第33話 べたで下手なラブコメ

 意気揚々と俺の部屋から出て行った彼女は。

 ものの数十秒で、また俺の前に立っていた。


 赤く染まる七瀬の頬は、扉の向こうに広がる夜の中でも綺麗で。ゆるゆると吹く風でなびいた髪は、彼女の顔を隠すように揺れる。


「か、鍵が無いって」

「……お、落としたのかもしれません」

「ど、どこに」

「……たぶん学校か、帰り道だと思います」


 七瀬は俯いたまま、ぽつりとつぶやいた。

 俺は慌ててポケットからスマホを取り出し時間を確認する。二十一時手前。


 もし仮に学校に落としていたとして、今から行っても開いているものなのだろうか。いや、そもそもどこにあるのか分からない以上、闇雲に探したのでは夜が明けてしまう。


 ……しかし、なんで今日なんだ。

 まだ俺はまともに七瀬の顔を見れない。先程までの彼女の表情が、声が、言葉がずっと纏わりつくようにすぐそばにある。


 ふと、髪の間から覗いた七瀬の瞳と視線がぶつかる。不安そうな、申し訳なさそうな表情。


 捨てられた子犬か子猫みたいなその目は、どうにも守ってやらないといけないという気持ちにさせる。……ずるくないだろうか。


「と、泊めて欲しいわけじゃないですから」

「……とりあえず、入れよ」

「べつに、泊まりたいわけじゃありませんから」

「なんで二回言った。泊めるなんて一言も言ってないからな」


 扉を閉めて、鍵を掛ける。

 ついさっきまで一緒に居て、もう一度会っただけのこと。それなのに、何故こんなにもそわそわするのだろう。


「た、ただいま」

「違う。お前の家はここじゃない」

「……言ってみたかっただけです。お言葉ですが、まだせんぱいが私の鍵を隠して泊まらせようとしている可能性が捨てきれていません」

「今すぐ捨てろそんなもん」


 家に入った途端強気になる七瀬。こいつ、まさか鍵無いふりしてふざけてるだけじゃないだろうな……。


 俺は七瀬を元いた場所に座らせると、机を挟んだ向かいに腰掛ける。ひとまず部屋の中にありはしないかと一通り見てはみるものの、鍵らしきものは落ちていなかった。


 ……となると。


「正直言うと、今この時間から鍵を見つけるのは現実的じゃないと思う」


 少し落ち着いてきた俺は、ひとまず彼女にそう告げる。


「どっ、どこで寝ろって言うんですか!」

「気が早すぎる! 人の話を聞け!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ七瀬に叫び返す。

 こいつ、もう泊まる気満々じゃねえか!


