第31話 謝らないといけないこと
机を挟んだ向こう側。
七瀬は床に寝転がったまま、まだ少し乱れた息を整えようとすう、はあと呼吸をしている。くすくす、と時々囁くような笑い声が聞こえた。
「ぜ、絶対に俺はこんなBGP認めないからな」
まったくもって騒ぎすぎた。とんでもないゲーム、いや、そんな可愛いものではない。ただの嫌がらせだった。
七瀬がぱんぱんと手を叩く音が、まだどこか遠くで鳴っているような感覚になる。
俺も息を整えようと、深呼吸しながら床に背中からどっと倒れ込む。見慣れた天井が映り、オレンジ色の電球の光が目に染みる。
「せんぱいは約束を守る人ですから」
七瀬は笑いが堪えきれないのか震えるような声でつぶやくと、またふふっ、と笑った。
「大体おかしいだろ。し、潮凪さんと七瀬のどっちの声が好きかとか、二人にして欲しい格好とか知るかよ!」
「せんぱいって私の声、好きなんですね」
「い、いや。それは咄嗟に出ただけで……」
「せーんぱいっ?」
寝転んだまま頭だけをこちらに向け、にやにやとする七瀬と目が合う。俺は恥ずかしさに唇を噛む。こ、答えにくい質問ばかりしやがって。
……しかし、こんなに楽しそうに笑っている七瀬を見るのは初めてかもしれない。
いつも不機嫌そうな顔ばかりではなく、そんなふうに笑ってればいいんだ。まあ、俺をからかう以外でお願いしたいのだけれども。
「はあ、ほんと面白かったです。……あ。わたし、汗かいちゃったのでちょっとお風呂借りますね」
「ったく。ちゃんと返せよ」
笑いすぎたせいなのか、目尻の涙を拭いつつ起き上がった七瀬を見て、俺も身体を起こす。
隣の家の人から苦情が来ないといいが……なんて思いつつ、片方の部屋は七瀬だと気づく。
反対側の部屋の人は会ったことがないし、生活音もあまり…………ん?
――今、こいつはなんて言った?
俺は慌てて七瀬の方を見る。突っ立ったまま、こちらをぽかんと見つめる七瀬。
「あ……。えと、じ、じゃあちょっと着替えを取りに……」
七瀬はしどろもどろになりながら、鞄の中をごそごそと漁り始める。
俺の聞き間違いでなければ。お、お風呂? こいつ、お風呂って言ったか?
「ま、待て七瀬。今のは違う。お手洗い借りる感じでお風呂を借りようとするんじゃない」
「ち、ちゃんと返しますって」
「そうじゃない。よく考えろ。お、お風呂はダメだろ」
「でも今日は泊まっても良いって」
「それは言ってないぞ! 断じて言ってない!」
七瀬は納得いかないようで、唇を尖らせたままこちらに向き直る。
「では、ダメな理由を聞きます」
「むしろ良い理由がひとつもない」
一緒に晩ごはん。それくらいなら許されてもいい。まだ健全なものだろう。……うん、少しアウトな気もしてきたが、気にしたら負けだ。
だが、お風呂は天地がひっくり返ってもダメだろ。泊まるだなんてもってのほかだ。
「じゃあせんぱいは、もし雨に濡れてびしょびしょのかわいい後輩が風邪を引きそうだとしても、お風呂を貸さないんでしょうか」
「雨に濡れた後輩なんて都合の良いものはここにはいない。あと自分の家で入れよ。俺の家で入るな」
「後輩の家がすごく遠かったものとする」
「数学の問題か。隣だろお前の家は」
むうう、と七瀬は不満げに頬を膨らませる。
「お、お風呂を作りすぎちゃったものとする」
「ど、どんな状況だ! いいか七瀬、何があってもお風呂も泊まりもダメだ」
「……じゃあ、葵ちゃんならいいんですか?」
拗ねたようにつぶやく七瀬。
な、なんでそこで潮凪さんが出てくるんだ。
「し、潮凪さんでもダメなものはダメだ」
七瀬は「それなら」とだけ言うと、少し躊躇うように視線を泳がせてから、ちらりとこちらを見る。
「どうしたら、お風呂もお泊まりもいいよ、ってなりますか?」
「そ、それは……」
俺は言い淀む。男の家で女の子がお風呂に入って、お泊まりもオッケーになる状況なんて、俺はひとつしか知らない。
「つ、付き合ってる相手……とか、なら。いいのかもな」
「…………っ。ふ、ふうん。そうですか」
それだけ答えると七瀬は黙り込み、俺と彼女の間に沈黙が流れる。
今この部屋で唯一音を響かせるテレビの画面では、旬のアーティストが聴き飽きるほどに聴いた曲を歌い上げていた。
「――だから」
「――き、今日私が」
俺と七瀬の声が重なる。
「……だから、なんですか?」
「そっちこそ。今日、なんなんだよ」
お互いが探るような視線を送り合う。
やはり、なにかあるのか。
今日七瀬はゲームをしに来たんです、などと言っていたがそんなはずはなかった。あの七瀬が具材まで用意して俺に言おうとしたこと。
「……私が今日ここに来たのは。ゲームをしたかったからじゃないんです」
……さすがにそれは分かる。俺は続きを促すように頷いた。
「じ、実は。せんぱいに謝らないといけないことがあってですね」
七瀬はその艶のある髪をくるくるいじりつつ、ぼそぼそとそんなことを言う。
――謝らないと、いけないこと? 考えてみるが、特に謝られるいわれも心当たりも特にない。
「なんか、あったっけ?」
「今日、おかしなことありませんでしたか?」
変な質問だな、と思いつつも一日を振り返ってみる。そして、すぐに思い当たる。
「七瀬がカレーの具材を持って立ってたのが一番おかしなことだったな」
「……やっぱり謝るの、やめとこうかな」
「おい」
七瀬は呆れたように俺を見ると、はあ、と息を漏らす。
「……怒らないなら、言いますけど」
「怒らない」
「ほ、ほんとですか?」
「ほんとだって」
まったく。ここ最近のことを思えば、今更何を聞かされても怒ることなどない自信がある。
七瀬は、おずおずと口を開いた。
「今朝、せんぱいに……か、勘違いしてもいいって言いましたよね」
「……い、言ってたな」
その時のことを思い出して、僅かに心臓の鼓動が速くなる。まだその言葉に対する答えは、自分の中で出せていない。
「ちょっと昨日の夜の私は、おかしかったみたいで」
気まずそうに七瀬は俺から目と身体をすすす、と背けて何故か体育座りをする。
「せんぱいは葵ちゃんが好きで、そんなこと分かってて。邪魔をしちゃいけないってことも分かってて、でもどうしてもじっとしていられなくてですね」
続く言葉を待つ俺は、息を呑む。
そうして七瀬は、おそるおそる顔だけをこちらに向け、申し訳なさそうな声で言った。
「どうも私、電話で葵ちゃんに、せんぱいの気になる人を聞いてもらうようお願いしちゃったみたい、なん、ですけど……」
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