掘り当てるつもりか?

 潮凪さんのやさしいはずの笑みが、今はどうしてか恐ろしいものに見える。


「お、俺はやめろって言ったんだけど」

「うんうん」

「七瀬がどうしても料理を教えて欲しいって言うから」

「……うん」

「ちょっと晩ごはんをご馳走したというかさせられたというか……」

「……ふうん」


 潮凪さんの表情は変わらない。

 見ていられなくて視線を落とすと、夏服に変わった水色のシャツとリボンが目に映る。そのシャツを押し上げるようにして主張す……俺は黙ってまた視線を上げた。


 潮凪さんと目が合う。吸い込まれそうな瞳。

 ふい、とすぐに逸らされた。


「な、仲良いなあ、二人はほんと」

「い、いや。そんなことないって」

「だって、せ、先週も……」

「あれはたまたま……」


 い、息が詰まりそうだ。


 しかし改めて考えてみると、俺は一体どれだけ七瀬に晩ごはんをご馳走しているんだ。明らかにおかしい。潮凪さんに変に思われても仕方のないレベルだ。


 潮凪さんはほんの僅かな疑いの色を浮かべた目で俺をちら、と見やる。なにか言わなければと俺が唇を湿らせたところで。


「…………いいなぁ」


 彼女はぽつりと、そんなことを言った。

 少しずつ人の増え始めた校内の、教室の喧騒に今にもかき消されそうな声で。


「……え?」


 無意識のうちに声が漏れた。

 潮凪さんはゆっくり、ゆっくりとその大きな目を見開くと。


「………………あ、あれ? い、いま、わたし。な、なにか言ったかな」

「い、言って無いんじゃないかな……」

「だ、だよね!」


 どうにか答える。

 聞き間違いか……? いや、でも確かに……。


「……あはは、なんだか暑いね」


 潮凪さんはぱたぱたと両手で頬をあおぐ。

 ほんのりと紅潮した頬がやけに綺麗だ。


「いやあ、ほんとにね!」


 もう六月だしね! 蒸し暑いよね!

 合わせるようにして胸元をぱたぱたと揺らす。

 朝、今日はやけに涼しい日だなと思った俺を記憶から消し去ることにする。


「あ、暑いと言えば。相馬くん、今週なんだけど」

「ああ、今週ね!」


 適当に返事をして思う。暑いと言えば今週?

 どんな連想ゲームでも絶対失格だと思います潮凪さん。


「――ひ、暇な日、あるかな」


 暇な日ってなんだ?

 ……暇な日? ひ、暇な日、だと?

 俺はごくりと喉を鳴らす。


「ええーっと。平日はバイトがあるから……し、週末なら、暇かな」

「へ、へえ。週末かあ。そ、そうなんだ」


 会話が、終わる。

 なにこれ? 試されているのか? 週末に予定がないんだ相馬くん寂しい、私は埋まってるけどねってことか? 辛すぎる。


 潮凪さんは困ったような笑みを浮かべたまま、俺の方へ向けていた身体を前へと戻すと、鞄の中を整理し始めた。

 

 どうやら会話は終わりらしい。

 本当に暇な日を確認されただけだった……。

 最近の女子高生の間ではそういうのが流行っているのだろうか……。


 俺ががくりと肩を落としつつ、鞄の中の教科書を机の中へ入れていく。

 

 鞄の中に入れていたスマホの画面が不意に光る。メッセージの通知だ。


 俺は辺りを見回し、鞄の中でスマホを操作する。

 ――潮凪葵の文字が、画面に映った。


 慌てて真横を見る。潮凪さんは何食わぬ顔で窓の外を眺めていた。艶のある髪が、風でそよそよ揺れる。


 俺はおそるおそる画面をタッチし、隣の席の彼女から送られてきた内容を確認した。


『相馬くん。今週の土曜日、一緒にハン買いに行きませんか』


 …………ハン?

 

 もう一度横を見る。表情は分からない。

 俺は返信をするかどうか迷って、彼女の背中にこっそりと訊ねてみる。


「…………あの。ハンって」


 返事はない。俺は仕方なくメッセージを返す。

 しばらくして、潮凪さんはまたごそごそと鞄を探りはじめる。俺はじっとそれを眺めつつ。


 潮凪さんの背中が、ぷるぷると震えた。


 そうして彼女はこちらを振り返る。ぱくぱくと口を動かしながら。初めて見るかもしれない潮凪さんの真っ赤な顔が、そこにはあった。


 ぎゅっと目をつむり、恥ずかしそうに彼女は小さく叫んだ。


「――ほん!」

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