第32話 おすすめですよ
「て、てことは……」
俺は七瀬の言葉をゆっくりと噛み砕いて理解する。もし急に知り合いに『あの人に気になる人がいるのか聞いてほしい』なんて言われたら、どう思うだろうか。
……俺ならまず間違いなく、ああ、その人のことが好きなんだろうなと思うだろう。
「し、仕方ないじゃないですか! 私も多分どうかしてて……夢だったかな、と思ったんですけど。朝起きたら履歴残ってるし、その、お、お昼に葵ちゃんに会った時にそういう話になるし……」
七瀬は両手の指をいじいじと合わせつつ、ごにょごにょ居心地悪そうにそんなことを言う。
俺はぐるぐると巡る思考の中で問う。
「潮凪さんは、なんて……?」
「……せんぱい、気になる人は居るって答えましたよね」
「答えたな」
「……は、ハルちゃんかもしれないよって」
顔を赤らめて、消え入りそうな声で呟く七瀬。……まったく。謝りたいこととか言うから、一体どんなことが起きたのかと思えばそんなことか。俺は頭を掻きつつ答える。
「あのなあ……」
「で、でもせんぱいが葵ちゃんのこと好きってバラしたわけじゃないですし私のことを言うのは自由ですし!」
――ちょっと待て。
俺は今、何を思った?
自分自身の考えに絶句する。
「……せんぱい? ど、どうしたんですか?」
七瀬はこちらの様子に気づいたのか、訝しげに顔を覗き込んでくる。
俺は今、なんだそんなことかと思ってしまった。自らの好きな人に、別の人を好きなのだと思われた可能性があるのに、だ。
潮凪さんのことは、好きだ。今でも彼女のことを考えると心臓が高鳴るし、顔を見るだけで嬉しい気持ちになる。話が出来た日は幸せだ。
なら、何故? 俺は頭を抱える。
おろおろとしている七瀬が目に映った。
……この話が出来るのは、彼女しかいないのかもしれない。俺は怒られるのを覚悟して口を開く。
「……七瀬、ちょっと恋愛相談してもいいだろうか」
「ふぇっ!?」
驚いたように目を白黒させる七瀬。
そりゃあそうだ。今までこんなことを七瀬に言った記憶は無い。いきなり言われれば、そういう反応になるのも仕方ない。
「れ、れ、恋愛相談って。わ、私にですか」
「そうだ。むしろ七瀬にしか出来ない相談だ」
俺はむずむずとした恥ずかしさを覚えつつ答える。七瀬はわずかに逡巡したかと思うと、覚悟を決めたようにその瞳で俺を見据えた。
「――ど、どんとこいです」
***
もう何度七瀬に出したか分からないカフェラテを机の上に置いてやる。時計の針は既に二十時を回っており、時間の経つ早さに驚く。
「……あの。私、これ飲むとなぜか寝れなくてですね」
「だと思ったからカフェインレスの豆を用意した」
俺は台所の横のテーブルの上、ブルーのキャニスターを指さす。こちらも夜に何度も寝れない寝れないと連絡されたのではたまらないからな。そう思えば安い投資だ。
七瀬は俺とそのキャニスターを交互に見ると、なぜか頬をほんのりと染め、何かを堪えるように小さく唇を噛んでそっぽを向いた。
「……そ、そういうとこですよ」
「ん? なんか言ったか?」
聞き返すと、七瀬は不満そうな表情を浮かべたまま、カフェラテを手に取って一口飲んだ。
「それで、その。れ、恋愛相談というのは」
「……あー。それなんだけど」
少し間を置くようにして、俺も温かいカフェラテに口をつける。程良い苦味が口の中に広がった。
「さっき、七瀬が俺に謝らないといけないと言った話あるだろ? ……あれ聞いた時、俺はなんだそんなことかと思ったんだ」
「へ?」
七瀬が間抜けな声を漏らす。
「好きな人にそんなことを言われたら普通、というか、今までの俺ならまず間違いなくやりやがったな七瀬、となっていたと思う。んだけど……な、ならなかった」
「それ、はどういう」
俺は何と言うべきかと頭を悩ませる。
七瀬は期待とも不安とも取れる表情を浮かべていた。
うんうん唸った所で答えが出る気もせず、俺は諦めてありのままを彼女に伝えることにする。
「もっと言えば、俺は今日潮凪さんに気になる人を聞かれた時。潮凪さんと……も、もう一人、思い浮かんだやつがいた」
俺がどうにか言い終えると、七瀬は立ち上がり叫ぶ。
「せ、せんぱい最低ですっ! 葵ちゃんだけじゃ飽き足らず、また他の女にうつつを……ほ、かの、女……?」
なにかが引っ掛かったように、七瀬の語気から力が抜けていく。
そうして、彼女はその言葉を何度か繰り返す。俺は気まずくなってテレビの方へ顔を向けた。
「ちょっと待ってください。それって……まさか」
「いや違う。俺は潮凪さんが好きだそのはずなんだ。だからこれはおかしい。おかしいんだ」
