第34話 ハルちゃんも

『どういうことなのか説明してもらえるかな』

「……どういうことと、言われましても」

「――?」

「あ、はい。すみません」


 スマホ越しに潮凪さんの冷めた声が届く。

 彼女の顔が見えないせいなのか、聞いたことのない低く感情の読めない声。あの潮凪さんでも、怒るのだろうか……?


 ひとまず俺は真綿で首を絞められるような感覚の中、七瀬の鍵の件について話す。そしてたまたま、本当に今日はたまたまごはんを一緒に食べたのだということを潮凪さんに伝える。


 七瀬は俺の横でどこか遠い世界に行ってしまったように体操座りで放心しているので、ひとまずそのまま置いておく。


『……泊まれって、ハルちゃんに言ったって聞いたんだけど』

「そ、それは、俺の家ではなくてですね。その、鍵が無いなら潮凪さんの家に泊まらせていただくのはどうかと進言しただけで」

『……お風呂入っていけって言ったのは?』

「そもそもそんなこと言ってなくてですね」

「……責任、取るっていうのはど、どういう意味かな。ハルちゃん泊まらせて、一体なにを」

「それも言ってないというか」

『…………』


 改めて振り返ってみても、俺なにも言ってないよな。沈黙が怖い。黙らないで、潮凪さん。


『――じゃあ。さっきは、なにしてたの?』


 背筋が凍る。俺の下でこちらを見上げる七瀬の顔が鮮明に浮かび、一瞬反応が遅れた。


 視線を横に向けると、膝と腕で顔を隠し、目元だけを覗かせた七瀬と目が合う。七瀬は気まずそうに顔をぷい、と背けた。


「……それは。ほんの事故で」

『具体的には?』

「ぐ、具体的にって……それは」


 スマホを奪い取ろうとした結果、七瀬を押し倒して壁ドンならぬ床ドンをかました上、見惚れてドキドキしてましたとは絶対に言えない。


『――ふふ』


 スマホ越しに、柔らかい声が漏れた。


『……冗談だよ。相馬くん、焦ってるなあ』


 いつもの潮凪さんの優しい声。

 冗談……? その言葉の意味を理解してようやく、ゆるゆると力が抜ける。


「び、びびった。演技力ありすぎでしょ……」


 俺は安堵のため息を吐きつつ、ぼやく。

 ひとつも冗談に聞こえなかった。まったく七瀬といい、この血筋の演技力はとんでもない。


『――それで? ほんとなにしてたのかな?』


 またぞくりとするような声で潮凪さんはつぶやくと、すぐに『……なーんてねっ』と笑う。

 顔が見えないせいもあるが、心臓に悪い。


「大丈夫、相馬くんだから心配してないよ。事情は分かったし」

「そ、そう言ってもらえるなら助かる……」

「でもまさか、本当に泊めてもらうわけにもいかないから……うん。今から、私がハルちゃん迎えにそっちいくね?」

「いや、夜遅いし俺が……」

「……泊めて、あげたかったり?」

「じ、じゃなくて! 潮凪さん一人でこっち来るのは危ないから、俺が七瀬を連れてくよ」


 潮凪さんはどこか嬉しそうに笑う。

 