 それだけは絶対に避けなければならない。色々アウトだし、俺の精神が持つ気がしない。


「……いくらでもやりようはあるだろ」


 俺は仕切り直すように息を吐いて、いくつか思い浮かんだ案を挙げていく。


「ベランダづたいに七瀬が自分の部屋に戻るというのはどうだ」

「危ないですし、戻った後どうやって家に入るんですか。鍵閉まってますよ」


 ……それもそうだ。


「千歳の家に泊まるってのは? ここから割と近いんだろ?」

「いやです。今あの子の家に泊まるのは身の危険を感じます」


 ……それは、分からないでもない。ただ、俺の家に泊まる方にも身の危険を感じてほしい。


「じゃあ潮凪さんの家だな。迷惑かもしれないけれど、それしかない」


 言うと、七瀬は唇を尖らせてこちらを見る。


「……せんぱいは、そんなに私が泊まるのが嫌なんですか?」

「そういう問題じゃない」

「私、ベッドでいいですよ? 先輩は床に寝てもらって」

「それだと七瀬が風邪を……俺じゃねえか! さらりと人を床に寝かすな遠慮しろ!」


 なんなんだよこの後輩は。しゅんとしていたかと思えば生き生きとしやがって。

 手で口元をおさえて楽しそうに笑う七瀬に半目を向けて、俺は続ける。


「決まりだ。潮凪さんに連絡して、理由を話そう。事情も事情だし、相談する価値はある。てか、そもそも……」


 親に言えば、と言いかけて俺は口をつぐむ。


 ……七瀬から、親の話を聞いたことはない。俺は彼女が一人暮らしをしている理由を知らないし、それについて聞く権利も持っていない。


「…………?」


 急に黙り込んだ俺を不思議そうに見つめる七瀬。もし、そのことに触れる時が来るとしたら。多分それは俺からではないと思った。


「……いや、なんでもない。潮凪さんに連絡してみる。それでいいな?」

「……仕方ないですね。分かりましたよ」


 七瀬はしぶしぶといった様子でポケットからスマホを取り出す。ついついと何度か彼女の細い指が画面をなぞると、小さくぷるるる、と呼出音が鳴った。


 七瀬の耳に当てられたスマホから何度か呼出音が繰り返されたかと思うと、その音が途切れる。


 続けて、『――もしもし?』と可愛らしい声が聞こえた。潮凪さんだ。


「あ、葵ちゃん? ごめんね、夜遅くに。うん、うん」


 七瀬は俺と話すよりも二段階くらいやわらかい声音で話をしている。

 潮凪さんが何を言っているのかはよく聞こえないが、彼女と電話が繋がっているという事実に緊張している自分がいた。


「――それでね? 電話したのが、わたし家の鍵落としちゃったみたいで……おうち、入れなくて……」


 電話の向こうで慌てている声が聞こえる。

 そりゃあそうだ、妹みたいに可愛がっている子からこんな時間に家に入れないと連絡が来れば、誰だって慌てるだろうよ。


「ご、ごめんってば。うん。多分学校だと思うから、明日バイトの前に寄ってみる。……あ、い、今? うぇ……えーっと、今はそ、相馬先輩の家にいるんだけど」


 七瀬は気まずそうにちら、とこちらを見る。

 思わずおい、と言いそうになるのをぐっと堪える。そこは言わなくても良かったんじゃないか!? いや、やましいことはない。なにもないんだ。


「だ、大丈夫だって。大丈夫。だからね……うん。分かってるってばっ!」


 七瀬は子供みたいに言い返す。

 きっと潮凪さんは迷惑かけちゃだめだとか、注意してくれているのだろう。うんうん、もっと言ってやってください。


 これなら安心だと、俺が息を吐いた時。


「だ、だから! 相馬先輩が泊まっていけって言ってるんだってば!」

「――言ってねえ!!」


 思わず声が出た。

 な、な、なに勝手なこと言ってくれてんだこいつは。


「お、おい! 七瀬!」


 俺は電話をする七瀬に、ひそひそと声を掛ける。七瀬は聞く耳を持たないようで、さらにボリュームは上がる。


「――お風呂も入っていけよって!」


 俺は全力で首を振る。


「――責任は取るって言ってるもん!」

「なんのだよ!!」


 俺は七瀬から携帯を奪い取ろうと手を伸ばす。七瀬も奪い取られまいと、身体を捻るのが見えた。強く踏ん張ったせいか、床のカーペットがずるりと滑る。


「あ」

「えっ」


 崩れた体勢のまま、俺は七瀬の方へ覆い被さるように倒れ込む。彼女にどうにか触れないようにと無理矢理突き出した手は、まるで七瀬を両手で挟み込むような形で床に着く。

 

「…………あ」

 

 七瀬のうっすらと開いた唇から声が漏れる。

 驚いたように見開かれた目は、真っ直ぐにこちらに向けられていて。きめの細かい整った肌は、だんだんと紅潮していく。


 心臓が張り裂けそうなほどに鳴っている。

 すぐにでも目を逸らさなければいけないのに、どうしても七瀬の顔から目が離せない。


「…………っ」


 重力に負けるように、彼女の髪がそっと落ちる。七瀬はきゅっ、と下唇を噛むと、少しだけ顔を逸らして目を閉じた。


 俺は息を呑む。

 時間が止まったような、そんな気がした。


『――?』


 止まった時間を裂くような。

 暗く、重く、凍えるような声が、俺の背筋をぞわりと撫でた。


 七瀬のすぐ側に転がったスマホが目に映る。

 画面には、『葵ちゃん』の文字。


 もう一度、七瀬の方を見る。

 上気した彼女の頬と潤んだ瞳。

 ……俺はおそるおそる身体を起こし、七瀬のスマホを握る。


 無意識のうちに俺は正座をして、それを耳に当てた。


「…………こ、こんばんは。相馬遼太郎です」

『…………こんばんは』


 潮凪さんの声だ。そのはずなのに、温度のない機械と話しているような気持ちになる。

 続けて、震えるような声が聞こえた。


『一体。な、なにしてるのかな?』

「……は、はい」


 俺は自らに問う。

 俺は一体、何をしているのだろう。

 そして、思う。べたで下手なラブコメみたいな展開は、実際に起こるものなのだと。

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