第35話 どうしようもなく


 ――潮凪さんと七瀬と別れた帰り道。

 まるで逆再生のようにがたごとと電車に揺られて。そして駅から一人、家へと歩きながら。


 ああ、そういえばと思い出す。

 俺が潮凪さんのことをきちんと知ったのは、たしか一年前のこれくらいの季節だった。


 湿り気のある風が吹いているくせに、やけに青々とした空がそこにはあって。

 

 潮凪葵、という名前だけは入学当初から俺でも知っていた。学年でもすぐに知れ渡るほどの容姿に、やわらかい雰囲気とおひさまみたいな温かい笑顔。


 持つべくして持った人間が、当たり前のように持て囃される。それはこれまでもずっとそうだったし、これからもきっとそうなのだろう。


 そして俺は思っていた。そんな特別な人と自分は、関わることすら、ないのだろうと。



***



 ――私はきっと、どこかで安心してた。


 せんぱいに会うたびに少しだけドキドキするようになったことに気づいたとき。私は『ああ、良かった』と心の隅で思ってしまった。


 せんぱいの好きな人があの葵ちゃんなら。

 ……たぶん、上手くいかないんじゃないかな、ってどこかで思ってたんだと今更気づく。

 私はたぶん、性格がすごく悪いんだ。


 だって、葵ちゃんは本当にモテるんだもん。

 言い寄って来る人も沢山居るだろうし、その中にはせんぱいより顔が良い人も、人気のある人だっていくらでもいるだろうって思ってた。


 せんぱいのいいところを知っているのは、きっと私だけだから。


 しかも高校に入っても、葵ちゃんは全然誰とも付き合ったりしない。そういうことに興味はあるんだろうけど、葵ちゃんにふさわしい人がまだ居ないんだろうな。


 きっと、彼女の隣に立つ人は王子様みたいに素敵な人なんだろうなと思ってた。


 その気持ちが不安に変わったのは、せんぱいと三人で一緒に晩ごはんを食べたとき。

 葵ちゃんは私に色々言っていたけれど、自分だってすごく楽しそうで。

 

 せんぱいがカレーを美味しいと言った時の、あの葵ちゃんの笑顔を見た時に私はどきりとした。私の知らない、子供みたいな笑顔。


 ……きっと、せんぱいは全然気づいていないんだろうけど。


 私は、ほんの少しだけ焦った。

 そんなはずないよと自分には言い聞かせてはみるけれど。余計なことも言っちゃったし、ついもやもやとした気持ちが湧いてきて、せんぱいにLINEを聞いたりしてしまった。


 それでもまさか、あの葵ちゃんがせんぱいを好きだなんてどうしても信じられなかった。

 ……それが確信に変わったのは、昨日の夜。


 眠れない私がどうしようもなくなって、葵ちゃんに先輩の好きな人を聞いて欲しいと電話で頼んだとき。

 

 葵ちゃんはいつもみたいに優しい、子守唄みたいな声で応えてくれたけど。私には分かってしまった。どうしても、分かってしまった。

 

 息を呑む音。かすかに掠れた声。

 まるでなにかとても大切なものを隠すように、私をからかう葵ちゃん。


 今日のお昼だって、そう。

 いつもは私とごはんなんて食べないのに、いきなり「ごはん、食べよう?」なんて葵ちゃんは言い出すし。


 気になる人はハルちゃんかもしれないよ? なんて、そんな顔で言われたら、ぜんぶ分かっちゃうじゃん。

 

 ……好き、なんでしょう?


 ……葵ちゃんがどこの誰に告白されても、誰とも付き合わないのはせんぱいを好きだったから、だなんて。悪い冗談で、夢で、勘違いであってほしかった。


 だから今日の七瀬小春は、せんぱいに対しての、そして、葵ちゃんに対しての宣戦布告。

 居ても立っても居られなかったから。


 どれもこれも、全部ぜんぶ私の勘違いであってほしかったのに。

 今、私は知ってしまった。

 なにも、なにも聞きたくなかった。


 聞かなければ、きっと私は葵ちゃんにとってのハルちゃんとして、最後までなにも知らないふりが出来たから。



 ――駅から葵ちゃんの家までの、帰り道。


 何度も一緒に、歩いた道。


 私はどくどくと鳴る心臓をぎゅっとおさえながら、夜に混じって消えてしまいそうな声で、葵ちゃんに同じ質問をする。


「――葵、ちゃんも。せんぱいのことが、好きなの?」


 私の声に、ぴくんと肩が揺れる。

 どこまでも白く透き通る、その肌が。

 大好きな、その笑顔が。

 手入れの行き届いた、その髪までも。


「……うん。好き」


 どうしようもなく綺麗で。

 私はどうしようもなく、泣きそうになる。


 葵ちゃんは、なにかを思い出すように星がぷかぷか浮かぶ空を見上げた。


「……たぶん去年の今頃くらいから、かも」


 私もつられて顔を上げる。

 真っ暗な夜空。

 ぼやけた星の光が、ちかちか揺れて。


 私も好きなの、って言葉だけは。

 どうしても、言えなかった。

 

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