第四章

第37話 六月

 ――ハルちゃんは、本気だ。

 私も、うかうかしていられない。のんびりしてたらダメなんだ。ハルちゃんに負けないように、積極的にいかなくちゃ。


 でも、積極的にって。

 ど、どうしたらいいんだろう……?



 ――ここ最近のわたしは、がんばった。

 少しくらいはあのせんぱいだってドキドキしたはず。でも、私の相手はあの葵ちゃん。このまま黙って見てるだけとは思えない。


 それなら、私は――。


 

***



 とんでもない金曜日を終え、ついにカレンダーはめくられて六月を迎える。暑苦しいブレザーは先月へと投げ捨てて、今日からは夏服だ。

 

 例の七瀬の鍵については、どこかの優しい生徒によって職員室に落とし物として届けられていたらしく、一件落着で五月は幕を閉じた。


 色々ありすぎてあっという間だった、なんて言葉をよく聞くが、俺からしてみれば逆だ。まるで数ヶ月みたいに長い一ヶ月だった。


 どうか六月は落ち着いたひと月になりますように。なんて願いに神様が応えてくれたのか、拍子抜けするほどに平和な一日を過ごした。


 ……今、この瞬間までは。


 随分と日が長くなってきた六月初日。


 俺の平和な夜の時間を裂くように響いたチャイム。俺が開いた扉の向こうには、案の定七瀬小春が立っていた。


「……何の用だ」

「せんぱい。夏服ですよ?」


 七瀬は器用にくるりと一周してみせた。

 涼しげな水色のシャツ。スカートがふわんと揺れて、また元の位置へと戻っていく。


 先週までの俺ならきっとどぎまぎしていたことだろう。だが、この土日で冷静さを取り戻した俺にしてみれば、ただの後輩の夏服だ。


 ……まあ、少しは似合ってるけども。


「あのな、それくらい見たらわかる。まさか、それを見せに来たってわけじゃないだろ?」

「――わたしに料理、教えてください」


 ……俺は扉をそっ、と閉める。

 噛み付くようにして勢いよく扉が開かれた。


「……ちょっとせんぱい? どういうつもりですか? 可愛い後輩が健気に料理を教えてと頼み込んでいるんですよ?」

「いいか? 今の俺は忙しい。七瀬に構っている暇はないんだ」


 なんで俺がこいつに料理を教えてやらねばならない。お料理教室じゃないんだぞここは。


「どう見ても暇そうに見えますが」

「……忙しいんだよ。明日までにオススメの本を選ばないといけないんだ」


 言うと、七瀬の眉がぴく、と動く。

 

「へえ。お、オススメの本ですか。だ、誰に貸すって言うんですかね」

「あ」


 ひくひくと動く七瀬の口角。俺はどうやら余計なことを言ってしまったらしい。


「……あ、あれ。誰だったかな」

「そういう手で来ましたか……油断も隙もないです……。それなら、こっちは……」

「な、七瀬?」

「あ、いえ。こちらの話なので」


 七瀬はぼそぼそと独り言のように何か言っていたかと思うと、それを誤魔化すようににこりと笑う。

 

 そうして、するりと俺の脇を抜けて部屋へと滑り込み。またくるりとこちらへ向き直ると、可愛らしく子供みたいにはにかんで、言った。


「おかえりっ、おにいちゃん!」


 俺はあまりの出来事にフリーズする。

 七瀬はと言うと、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。耳までほんのり赤く染まったところで。


「……や。ち、ちょっと今の、なしでもいいですか」


 真っ赤な顔を両手で覆ってつぶやいた。


「……ほんと何しにきたんだ、お前」



 謎の妹キャラで自爆した七瀬がいたたまれなくなって、俺は仕方なく晩御飯をご馳走してやる。何度目だよ、この流れ。


 今日の晩ごはんは、ごはんとひき肉で作った肉団子を入れたトマトスープ。多めに作って冷凍する予定だったのだが、全て七瀬の分に回ってしまった。


 トマトを丸ごとミキサーにかけて使っているので栄養もたっぷり。そしてこれが、マジでうまい。


「で、妹。何しに来たんだよ」

「…………次私のことをそう呼んだら、せんぱいの持ってるエロいものを全部葵ちゃんにバラします」

「バカな! なんでお前がそれ……」

「え……? あるんですか……?」


 違うんだ、あれは青ちゃんが勝手にだな。 

 なんなのこいつ。人の弱み吸引機かなにかなのか? うん。もう俺を殺してくれぇ……。


 ドン引きする七瀬を無言で睨みつつ、俺はトマトスープをすくう。涙目になってたかもしれない。肉の旨味が効いたスープが心に沁みる。


「……うまいな」

「いや、話逸らさないでください」

「黙って食え」


 ジト目で俺を見ながら七瀬もスープを一口。

 ……もう最近は見るだけでわかる。あ、美味しかったんですね。良かったです。


「こ、これ。お店だせます」

「出せねえよ。そんな簡単にお店が出せてたまるか」


 七瀬の美味しそうに食べる姿を見るのは、まあ、悪い気分じゃないけどな。なんて、夢中でスープをすくう彼女を見て思う。


 しかしうまく話題を逸らせてよかった。

 俺がほっとしつつ肉団子をもぐもぐとやっていると、同じようにもぐもぐしつつ七瀬が言う。


「料理、教えてください」


 そっちに逸れるのか……。


「……なんで急に料理なんだよ。七瀬は食べる専門だろ?」

「失礼な。私だって料理くらいします」

「え? そうなの? 最近何作ったんだ?」

「…………ゆで、たまご?」


 七瀬は顎に指を当て、首を傾げた。

 俺は優しく微笑む。


「仕方ないな。そこまで言うなら教えてやるよ」

「ほ、ほんとですか!?」

「ああ、とっておきのやつだぞ? ポーチドエッグって料理なんだけどな」

「なんですかそれ! か、かっこいいです!」


 ……とても嬉しそうにスマホでポーチドエッグを調べた七瀬に、死ぬほど怒られた。いや、ポーチドエッグ、結構加減が難しいからね?

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