緊張のせいか、ごくりと喉が鳴った。
ちらと目を向けると、七瀬はまるで今から告白でもされるみたいに赤い顔をして目を泳がせている。
今までそんなはずはないと目を向けていなかった部分。ありえないと、自らに勘違いをするなとずっと言い聞かせていた部分。
「……せ、せんぱいが思い浮かべたもう一人って、だ、誰なんですか」
今思えば、彼女に出会ってからはずっとどこかにその姿はあった気がする。
「俺の後輩で、めちゃくちゃ生意気で……すごく美味しそうに晩ごはんを食べるやつなんだが」
俺は震えそうになる声を抑えつつ、言う。
七瀬の顔がぼわっと燃えるように染まった。
「――つ、つ、つまりせんぱいは。葵ちゃんも好きだけど、わた、私のことも……」
「そ、そう聞くとすごく最低の野郎みたいになるから相談してるんだけどな……」
改めて七瀬の口からはっきり言葉にされると、そうなのかもしれないとじわじわ実感してしまう。その熱は、まるで侵食するかのように俺の身体を巡る。
「わ、私に言われてもですね」
「……その通りだ。もしかしたら、俺もちょっとおかしくなってるのかもしれない」
自分でも不思議なくらい自然に、笑みがこぼれた。自らのことさえちゃんと分からないのだから、本当に困ったものだ。
七瀬はそんな俺をじっと黙って見ていたかと思うと。
「……それは、せんぱいがちゃんと考えないといけないことです」
そう言ってまたふいっと顔を逸らしてしまう。まったく七瀬の言う通りだ。これは俺が、はっきりさせないといけないことだから。
そうだよなと、俺が口を開くよりも早く。
「――でも、もしせんぱいに。そうですね、ひとつだけアドバイスをするとしたら」
まるで、独り言を言うみたいな声音だった。
七瀬はこちらへ歩み寄ると、すとん、と俺のすぐそばに腰掛ける。そして、こほんとわざとらしく可愛らしい咳払いをして。
「そ、その後輩は……おすすめですよ?」
俺をまるで透き通る夜空のような瞳で見つめ、こしょこしょと内緒話をするみたいに囁く。
……俺は不覚にも、その後輩に見惚れてしまった。
七瀬はすぐに俺に背を向けると、いつの日かと同じように鞄を引っ掴むとすぐに立ち上がる。
「は、話は終わりですねっ」
向こうを向いたまま、髪を手ぐしで整える七瀬。俺も慌てて立ち上がる。
「そ、そうだな」
「ごはんも、カフェラテも、ご馳走さまでした」
俺は彼女の顔を真っ直ぐに見ることが出来ない。心臓がどくどくと鳴って言うことを聞かない。なんなんだこれ。さっきまで二人でバカみたいなゲームをやっていたとは思えない。
「せんぱいは、精々今日は一人でゆっくり考えることです」
「そうさせて、もらう」
「――今日は、私のかちです」
七瀬は玄関に向かいながら自慢げにそう言うと、えへへ、と自慢げな子供みたいに笑った。
「じゃあ、私は気分良く眠らせてもらうとしますので」
とんとんっ、とさよならの合図みたいにローファーが玄関の床を叩く。重い音をさせて開いた扉から、涼しい夜風が吹き込んで七瀬の髪をさらさらと揺らす。
「せんぱい、おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
最後に手を振った彼女の表情は。
とても幸せそうで、思わず呼び止めてしまいそうになる。
ガチャリ、と閉じられた扉の前で、俺はしゃがみ込み、大きく息を吐いた。
今日一日で、なんだか全てのものが変わってしまったような。そんな感覚に陥るほどに、長い、長い一日だった。
……風呂にでも、入ろう。
今日はお湯をたっぷり貯めて、ゆっくり浸かって。俺が考えるべきことを、考えてみよう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、立ち上がった時だった。
玄関に、チャイムの音が鳴り響く。
一瞬どきりとするが、すぐに七瀬が忘れ物でもしたのだろうと思い当たる。
鍵をまだ閉めていなかったことに気づき、俺は扉をおそるおそる開く。扉の間から、七瀬の制服姿が見えた。
「どした? 忘れ物か?」
訊ねると、七瀬は黙ったままふるふると首を振る。どうも様子がおかしい。何かあったのか?
「…………んですけど」
「ん?」
ぼそぼそと七瀬がなにかを言う。
まさか不審者が、と辺りに目をやるがその気配はない。
「七瀬? 大丈夫か?」
もう一度声をかける。
ようやく顔を上げた七瀬は真っ赤な顔をして、だらだらと汗を垂らしながらつぶやいた。
「――い、家の鍵が。無いんですけど」
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