「ふうん? そこまでしてくれるなんて、やっぱりなんだかやましいことでもあるのかな?」

「っ! いや、な、無いけどさ」


 七瀬も今日はおかしかったけれど……潮凪さんもやけに俺に手厳しい。まあ、可愛がっているいとこがこんな時間に男と居るとなると、色々言いたくなるものなのだろうか。


「――しょうがないなあ。じゃあ、こうしよっか。ハルちゃんに変なことをしたのを見逃してあげる条件は、ハルちゃんをきちんと私のところまで連れてくること」

「……してないんだけどね?」


 俺の言い返す言葉がとても小さくなったのは、決してやましいことがあったからではない。……きっと。


***


「――よし、んじゃ行くか」

「……はい」


 特に準備するものも無かったので、俺は軽く着替えを済ませて七瀬に声をかける。素直に玄関へと向かう彼女の後ろ姿を見て、リビングの電気を落とす。


 扉の向こうには、梅雨入りしたとは思えないほどに澄んだ空気の夜と空が広がっていた。ゆるゆると風が吹く、いい夜だ。


 この時間の外の雰囲気は嫌いじゃない。

 むしろ好きな方で、どこかわくわくとしてしまう自分がいる。それは、小さい頃からずっと変わらない。


 階段を降りて、駅への道のりを真っ直ぐに進んでいく。つい先日もこの道を七瀬と歩いたばかりだ。あの時は、潮凪さんも一緒だったけれど。


「……すみません。結局送ってもらうことになっちゃって」


 七瀬がぽつりと言う。

 別に送るくらいなら可愛いもんだ。むしろ、あのまま潮凪さんを怒らせておく方が怖い。


「まあ、散歩がてらだし別にいいさ」

「なんでちょっと楽しそうなんですかね」


 訝しげに俺を見てくるので、鼻を鳴らして応えておく。いつものコンビニエンスストアを横目に、駅への道に折れたところで七瀬がまた口を開く。


「せんぱいって、一体私が何をしたら怒るんですか?」


 ……どんな質問だよ。


「いいか七瀬。実は俺はよく怒ってる」

「私、見たことないかもです」


 おかしい。今まで何度も七瀬には怒ってきたつもりだったのだが。


「じゃあ今は、怒ってるんですか?」

「今は、怒ってないけど」

「……怒らないんですか? その、さっきの。……電話の、こととか」

「……心当たりがあるならやめろ。大体、なんであんなこと言い出したんだよ」


 悪ふざけのおかげでこちらはとんでもない目にあったというのに。七瀬はどこか迷うように視線を巡らせると、困ったように笑う。


「……なんででしょう? 勢い、かもです」

「勢いやばすぎるだろ前世イノシシ?」

「……蹴り飛ばしますよ?」

「ごめんなさい。けど、潮凪さん絶対怒ってたよなあ……」


 あんな声、聞いたことないし。

 そもそも、学校で潮凪さんが怒っているのを俺は見たことがない。


「葵ちゃんが怒ると、せんぱいは困るんでか?」

「いや困るだろ。すっ……ま、まあクラスメイトだし。隣の席だし」


 七瀬から殺気のこもった視線が向けられた気がして、思わず言い直す。今彼女の前で好きとかどうとか余計なことは言わない方が良さそうだ。


 ……それから駅に着くまで。

 俺と七瀬は特に何を話すでもなく。

 ただ夜の中を、星の下を歩いた。

 


 電車通学ではない俺たちは、大人しく切符を購入して二人で改札を抜ける。電光掲示板を見ると、すぐに電車は来るみたいだ。


 エスカレーターを登り、人もまばらなホームへと足を踏み入れる。先程までは家であんなに騒いでいたくせに、やけに大人しい七瀬。


「さすがに騒ぎすぎて疲れたか?」


 特に俺が意味もなく訊ねると、七瀬は小さく首を振る。そしてちら、とこちらを見たかと思うと、もぞもぞと居心地悪そうに身をよじる。


「さっきの、質問ですけど」

「……なんだっけ?」

「なんで、私があんなこと言い出したかです」


 そこで電話のことだと思い当たる。

 イノシシのやつね。言わないけれど。


「ああ。勢いだっだっけ?」

「半分正解です」

「なんでだよ。自分で言ってたろ」


「――取られたくないんですよ」


 七瀬はただ線路の方を見て。


「取られたく、ないんです」


 そんなことを言って。ひどく寂しそうに笑った。


「……取られたく、ない? それって」

「せんぱい、わたし――」


 七瀬が続けようとした言葉を掻き消すように、電車のアナウンスがホームに響く。


 開かれたままの七瀬の唇は、もう一度何か言葉を紡ぐようにゆるゆる動いたけれど、結局、その言葉の続きは俺に届くことはなかった。



 がたごとと、揺れる電車の中で考える。

 取られたくないだなんて、それはまるで……。俺は浮かんだ非現実的な考えを振り払う。


 見当違い、勘違いにも程がある。それはあまりにも、自分に都合が良すぎる考えだ。


 人もまばらな電車の中。

 七瀬は何も言わず、俺の向かいの席で窓の外を眺めていた。そして、五つほどの駅を越えて。

 潮凪さんの家の最寄駅へと、辿り着いた。


 一度七瀬と訪れたことのある駅だ。

 七瀬に着いて行くようにして改札を抜けると、聞き覚えのある声が聞こえた。


「ハルちゃん! 相馬くん!」


 声のする方を見ると、可愛らしく手を振る潮凪さんが立っていた。迎えに来てくれていたらしい。


 丈が長めの柔らかそうな素材のワンピース。白い駅の壁に、その濃紺の色がやけに映える。これからお出かけしますと言っても違和感がないくらいに彼女は様になっていた。


 久しぶりに潮凪さんの私服を見たせいか、いつもの制服とのギャップにそわそわしてしまう。彼女はとてとてとこちらに駆け寄ると、いつもの天使みたいな笑顔ではにかんだ。


 ふわ、とシャンプーの香りがして変な気持ちになる。お風呂上がりなのか、ほんの少し髪が湿り気を帯びているようにも見えた。


「こんばんは。相馬くん、わざわざごめんね? 来てもらっちゃって」

「あ、ああ。別にぜんぜん」


 俺はまともに潮凪さんの顔を見れず、曖昧な返事をする。怒ってはいなさそうで、俺はほっと息を吐く。


「こらハルちゃん。相馬くんに迷惑かけちゃだめでしょう?」

「べ、べつにかけてないもん。せんぱいがむしろ嬉しそうだったっていうか泊まって欲しそうだったっていうか」

「そうなの?」

「いや、そうなわけがない」


 答えると、潮凪さんは楽しそうにくすくすと笑った。七瀬は不満そうに俺を睨むと、ふいっと顔を逸らす。


「仲良さそうでなによりです。相馬くんがハルちゃんに変なことしてるんじゃないかと心配してたけど、大丈夫そうだね?」

「してないからね!?」

「えへへ、その辺りはこの後ハルちゃんにゆっくり聞かせてもらお」

「せんぱいの酷い話たくさんある」


 七瀬は潮凪さんに甘えるようにそんなことをつぶやく。てめえ七瀬……また変なこと言ったらタダじゃおかねえからなという思いを込めた視線をとりあえず向けておく。


 それから、いくつか他愛もない話をして。


「――じゃあこれ、相馬くんにお礼」


 そう言うと、潮凪さんは手に持っていた小さなお茶と、ポケットから可愛らしいパッケージをした飴の箱を出して渡してくれる。


「……ありがとね?」


 彼女は耳元で小さく囁いて、甘い香りと共に百点満点みたいな笑顔を残していく。


「こ、こちらこそ」

「ほら、ハルちゃんも。……ハルちゃん?」


 潮凪さんが呼ぶと、七瀬はハッとしたようにこちらを見る。一度目を伏せたかと思うと、無理矢理作ったみたいな笑顔を俺に向けた。


「せんぱい、ありがとうございました」

「どういたしまして」


 その笑顔に違和感を覚えつつも。


「それじゃあ相馬くん、また学校で」

「うん。潮凪さんも家まで気をつけて。七瀬も、またな」


 二人に手を振って、俺は元来た改札をもう一度抜けていく。






 ――せんぱいの後ろ姿が、見えなくなって。


「――よし、それじゃあハルちゃん帰ろっか」

「うん」


 私と葵ちゃんは、歩き出す。


「……優しいよね。相馬くん」

「……うん」

「相馬くんの晩ごはん、いいなぁ。次は私もお願いしてみようかな」

「…………」


 昨日の夜、電話したとき。

 今日のお昼に話をしたとき。

 ううん。きっと、もっと前から分かってた。


「……でもハルちゃん、急に相馬くんの気になる人聞いて欲しいって言ってきたかと思ったら、晩ごはんも一緒に食べたりして」


 葵ちゃんはいつもの優しい声で。

 でも、ほんの少しだけ寂しそうに笑って。


 知りたくなかった。

 聞きたくなかった。


「――やっぱりハルちゃんも、相馬くんのことが好きなの?」


 私は何も、答えられなかった。



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